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『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

お金の話

2013年04月27日 00時29分29秒 | 「モモ」お金を考える
どうしたら、お金に気がついてくださるのだろうか?

原始、お金という媒介物はなかったのだ。

物を物と交換された。

物の価値と同じ、金などなかった。

物は、人によって価値がちがうのが当たりまえだった。

それから1000年、2000年、1万年か、時が経った。

あるとき、お金が生まれた。いや、生んだのだ。

では、今夜、もうひとつ。お金の話。たとえば、1万円のうち、すでに3000円が負債(マイナス利子)として付与されているという事をご存じですか? 1万円をもっているということは、すでに3000円の借財を背負わされているという話を聞いたことがありますか? おそらく、理解の範疇を超えた話でしょう。聞いたこともないから。現行のお金というものは、マイナスからスタートして有るということです。そこに税金以上の過酷な、しかし、明かされていない制度が組み込まれているという話を聞いた事がありますか? ないでしょう? 考えたこともないからです。いくら稼いでも、マイナスにしかならない制度をご存じですか? ファイナンシャルプランナーも知らない話です。

世界は、お金で苦しんでいる。アフリカも南米も、お金に関係ないようなと思える地域も、お金に苦しまされている。

ここで、ぼくが書くことなど、どうでもいい。

あなたが、毎日、常識だと思って、サイフにしまっている、そのお金のことを、しばし、しげしげと、眺めて、コレなんだろうと思ってみて、なにを感じるか、それだけのお話です。

モモがいう、お金ってなあに?

彼らは何国人なのか

2013年04月24日 23時31分03秒 | 「モモ」お金を考える
「日本の財務相首脳や金融機関の首脳は、誰と一体感を持っているのでしょうか」と、「戦後史の正体」の著書、孫崎亨氏は、問い掛けます。

孫崎氏の意見は、彼らは「米国を中心とする金融関係者と共通の価値観を持っている」とし、「同じ日本人の一般国民と同じグループにいるという感覚は希薄」だと思うと述べている。

私は、ずっと疑問に思って来た。なぜ、同じ日本人が日本人をおとしいれるような行為を続けているのだろうかと。その理由は、拝金主義、或いは、保守からの帰結だろうと考えてきました。

しかし、孫崎氏は語ります。「彼らは、一般国民の日本人と同じ感覚ではない」と。

ハッとしました。そうか! その感覚が了解できたのです。永らく探っていた謎の理由がわかったのでした。

彼らは、日本人ではないのです。この国で生まれ、遺伝子は日本人タイプであっても、幼少の頃から全く違う環境(家庭)、教育で育った者たち。東大法学部へ進み、官僚、金融界へ進んだ者たち。彼らは国家に依拠しておらず、ゆえに、グローバリストと呼ばれている。

それを私たち一般国民は、エリート、キャリアと呼んでいるのです。彼らに生活をゆだねているのです。

問題の不明がすべてそこにあるのです。明治からそれが始まって、ずっと今に続いています。原発もtppも、どれもこれも。

誰が悪いのか、それを知らないで、ゆだねた私たちです。あなたです。

元凶を知らなければ、無力のままです。いくら反対運動をしても、徒労に終わります。感情だけで騒いでも、旗を振っても、何も変わらない。何がそうさせるのかを、根本を知らなければ、バカな愚衆のままです。悪知恵には、知恵でしか対抗できない。私たちは無知を知り、面倒臭がらず学んで、ワンパターンを脱するしか、世界を変える道は無いと云うことです。

「奴隷は自らが望んで、奴隷となる」

彼らにそんな放言を言わせておくか、おかないか。どうするのか。

「私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ。そうすれば誰が法律を作ろうと、そんなことはどうでもよい」(マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド)

モモ その12

2011年11月09日 23時18分58秒 | 「モモ」お金を考える
さて。どうする。あなたはどう考える。TPPは、150年ほど前は日米通商条約だったし、66年前はポツダム宣言だったし、ずっとアメリカと付き合わされてきた我が国は、その路線を歩んできて、ここに至っている。

難しく考えることはない。シンプルに、今後の世界を思い描けばいい。世界の鬼っ子を演じてきたアメリカは、オトモダチの同盟国だ。その歴史はどう意見しようが変わりない。

明日、野田総理はテーブルに着き、意志を表明する。経団連VS農協。経団連会長の米倉氏は住友化学の代表で、世界最大の種屋(遺伝子組み換え作物)の米国企業モンサントと業務提携をしているそうで、TPP推進は利害が一致している。片や農協は国内農業を守る姿勢は当然だ。

日本国は経済(利益)で二分している。政治は後付けだ。政治家はマリオネットに過ぎないといえば言い過ぎかな。世界は経済成長というラットゲームから降りられないのだから、戦略的であり、経済戦略は必須ならば、政治はやはり詭弁に過ぎないことになる。黒服が本当の戦士だろう。

それでいいのか、という話をしているだけである。ほんとうに。

(つづく)


モモ その11

2011年11月06日 15時18分15秒 | 「モモ」お金を考える
今、TPP(環太平洋貿易協定)で国が揺れ動いている。一般のマスコミ報道では、その中身を詳しく伝えないので、自由貿易のようなものと思われていて、関税障壁が取っ払われたら、貿易が盛んになって物が安くなっていいんじゃないか的な感覚でいる人も多いようだ。まわりの大人に聞いても、ほとんどがそんな感じである。

とんでもない話で、日本の農業が壊滅どころか漁業も食い物にされ、医療や保険、金融、食品など、国民の生活全般に関わる24項目が対象になり、国が規制している食品衛生法や薬事法に対して、いちゃもんがつけられるアメリカ主導の不平等条約そのものといわれている。規制緩和・撤廃について、外資、投資家が有利な「非公開裁判」にかけられ、日本を訴えることができるのだ。

昨日のテレビニュースで、自民党の谷垣総裁がTPPに対して「あまりにも情報がないので、賛成反対が言えないが、今性急に参加することには賛成できない」としゃべったが、情報が得られないとはどういうことだ。政治家がわからないものが、どうして国民を納得させられるのか。これが「TPPおばけ」(前原発言)の真相だ。

その谷垣や前原の発言はどうやら嘘っぱちで、TPP加盟国の実情は分かり切っていて、ニュージーランドなどは漁業権をめぐる訴訟をアメリカ企業から起こされ、大問題になっているのだ。すでにTPP問題の情報はあるのである。国益を守るとすれば、反対と即、言えるのだ。

谷垣総裁が情報がないと言っているのは、実は、こういうことだ。
「TPPの交渉内容は参加署名するまで非公開」とされている。だから事前に検討するにも、どんな交渉になるかわからない。それが情報がないという意味である。つまり、「とにかく参加しろ、早くテーブルにつきな。そういしたら交渉の中身を話してやるから」ということである。しかし、その交渉内容はすべてアメリカ議会で承認されなければならないと決められている。

はあ~?
それって、どういうことよ。対等な交渉じゃないじゃない。
おかしいでしょう。TPPって。
いや、滅茶苦茶なのだ。

もちろん、こんな馬鹿げた条約をもちかけているのは、黒服の大親分である。それに楯突けないから、国内で反対派と賛成派に分かれてしどろもどろしているのが実情なのだ。一般国民つゆ知らずで。

(つづく)


モモ その10

2011年11月05日 18時17分42秒 | 「モモ」お金を考える
ここで書いてきたことは理解しにくい内容だろう。ぼく自身、地域通貨についての本や、ネット(数年前にNHKBS放送で「エンデの遺言」を放映)を観ても、どうも実感が湧かなかった。生まれてこの方、お金が身に染みついているからだろう。

しかし、そのお金というものが機能しなくなり、世界不和の元凶だと知っていくうちに、まったく正反対のシステムである「減価する通貨」が未来のお金のあり方だと思うようになった。そして、この日本の過去をみれば、江戸時代まで、「米本位」の国だったことに気がついた。米は1年で古米(減価)するから、勢い流通し、人々を養う。

であれば、江戸までのシステムを現代版に置き換えたら、富みは集中せず、人々を生かす血流となる。そんなことが可能なのか。不可能ではないが、九分九厘無理だろう。ただ、地域通貨というように、採用する地域が出る可能性はある。

たとえば、島民6万人の新潟の佐渡などは自給自足できる環境資源があり、モデルに成りうるエリアである。沖縄の宮古島などの島々もモデルになるかもしれない。沖縄には「ゆいまーる」といって、元から相互扶助システムがある。村は運命共同体といわれたように、昭和の時代まで、日本のどこも相互扶助の精神は珍しいわけではなかった。その精神に立ち返ることができるか。いや、今後はそうならなければ生きていけない人間が増えるだろう。

実は、今、その瀬戸際に日本は立たされているのだ。これからそう遠くない時点で、日本は一度、でんぐりかえることになる。TPP問題である。そのままあれよあれよという間に「バス」に乗せられて、テーブルに着いたらもう反対も何もかなわない不平等条約を結ばされるだろう。そうなると、今の生活が一変してしまう。生活困窮者が増え、助け合うか見捨てるか・・・TPP加盟国ニュージーランドのジェーン・ケルシー教授が先頃、来日して仙台講演で「いったん入ったら変更できない、出られない、国の権限は全く役に立たない」と語った。その警告は、まだ多くの日本国民に届いてはいない。

(つづく)


モモ その9

2011年10月29日 16時02分32秒 | 「モモ」お金を考える
1900年代初頭に自由貨幣(消滅貨幣、スタンプ貨幣)を提唱したシルビオ・ゲゼルの思想は、ドイツを始め、ヨーロッパ社会の一部のコミュニティに受け継がれたが、世界大戦の怒濤がその萌芽を潰し、強国であることが最大目標となっていった。戦争は最大の産業である。失業者は戦地へ赴けばよいのだ。

だが、自由貨幣の種は残っていた。地域通貨として各地のコミュニティで取り組まれ、現在、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、オランダ、アメリカ、ニュージーランドなど2000余りの地域で実践されている。ちなみに、コミュニティのcom(互いに) munus(贈り物)の語に由来するとされる。

地域通貨は、ゼロ利子もしくは減価する通貨である。あくまでも物・サービスの媒介だ。地域通貨をどれだけ所有しても、そのものが価値を持つことはない。ゆえに、人と人が互いに物・サービスを贈り合う。まさにコミュニティの血流といえる。

数あるコミュニティの地域通貨で、アメリカの例を紹介しよう。ニューヨーク州トンプキンス郡イサカは、コーネル大学を中心とした3万人学園都市だ。1991年、生協組合のスーパーマーケットで誕生したのが「イサカアワー」と呼ばれる地域通貨だった。組合会員がこのイサカアワーに参加希望し手続きすれば、会員相互で物・サービス・技能を売り買い出来る。自家農園の野菜、手作り品、ガーデニング、ピアノレッスンなどなど。

1アワーは10ドルに相当し、それに見合う料金を互いに決めている。また、イサカアワーに参加している商店で買い物も出来るし、銀行ではローンなどの支払いも出来る。この町でなら、イサカアワーでの生活がかなうのである。今日のパン代に困れば、情報欄をみて、買い物代行でも庭掃除でもすれば、空腹に苦しむことはない。アメリカの法律では、ドル紙幣に似ておらず単位が10ドル以上の紙券であれば合法とされる。日本では地域通貨は違法となるから、まさに夢のようなシステムだ。

この東京で以前、「便利屋」なるものが流行って、よくポストにチラシが入っていた。買い物、掃除、子守り、話し相手なんでもやります。でも、その仕事が活況だと聞いたことがない。見ず知らずの人間を使おうという家庭が少ないからだろう。しかし、イサカの場合はコミュニティ会員相互の信頼関係があり、イサカアワーを媒介して機能している。交流が深まり、人と人の絆が太くなって、コミュニティの密度が高まっている。

最初は疑問視していた地域住人も、実際に参加して、自分に売る物があり、相手に必要とされていることを実感して、今ではイサカアワーは生活を支える柱になっているという声がほとんどとなったという。そうした実感とともにイサカアワーは人々の間を環流し、町が活性しているのだ。

日本で地域通貨は違法とされるが、今後このあり方が高齢化社会に必要とされるのではないか。単なるボランティア活動では限界があろう。時間と体力のある若者が不自由な老人の手助けをして、その代償に得る地域通貨は、スマートなあり方に思える。若者はその地域通貨でランチを食べ、その店は食材の仕入れをし、畑の手伝いにも支払われる。また、農作業アルバイトでもらった地域通貨を使って、老人からバイオリンのレッスンを受けることもある。

こうして地域通貨は環流するが、その通貨が蓄財されることはない。通貨が媒介して人と人のエネルギーが交換されているだけだ。しかも、地域通貨はその富みを外の世界へ放出させることもない。コミュニティ内でしか通用しないからだ。たとえば1000万円分の通貨が環流していたとして、その何倍もの活性を生み、4~5千万円の経済活動が機能している。利子が数字を増やすのではなく、人が物・サービスを交換することの効率効果なのである。

(つづく)


モモ その8

2011年10月27日 00時00分18秒 | 「モモ」お金を考える
たった今、ヨーロッパが悲鳴を上げている。金融危機が米国から回り、そうなった。それは、因果応報の結果である。金融の大本が、米国を「自由経済野放図活動」を許した結果である。

そして、記録的円高となっている。これはどういうことか。

ずっと前に書いたが、世界を回る構造での米国金融危機は、ヨーロッパへいったん戻って、アジアへ向かって来るということで、それでこれまでの近代経済は終焉を迎える。コレは何も私ごときが申しているのではなく、アウトサイダーの経済予測人たちが、1900年代から発言している予測(予言)である。

これは、1600年代、大航海時代が起こった世界模様に酷似しているが、システム規模が違うし、スピードが違う。世界の人口は今月70億人に達した。経済はその総数の規模エネルギーに達している。もう、この経済システムは破綻してしまっている。

エッジ・エイジ。極まった時代に達した。が、それは現行のシステムにおいての話だ。地球は豊かなのだ。その使い方を誤っている。システムを変更するしかない。どう、変わるのか、いや、還るのか。

(つづく)


モモ その7

2011年10月25日 21時38分17秒 | 「モモ」お金を考える
「地域通貨」という言葉を聞いたことがあるだろうか。ああ、商店街などで通用するクーポンのことかと思う人もあるだろう。この日本でも実験的に取り組んでいる商工会議所レベルのものはあるようだ。しかし、アメリカやニュージーランドなどのコミュニティで取り組まれている「地域通貨」は、銀行が参入した地域内経済システムである。

しかし、この日本では余り紹介されることがないから、知らない人も多いのではないか。聞いたことがあっても、商店街クーポンの域でしか理解されていないように思う。だが、地域通貨の持つ意味は大きい。それは前回で書いた、江戸時代までの「米本位制」と通底する、人の営みを活性させる力を持つからだ。地域通貨は、米と同様に、減価していくシステムだからである。

では、「地域通貨」とはどのようなものなのか。これの産みの親は、自由貨幣(消滅貨幣、スタンプ貨幣)の提唱者シルビオ・ゲゼルとされる。1862年にドイツ帝国に生まれ、アルゼンチンへ移住して実業家として成功した人物で、しかし、南米社会の激しい変革と金融暴走に直面して、人々にとって真に必要な通貨政策を追究した。それが自由貨幣だ。

これは、年初に100の価値があるものが、年末には95(-5%)に減価する紙券である。どう減価するのか。紙券の裏に小さなスタンプを貼るマスが52週分あり、毎週そこに郵便切手のようなスタンプを貼る。この紙券の所有者は週をまたぐと、スタンプを貼らないと使用することができない約束だ。スタンプの代金は5%分を52で割った値だから、たとえば1万円であれば、500円に対する9.6円である。

この5%というのは、一見、消費税のようなものと考えられるが、消費税とはまったく異なる性質を帯びている。消費税は使わなければかからないが、自由貨幣はサイフの中に仕舞っておけば、週ごとに減価する。貯め込むと減っていくのだから、人々に率先して使われる。つまり地域内でのお金の回りが早くなり、人々は自分たちの物やサービスを盛んに交換し合う。増税で消費が落ち込むのと正反対に、経済効果は何倍にもなるとされた。かのケインズも、将来の人間はマルクスよりもゲゼルに学ぶだろうと明言していたそうだ。

このスタンプ式紙券は、1930年代にドイツのシュヴァーネンキルヘンという炭坑町で採用され、大恐慌で死に体だった町が復活している。しかし、地域貨幣に脅威を感じたドイツ帝国銀行により法令成立後、禁止された。オーストリアの人口4300人のヴェルグルでも32年に採用され、同様の効果を上げ、町は見違えるほど活性化し、町の税収も8倍になったとされ、「ヴェルグルの奇跡」として国内外から注目を集めている。しかし、これも中央銀行の訴訟により裁判で敗訴。住民の願いは聞き届けられず、その後、ヴェルグルは30%の失業者を出した。

ゲゼルの思想は、具体的な効果を現し、それが国家と金融界から脅威とみなされたのだ----羊飼いとヒツジの関係が壊れる脅威----ゲゼルはドイツの思想家シュタイナーに受け継がれ、イギリスではケインズに「健全なる経済システム」と高い評価を受けたが、何かが大きく引き裂かれたしまった。その後、世界は大戦へ突入していく。

シュタイナー思想の影響を受けた作家ミヒャエル・エンデは、世界の不和が何からもたらされているのかを問い続けた。エンデもまた、ゲゼル思想を支持し、モモを黒服と戦わせたのである。だから、このブログのシリーズで書いている「モモ」というテーマは、世界不和を何が生み出しているのかを問うシンボルである。人類すべての禅問答のようなものだ。

なにが人々を苦しめているのか・・・
それはお金か・・・
それともお金を動かす者か・・・
そもそも、お金とは何か・・・

私たちは余りにもお金に無知なのではないか。

『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』川邑厚徳+グループ現代著 講談社

現代の地域通貨の取り組みについては、提案と共に次回以降で述べていきたい。

(つづく)


モモ その6

2011年10月22日 15時14分53秒 | 「モモ」お金を考える
江戸時代まで、日本の統治は幕府がおこなうが、独立自治権をもつ藩政であった。藩はそれぞれ国であり、租税は年貢である。たとえば僕が生まれた広島は、40万石の石高だった。それは村請制度といわれ、各村から集められた年貢米の総計である。一石(約150kg)は当時の人が1年間に食べる米の量とされるから40万人を養う財政といえる。

ところで、これを貨幣価値に置き換えると、どのくらいか。一石は1両といわれる。小判1枚の価値は、現代で10~20万円とされる。間をとって15万円として、4人家族であれば、年間に60万円が米代となる。これをそのまま今の物価感覚で捉えることは出来ない。高いとか安いの話ではない。とにかく、お金に換えたらそうなる。それで一年間、人が生きていた。

(この記事を書いていたら、知り合いの農家のMさんに頼んでおいた米が届いた。半俵(30kg)で1万円。安いねえ。有り難いです)

さて、一応そういう話をしたが、ここでの主題は、米という糧についての意味だ。日本国経済の根本は、米相場で動いていた。明治になって諸外国と付き合うようになってからは金(きん)に変わった。金(銀)本位制である。では、江戸はなんといったか。米本位制という言葉はないが、意味はそうである。

米本位制として、これはどういうことか。豊作不作で相場が動いて経済統制が毎年てんやわんや、という話ではない。金は価値を失わず、コントロールされ、貯め込むことができる。ところが、新米は1年で古米となる。蔵に蓄えても、米はその価値を失っていく。どんなに豊作でも、その米の価値は下がっていくから、価値を蓄えることが出来ない。すると、市場へ出さなければどんどん損益が増すから、米は世の中へ出回る。豊作で国全体が活性する。

つまり、貯め込むことが出来ない米が本位ということは、富みの集中がおこなわれにくいということになる。なに、紀伊国屋文左衛門などは蜜柑を運んで大儲けしたではないか。そういう商人規模の話ではない。価値がキープできない米という本位は、動く性質を持つということだ。ここが重要なのである。

よく、金が回ると経済が豊かになるというではないか。ところが金は回りにくい性質を帯びている。貯め込む(コントロール)できるからだ。米はその反対に貯め込むと価値が下がっていくから、動くのだ。

前の記事で、物々交換の時代は、人が生きるためのエネルギー交換だったと書いた。その肩代わりをお金がするようになって現代があるが、お金は貯め込むことが出来、つまり富みを膨らませることが適い、貧富の差を生む。ところが米のような価値が減資していくものを本位とすると、そうはならない。

そうはならない国が江戸時代までの日本だったのではないか。もちろん、幕府(政府)と藩発行の通貨はあったが、9割が農民だった日本人にとって、通貨は日常使うものではなく、依然、物々交換的な生活を営んでいた。お金に支配されていない暮らしだ。

幕末に日本を訪れた外国人らは、世界にも稀な高い教養と品性を身に付けた日本人の姿を見聞して、驚いている。トロイの遺跡発見で知られるシュリーマンは、1865年に日本を訪れている。その旅行記の一文が、江戸文化の一面を紹介している。

「主食は米で、日本人にはまだ知られていないパンの代わりをしている。日本の米は非常に質が良い」
「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」
「彼ら(日本の役人)に対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも、現金を受け取るくらいなら『切腹』を選ぶのである」(『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫)

江戸まで日本は封建社会で人々は搾取されていた・・・といった歴史観を戦後教育で身に付けてしまっているが、実は大変な勘違い(思い込み)をしてしまっているのではないかというのが僕の意見である。日本の豊かさは、米が本位であったことからもたらされていたと思うのである。それは、何度も書くように、減資していく性質が富みの集中をさせず、世の中に回り動くことからの活性である。

なぜ、そう思うようになったのか。それは次回、ふたたび「モモ」の世界に戻り、作者ミヒャエル・エンデが残した『エンデの遺言 根源からお金問うこと』で語り継ぐ「地域通貨」の話で紹介したい。

(つづく)


モモ その5

2011年10月19日 22時24分28秒 | 「モモ」お金を考える
シンプルに素朴にお金とは何かを考えてみたい。今の経済思考を排除して、出来なくても努力して。

お金って、まず、思い浮かぶのがエネルギーだ。毎日、太陽が降り注いでいただけるが、それがエネルギーの源泉だ。それから、空気。それから水。それから人体が必要とする栄養素。つまり、生物が生きるために必要とするエネルギーだ。

それらがお金に還元されているのが現代だ。つまり、自然からいただいているもののすべてがそうなっている。もちろん、泉から湧く清水をすくって飲んでもお金を取られることはないが、ペットボトルから飲めば代金が必要となる。

人が介在して、自然からもたらせられるものを手にすれば、お金になっている。なぜか。自然物を運んだり、加工したり、なにがしかの手が加わることで金銭化されるのが、長年の習慣だからだ。なぜか。そこに人のエネルギーが使われたからだ。そのエネルギーの代価として、お金というものが肩代わりしている。

お金というものがなかった時代、または地域では、物々交換で、エネルギー交換がおこなわれた。つまり、物々交換の代わりにお金が使われだしたときに、お金というものは、物の価値と等価か、等価と認められるなにかだった。

その価値は、一過性であって、主体は物であり、お金そのものに物以上の価値は無かった。つまり、そのときのお金は主体ではない。あくまでも、人と物との約束であり、それ以上のものではなかった。

だから、お金をいくら持っていても、物を持たなければ生きていくことはできなかった。お金は単なるトランプのカードと変わらなかった。トランプのカードを何百枚持っていても、その人がそのカードに変わる物を持っていなかったら、誰も何とも交換してくれない。カードは一過性のものであって、仮にカードを渡しても、それに変わる物を与えないと、もらったものと等価になることはなかった。つまり、約束手形のようなものがお金なのだ。

お金は、そもそも地球エネルギーの一時的な肩代わりでしかないのだ。だから本来、お金はその価値をキープする能力を持っていないものなのだ。だから、そこへゴールドという持ち運びが困難なエネルギーを代替えとして裏支えさせ、金預かり業を発展させて銀行業を興し、現代を作った。それが今だ。

本来、人が人として生きるためのエネルギーが、交換されるのが生活なのだ。お金を介在させる必要は、西欧社会ではここ500年くらのことで、日本でいえば、ここ100年くらの話である。生活の有り様は全く違うのである。それを知らないだけだ。

それではこの日本がなにを糧に生きていたかは、1年で価値を失っていく、米である。日本は石高(こくだか)を基本に、生きてきた国なのだ。

(つづく)


モモ その4

2011年10月16日 17時02分31秒 | 「モモ」お金を考える
ファンタジーはいわば妄想から生み出された物語と思われるものだ。はたして、そうだろうか。たしかに、ファンタジーのような、見たこともないような何かが突然に出現したりはしない。ネッシーだとか、雪男だとか、口裂け女が大勢の前に出てきて驚かすとこなどない。宇宙人なんか、いつも噂で終わっている。

でも、黒服男はいる。子どもの前に現れることはほとんどないが、お金を持っている人間の前には現れる。ピンポ~ン。仕事だからね。貯めたら利子が付くと。それが将来を豊かにするとね。もう、そんなことを何十年もいっているのに、誰が豊かになったか。

そう説いても、お金と利子のふしぎ。誰も納得ができないでいる。そう、時は金なり。人生80年、50年働いて3億円。ところが、その半分は税金と借財の利子として払っていて、手元に入ったのは1億そこそこと。それもあっという間に消えて無い。

そんなに税金払っていないと思っていても、実は物の価格に中に組み込まれている。消費税以前の話。ニューヨーク金融街でのデモは、切迫した民衆の叫びにほかならない。

グローバルというのは金融システムの加速化の話であって、ローカルは、個々人の暮らしのリズムの話なのだが、どうも。あいだの開きが巨大過ぎる。コロンブスが船団束ねて太平洋へ乗り出したのは、黄金を収奪するのが目的であったが、個人的には冒険人生が望みだったから、ダブル・ミッションだ。個人は善良であっても、組織行動は戦略的なのだ。大方、そこが誤解されている。人は個人的感情で大半の人生を過ごす。

それが悪いわけでも何でもないが、その個人を大きく束ねる何かが狂っていれば、個人生活にとって禍害となる。民主主義とは戯れ言か。

(つづく)


モモ その3

2011年10月15日 00時06分45秒 | 「モモ」お金を考える
また、忘れていたことを思い出した、乞食少女のモモのことが好きだった。みんな、村の誰もが、モモを欲しがるのに、家に帰るとそんなことを忘れて、そうだぞうだ、時間貯金をしないと、貧しくなってしまうと相談し合う。で、モモを忘れる。トントンとノックをする黒服の声を聞いて、自分の時間を差し出す。何倍もの時間になって返ってくると信じる。

ところが、時間はなにかに吸い取られて、薄くなっている。なにが時間を吸い取るのか。機械を使ったシステムによって。電子チップが吸い取りマシーンだ。あずかり知らない機構によって、時間は吸い取られていく。

むかし、影を売って魂を無くした男の話があったにもかかわらず、それを忘れて時間を売っていたのだけど。そんなこと忘れて、だから忘れることが問題といえば問題なのだが、忘れていることを忘れているのだから、問題にもなにもならなかった。

(つづく)


モモ その2

2011年10月13日 21時52分38秒 | 「モモ」お金を考える
瞬時に文章が送信できるファックスが会社に導入され、それからしばらくして、今度はワードプロセッサーが入った。確か1986年だったと思う。1台150万円くらいの高価なものだった。そのワープロを使える人間は会社に一人しかいなくて、事あるごとにその人にお願いして打ってもらいながら、段々に使い方を覚えていった。

ぼくが勤めていた会社は、雑誌の編集制作会社で、当時、原稿は手書きである。鉛筆で書いて、そのまま印刷所に入稿していた。ワープロで打つものは、契約書か住所録など。だから普段は、ほとんどワープロの必要がなかった。きたない鉛筆書きの文字が、ワープロで打つときれいな印刷文字になってプリンターから出てくることに感動を覚えた。以前は、印刷所からゲラが出てきて、自分が書いたものが印字されていて、感動していた。入稿して3,4日経って見ることができる印字が、すぐ目の前で出てきた。

編集の先輩が、ワープロが普及すればオフィスで使われる紙の量が減るといった。だから環境にいいのだと。ところが、書き損じで、何度も印字しているのだから、紙の量は逆に増えていった。どうも、予想とちがっていた。数年後、各人にワープロが与えられた。みんな画面に向かって黙々と仕事をするようになった。

90年代に入り、パソコンが普及し始めた。文字を打つだけならワープロで充分だったが、やがてマッキントッシュが導入され、インターネットが引かれ、仕事環境がみるみる変わっていった。ぼくは何台目かのワープロが壊れるまで使い続けていたが、周りからパソコン覚えないと仕事にならなくなるぞといわれ、マックを使うようになった。ワープロで打った原稿をフロッピーに入れて、出版社へ持っていったのが97年くらいだったか、それを最後に、パソコンへ切り替えた。

(つづく)


モモ その1

2011年10月11日 22時13分11秒 | 「モモ」お金を考える
ミヒャエル・エンデの「モモ」を読んだのは20歳の頃だったろうか。本好きの友人に勧められて本屋へ行き、箱入りの分厚い本を手に取った。

家に帰って、一気に読んだ。モモという女の子が村に現れ、村人の心を癒す。黒服が現れ、村人に「時間を貯金すれば、将来何倍にも豊かな時間が」と、時間貯金を勧める。モモが、黒服の男達を、時間簿泥棒だと教え、村人を救うために戦う物語・・・

ぼくは、その物語を単なるファンタジーとして読んだが、直感では、これはなにかとても深いところを語っているのだろうとも思った。

26歳くらいの時だったろうか、勤めていた会社に初めてファックス機が入った。急ぎの文書は一瞬で送ることが出来ると皆、喜んだ。それから暫く使って送ることに慣れていくうちに、ふと、思った。前だったらこれ、急ぎで直接、手渡しするために持っていったな。届けるのが夕方になったら、その人と酒場に行って話し込んだこともあったか。

そんなことを段々に思ううちに、「モモ」を思い出した。そうか、これって、時間泥棒ではないだろうか。行かないですむぶん、次の仕事が増えて、ちっとも時間が増えない。時間が圧縮されてしまって、ますますキュウキュウだ。

周りの仕事仲間にそのことを話してみたが、どうもピンと来なかった。でも、やっぱり便利だよ。いちいち行かないですむのは便利か。面倒臭いときはあるが、行って酒飲んで話をしたほうがいいときも多々あった。そう思った。その頃のぼくは、どうも釈然としない感情だけを抱えていた。

(つづく)