『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

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ゴパンの魅力

2011年01月30日 19時40分28秒 | ソウルフード
            店頭で現物にお目にかかれない
            米粉パン焼き器「ゴパン」

去年サンヨーが発売した「ゴパン」は、米粒を入れるだけで米粉パンが焼ける、これまでになかった家電製品として注目を集めた。私も、その米粉パンを食べてみたが、旨かった。米粉を言われなければ、もちっとした食感の美味しいパンとしか思えないほどだ。

ところが、このゴパンが入手困難な品物となっている。当初の生産は6000台で、発売してみたら予想を超える人気で注文が殺到し、店頭に並ぶ前にすべて予約が埋まってしまったという。だから例えヤマダ電気へ行っても、現物にはお目にかかれない。

先日、岡山で開かれた「中国四国米粉シンポ」において、ゴパンの開発担当者が語っていたが、予約に対応するので手一杯といい、店頭に出荷できるのは4月以降なのだとか。会場にいた農水省の研究機関の方も、2台必要としているがどこに頼んでも手に入らないのだとこぼしていた。

近年、これほど注目される家電も珍しい。米を入れるだけで手軽に米粉パンが焼けるゴパン。値段は5万円ほどだが、なければないほどに、欲しい人の心理に火を点けているのだ。ご飯離れも久しく、昭和40年代に比較すると米の消費量は半分以下。年間消費量一人当たりの平均が120キロだったのが今は50キロ程度だ。茶碗1杯しか食べない若者が多いなか、パンにすれば食べるといったところか。

ご飯嫌いが増えたというよりも、副食が豊富で、ご飯で腹を満たす必要がないから、おのずと米の消費は減るのだ。だが米粉は、パンやスイーツ、スープ、揚げ物のころもなどに姿を変え、目新しい食材となる。いくら米を食べようとコマーシャルしても増えないのだから、米粉に望みを託しているのが生産者である。食料自給率アップのための、象徴として「ゴパン」が登場したと言えるだろう。まあ、しかし。温かいご飯と漬物と味噌汁があれば満足の人からすれば、ゴパンは贅沢品ではある。


短編「ポポ」

2011年01月29日 14時48分20秒 | 『ソウルボート』短編集
『ソウルボート』短編集

「ポポ」


 小林健一郎は、そろそろ受験を真剣に考えなければならない時期に来ていた。本気で大学へ行きたいのなら、部活もきっぱり辞めて、残りの半年間は机に張り付いていなければ、行けそうな学校などないことは自分でよく解っていた。半年という時間が、それでもまだ永いものに思え、まだ平気だと空手部の稽古を夕方まで続けていた。三年生で部活を続けているのは、デザイン専門学校へ進むことに決めている児玉と、大学進学の定まらない健一郎だけだった。

 汗まみれになった道着をたたみながら、児玉が口を開いた。
「おれは東京でデザインやって、稼ぐんじゃ。先輩の先輩で有名な広告代理店に入って月に100万円の給料もろうとるんがおる」
 児玉が小さな瞳を光らせ、札束を持つ仕草をした。「小林は大学へ行くんじゃろ、どこのや」と、大して関心なさそうに聞いてきた。
「東京へ行く。どこかはわからん」
「六大学か」
「無理に決まっとる」
 投げやりにそういい、道着をスポーツバッグに詰め込んだ。児玉と並んで道場を出ようとすると、指導部長の村田が口をへの字に曲げて、なにか言いたげにしていたが、児玉が先手を取って、「お先に失礼します!」と大声で言い、自転車置き場へ走っていった。
 それにつられて健一郎も挨拶の声をともに走った。また、いつもの説教が始まるとたまらない。道場の掃除がなっていないとか、理由はその日によって違うが、癇癪持ちの相手だった。
「昨日、道場の鍵かけ忘れてた」児玉が肩をすくめて言った。
「鍵はおれが掛けた」と健一郎が返した。
「じゃ、なんでや」
「ああ、多分おれのことじゃろう。大学のこと。先生は国士舘大学の空手部出身じゃ」
「ほうか、わしには関係ないの」
 自転車で並んで走りながら、児玉が山口百恵のヒット曲を口笛で吹いていた。
「おまえは暢気でええのう」
「わしんとこは貧乏で大学なんか行かしてもらえん。新聞配達しながら専門学校へ行くんじゃ」
「なら、おまえはもう空手はやらんのか」
「空手も卒業じゃ」
 健一郎は先週、部長から東京の大学へ進んだら、空手も続けろと言われたのだ。ということは、国士舘大学を受けろということだと思った。大学の空手部の稽古は、高校生のレベルとは次元が違う。足腰も立たなくなるような猛稽古の毎日だ。通学電車の中で、先輩から命じられたとおりに、つり革で懸垂をさせられたり、網棚に上って蝉の真似を強要されるといった噂を聞いていた。
「おれは大学行っても、空手はやらん」健一郎が吐き捨てるように言った。
「おまえは体力あるけん、やったら強うなれるで」
「大学空手は地獄じゃ。テニスでも始めるよ」
「軟派になるんか」
「そのほうが女の子にもてるじゃろうが」
「女か。ぶちゅーっとキスしてみたいのう」児玉がでかい声でいい、げらげらと笑った。

 瀬戸内海に沿って走る線路脇の県道を自転車で風を切ってしばらく走り、商店街に出たところで自転車を止めた。いつものコロッケ屋で一個ずつ買い、一気にほおばって空腹の急場しのぎをするのが慣わしだ。児玉が先に自転車を降り、ガラス戸の奥に声を掛けた。
「おばちゃん、肉コロッケ2つ」
「おれは今日はやめとく」
「なんでや、付き合えや。おごったるけん」
「いや、腹が減っとらん。先に行く」
 健一郎は「また明日」といい、強くペダルを踏んでコロッケ屋から遠ざかった。児玉の家は近いが、彼の家までは山沿いを走り、ここからまだ三十分ほどかかる。

 ほんとうはコロッケが食べたかったのだ。反対の態度に出たのは、大学受験のことで気が重かったからことも理由のひとつだが、それだけではなかった。家を新築して以来、両親の仲がぎくしゃくしていた。それは父親の健男がほぼ独断で決めた設計で、母のミヤコは納得していなかった。開発業者に山が売れた金で建てた家だった。健一郎が中学三年のときに新築の話が出て、一年余りでできた家だ。一階にリビング、座敷、台所、サンルーム、両親と祖母の居室があり、玄関がやたら広い。二階に健一郎と妹、洋子の子ども部屋が二つのっかっており、外観のバランスが決していいと言えるしろものではなかった。外壁は薄い黄色で、茶系が好きな母親の好みと違っていた。

「かあちゃんは、あんまり楽しそうじゃないのう」
 健一郎はこころのなかでそうつぶやき、ペダルを漕いで家路を走っていた。父親と二十年暮らしてきた母親の心情など、彼にはそれ以上、想いが至らない。今が楽しいか、楽しくないか、楽しさは、こころが躍動するか、しないか。青年の域に達している健一郎にとって、楽しさとは、今、なにが自分に躍動感を与えてくれるかだ。空手の稽古はきついが、組み手で技が決まったとき、躍動感があった。興奮のなかに居るとき、なにもかも忘れられた。

「コロッケ喰っときゃ、よかったな」
 軽い登りに差しかかり、そのから先はしばらく五百メートルほどの平坦で真っ直ぐな道だった。家はもう近い。
 突然、ハンドルを握る手が左右にブレ出した。と、自転車が大きく傾き、転倒しそうになった。あわてて反対側へハンドルを切り、体制を立て直すと、今度は反対側へ傾いた。それを繰り返しながらよろよろと二十メートル進んで自転車を止めた。
ーーなんだ、これ・・・変だ、変になった
 正気を確かめるように、そう声に出した。
 全身から気が抜けたような、その場にふわりと突っ立っているだけの、奇妙な感覚だった。
ーーおれ、どうしちゃったんだ
 恐怖感はなかった。ただ、おかしな状態にいるということが不可思議なのだ。
 すると、またもやおかしな感覚になった。突然、腹の真ん中が空洞になったのだ。両手で腹を押さえると、ちゃんと腹はあった。なのに、ポッカリと穴が開いている感覚があった。数秒間、その感触が続き、何事もなかったように身体がふつうに戻った。
ーー変だった、コレなんなんじゃ?
 自転車に乗っても、もうフラフラしなかった。残りの家路を進みながら、今しがたの奇妙な感触を思い返し、ハンドルをしっかり握ってペダルを踏んだ。

 玄関を入ると、いつものように祖母の絹江が出迎えた。明治生まれの絹江は着物姿だ。足袋は履いておらず、畑仕事で黒く日に焼けた細い足が突き出ている。しわがれた声で、か細く「ポポがのう、いけんことになったんじゃ」と言った。
 下駄箱の上には、セキセイインコの籠が置かれている。止まり木に黄色い小鳥の姿がなかった。
「ポポは?」
 健一郎が鳥籠をのぞくと、籠の底に小さく横たわったセキセイインコが目に入った。
「いけんかった。わしがのう、餌を切らしたから。悪いことをしてしもうた」絹江が自分の責任だと言って、手を合わせ、健一郎にゆるしを請うような目をした。
 セキセイインコは、健一郎が中学生のとき飼い始めた鳥だった。夕方、誰もいない校庭でひとりサッカーボールを蹴っていて、ジャングルジムに止まっていた小鳥を見つけ、そっと手を伸ばすと指に留まったのだ。
ーー手乗りインコ、どっかの家から逃げたんじゃ
 当時は、今、健一郎が住む家は工事中で、仮のアパート住まいだった。小鳥を連れて帰ると、母親が、自分で面倒見るなら飼ってもいいといい、小鳥くらいならと父親も許してくれた。その晩に、ポポと名付けた。その名を呼ぶと、すぐに指に留まった。ポポという名は、以前にも飼っていたことのあるインコのものだった。健一郎はためらわず、同じ名を与えた。その頃、彼は高校受験の前夜だった。机の脇には、いつもセキセイインコがいて、それがごく日常の風景となっていった。新しい家に引っ越しをしてからは、玄関の下駄箱の上が鳥籠の場所となっていた。

 絹江は玄関先で、しゃべり続けた。
「院寿さんがのう、昼間にお参りに来た帰りに、鳥を見て、またお参りにくるけんのういうて、おかしなこというと思うて」
 院寿は、檀家寺の住職のことだ。祖父の月命日の法要があったのだ。今日が祖父の命日だと、健一郎に覚えはなかった。祖父は父親がまだ幼い頃に亡くなっていた。四十年も前のことである。奇しくも、小鳥が死んだ日と、その命日が重なっていた。
「ばあちゃん、もうええ、明日、庭に墓作ってやるけん」
「生きものは、死ぬるけえのう、じゃからわしは生きものは飼いとうないんじゃがのう」
 祖母は、「ナンマイダブ」をつぶやきながら、玄関脇の自分の部屋の戸をそっと閉めた。

 その夜、家族が食卓を囲んで、いつものように黙って食事をしていた。健一郎が、口火を切った。
「今日、ポポが死んだの、わかったんよ」
「なにがや」父親の健男がビールを飲みながら言った。
「学校から帰る途中で急に身体がフラフラなって、なんでか腹に穴が開いたような変な感覚になったんじゃけど、帰ったらポポが餓死しとった」
 黙って聞いていた健男が、「不思議なことじゃのう」とだけ言った。
 ミヤコが、自分も鳥のことが今朝はなぜか気になったと言った。
 中学生になる妹の洋子が自分もだと相づちを打って涙声で言った。「うち、なんでか朝、ポポちゃん、行ってくるけえね言うて学校へ行ったんよ」
「じゃけえ、ぼくにポポが伝えたんじゃ」
「そがあなことがあるか」健男がいぶかしげに健一郎の顔を見た。
「ほんまに、そうなった」
「わしにはそういうのはわからんが、ポポは可哀想なことじゃったの」
「そうそう、可哀想よね」とミヤコが細い声で言った。
 皆の話を茶を飲みながら聞いていた祖母の絹江が、コクリと頭を縦に振って、「墓を造ってやらんとのう」とぽつり言った。
「うん、野武士の墓の横に埋めてやろう思う」と言うと、絹江が大きくかぶりを振った。

 翌朝、祖母に言ったように、健一郎は庭の松の木の下に穴を掘り、ちり紙でくるんだ黄色いセキセイインコを埋め、土の上に餌を撒いて手を合わせた。その松の木の脇には、一抱えもある苔むした石が置かれてあるが、それは昔、この地方が安芸の国と呼ばれていた時代に、家の前で行き倒れた旅の武者の墓だと祖母から聞いていた。
 人も、生きとし生けるものも、一生を終えると土に還る。ポポが伝えたのは、そのことだったのかもしれない。だったら・・・健一郎の胸にある感情は、まだ、この自分はそうなるわけにはいかないといった想いばかりである。


本音の一片

2011年01月28日 00時20分10秒 | 航海日誌
私がこのブログで書いていることは、解りにくいことが多い、か。ゆえに、「あなたは人に解ってもらおうと思っていないのではないか」といった意見をされることがある。

まあ、そうかも知らん。

自分であっても、わからないことばかりだ。だた、感触で、そうではないかと思うことを書いている。どこかに何かの道筋を探しながら。

それが、人生と思う。わかることなど、ちっともないから。決められた事々など他愛のないこと。そりゃそうだろうというだけの話。でも、それはそれでいいのだ。だから、それでいいの、ほかにもっと面白い感触を求めて。それもまた性向というか。

まあ、独白である。

誰かが、面白いと共感あれば、本望だ。


内観

2011年01月26日 23時01分51秒 | 合氣道のすすめ
自分の心を見つめることが重要な時代になりました。禅の世界では、「内観」として教えますが、一般にはあまりなじみのない精神論です。自分の心を見つめることというのが、感触として、解りにくいのです。

人は、外界の刺激に反応して、意識を外にフォーカスさせているのが常です。相対する人が言葉を発し、どんな態度をしたかに気を向け、それに対して言葉や態度を示します。そのとき、自分が何を感じ考えているかを同時に捉えることが出来にくい。ほとんどが相手の意識に引っ張られ、それにどう対処するかに心を奪われています。また、相手もしかりで、返された言葉や態度に反応してと、互いに相手を映し合います。

「内観」がおこなえると、相手も自分もなく、中空から双方を見つめることが出来ます。すると、第3の目を持つことがかないます。どちらにも言い分があり、感情で物事を言い合っているとわかります。そこに在るのは、自分のほうが正しいといった、保身です。いつもそうだというわけではありませんが、大方がそういう心理状態にあります。

「思いやり」は、そんな状態から心を相手に傾け、相手の心を察することですが、それでもまだ「内観」ではありません。内観は、思いやっている自分も見つめます。いいとか悪いとかといった価値判断の無い、客観的な心理状態です。ただ、自分を見つめ、おのれを知るということのみです。シンプルゆえこれが難しい。しかし、世界を変える唯一の方法と言えるのです。変わることがあれば、だた、それだけです。霊的視座と呼べるものゆえ、その意味を了解するのは難解です。


短編・胸騒ぎ

2011年01月22日 18時51分21秒 | 『ソウルボート』短編集
「胸騒ぎ」


          ○1○

 木造平屋建ての座敷を教室とするこの塾は、原爆で焼け野原となった広島で戦後しばらくして建てられた民家だが、町内の子どもたちから「寺子屋」と呼ばれている。それは授業で座卓を使って正座をさせるからで、足が痺れるのを我慢することも教育の一環だとする方針に対しての、子どもらからの揶揄である。
 授業は、一科目を四十五分間おこない、五分休憩し、次の科目が四十五分間おこなわれる。四十五分間の正座は大人でもきつい。授業が終わるころには立てなくなるほどに足が痺れ、暫くその場から動けない生徒もいる。それを耐えさせるのは、塾の教師、松崎忠則が、体罰が珍しくなかった戦時中の、尋常小学校教員だったとことに由来する。戦時中に小学校へ通った母親たちは、この教育方針を歓迎して子どもを通わせていた。第一に、月謝がほかの私塾に比べ、三割も安かったことで家計が助かるとありがたがられていた。

 八月を過ぎ、小学校は夏休みに入っているこの日は、二教科めの国語の授業で俳句をつくる課題が出された。季語として「夏」の一文字を使うこととされた。十五分間が与えられ、六年生のクラス八名が正座をして、それぞれが思い浮かぶ夏の句を、渡された短冊に書いていた。小林健一郎も鉛筆で書いては消し、書いては消しをくり返し、皆が初めての俳句に頭をひねり、時間となって一枚一枚が回収された。

  せせらぎで子ども遊ぶや夏の日に
 黒板に白髪の松崎が一句をチョークで書いた。声に抑揚をつけて詠み、生徒の顔を見回し、小林くんの句に満点の五点をあげようと言った。
 生徒がいっせいに健一郎をみて、「へぇー」と声をあげた。感心した声ではない。意外だといった、むしろ冷やかしの声だ。
 健一郎は、自分の句が褒められたことはうれしかったが、同時に恥ずかしかった。仲間から、珍しいことだと言われている気がして悔しかった。
 松尾芭蕉の『奥の細道』の、江戸から東北へ向かった足取りや、芭蕉の弟子がどうしたといった話など、健一郎の頭の中にはなにも残っていない。うれしいのと、悔しいのとが胸の内でグルグルと渦巻いているだけだった。

 健一郎が下駄箱から運動靴を出していると、
「小林の、よかった思う」と、戸山茂が言った。
「まぐれじゃ」
「まぐれでもええじゃない。できたんじゃけえ」
「みんな笑ろうた」
「ぼくは、笑わんかったで」
「戸山くんはえらいけえ」
 坊主頭の佐川啓介が横から顔を突き出して、
「決まっとろう、戸山くんはえらいんじゃ」と言った。佐川は勉強のできる戸山のうしろをいつもくっついて歩いている少年だ。

「あの俳句も、えかったよ」と、戸山が佐川の句も褒めた。
「ね、ええじゃろう、わしの俳句。夏休み子犬もころころわろうとる」
 佐川は、自分の句のほうが健一郎のよりできがいいと思っていた。教師が三点しかくれなかったことにムシャクシャしていた。
「戸山くんヨシヤに寄って行こうや。クジで一等賞当てたる」佐川が声を張り上げ、前を歩き始めた。うしろを振り返って戸山に向け、「アイスおごってあげる」と言った。
「小林くんも行こうや」と、戸山が誘ったが、健一郎は気が向かなかった。先週、アイスバーのクジが当たり、もう一本を佐川におごったのは健一郎だった。俳句で負けたことへの当てつけに思えた。
「夕方、父ちゃんの車で田舎に行くんじゃ。早う帰らんといけん」
 旧盆前日の今日は、母親の実家がある島根県の海辺の村へ行くことになっていた。
「田舎かあ、ええね」
「いつも夏は島根に行くんよ。海で魚を捕るんじゃ」
「魚が捕れるん?」
「小さいのじゃけど」健一郎が銛で魚を突く真似をした。
「それ、食べるん?」
「大きいの突けたら。二メートル潜るんじゃ。深いところにはクロダイもおるよ」
「すごいのう」
 健一郎は、戸山といっしょに島根の海で遊べたら楽しいのにと思った。先を歩いていた佐川が、業を煮やしたように「早う行くで!」と叫んだ。
「じゃ、さいなら」
「さいなら」
 

          ○2○

 友だちと別れたとたん、今しがたの釈然としない気分がどこかへ消え、田舎への旅路が待っていることが健一郎の胸を躍らせた。広島から太田川上流を目指して渓谷の道を走り、中国山脈から山陰へと抜ける三時間のドライブだ。去年の夏、早朝に出発し、深い渓谷を縫って流れるエメラルド色の渓流が健一郎の目に浮かぶ。今年は夜のドライブで、真っ暗な山道を走ると思うと、冒険気分をかき立てる。

――父ちゃんはもう帰っとるじゃろうか
 カバンをたすきに掛け直し、足取りを速め、家の角の交差点へと一気に進んだ。
 遠くから交差点に停まったパトカーの回転燈の赤い光が目に入った。その交差点で、パトカーが停まっているのを健一郎は何度か目にしていた。
「事故じゃ」
 と、思った瞬間、胸がざわめいた。次に心臓が高鳴った。健一郎はそのまま走って事故現場を通り過ぎ、家へ駆け込んだ。

 庭先に母親のミヤコが突っ立っていた。
「洋子が撥ねられたんよ」
「やっぱり! わかったんじゃ、パトカーの赤いの見たら、洋子じゃいうの」
「今、病院に運ばれて、あんたが帰ってくるのを待っとった」
「かあちゃん、わし、わかったんよ」
「洋子がね、ちょっと外へ行ってくるいうて」
「なんでかわからんけど、わかったんじゃ。胸がドキドキして、ほいで走って帰ったんよ」
 健一郎は、パトカーの回転燈を見た瞬間、胸騒ぎがし、妹が事故に遭ったのだと直感した。そのことを母親に伝えたかった。直感を「わかった」という言葉に込めていたが、ミヤコには伝わらなかった。

 間もなく父親の健男が愛車のマツダファミリアで帰ってきた。それに乗り込み、すぐに病院へ向かった。七つになる健一郎の妹は、腕に包帯を巻かれ、額に絆創膏が貼られ、ベッドに横たわっていた。
「お兄ちゃん、痛い」顔をくしゃくしゃにして、そう言った。
「なんでや、どうして」
「わからんのんよ、バーン、音がして」
 洋子は、交差点を通過しようとしたライトバンの前に飛び出して撥ねられていた。
 健男が医師から状態を聞き、病室に戻ってきた。
「腕の打撲と、頭を少し打っとるが、脳波に異常はないから心配はいらんそうじゃ。一晩様子を見て、大丈夫なら明日家に帰ってもええ言われた」
 ミヤコが洋子を見て、ほっとため息をついた。
「おまえがしっかり見とらんからじゃ」と健男がミヤコを叱責した。
「ちょっと駄菓子屋へ行って来る言うて、ひょいっと表に出て」ミヤコがすまなさそうにそう言った。
「大した怪我じゃのうてよかった。島根行きは延期じゃの」

 それを聞き、健一郎は複雑な気持ちになった。田舎へ行くことが止めになるのが納得できなかった。
「洋子はわたしが看とるけえ、父ちゃん健一郎を連れて行きんさい」
「医者が心配ない言うても、何かあったらいけん」
 釣り好きの父親も、海に近い母の郷里へ行くとこが毎年の楽しみだった。旧盆の夜は、親戚同士が座卓を囲んで夜通しの宴会が盛り上がる。大いに騒いで、笑い声と共に先祖を迎えるのだ。
 父親のひと言で中止となり、健一郎も我慢するよりないと思ったが、それでも諦めきれなかった。
 父親と健一郎は家に戻り、ミヤコが病院に残った。健男は不機嫌な顔で広島・巨人戦のナイター中継を眺め、麒麟ビールを飲み、健一郎は三ツ矢サイダーを飲んだ。蚊取り線香が食卓の下から煙を立ちのぼらせる、蒸し暑い夏の夜だった。


          ○3○

 旧盆入りとなった翌日、午前中に病院へ向かい、ミヤコと洋子を乗せて自宅に戻った。洋子は普段通り歩けるまでに回復していたが、大事を取らなければと布団に寝かせた。昼はおかゆを与え、スイカを反切れ食べさせた。健一郎は冷や麦を食べた。
「これから石内へ行ってくる。今夜には戻るが、健一郎はそのまま置いてくる」やぶからぼうに健男が言った。
「そりゃ、おばあさん喜ぶじゃろう」
 流し台に立ったミヤコが洗い物をしながら返事した。
 石内は、広島市からひと山ほど越えたところにある健男の実家だ。藁葺き家に母親ひとりが住み、ときおり健男は様子を見に帰っていた。今回は、洋子の事故で島根行きが無理となり、車で小一時間の石内へ行くことにしたのだ。
 その会話を聞き、健一郎は躍り上がらんばかりになったが、おとなしくしていた。父親の実家がある石内には海こそないが、野山に囲まれた山村で、ハヤが群れ泳ぐ川が流れている。石内へ行けば、網を持って一日中その川で遊ぶのだ。

 市中を抜け、山手に差しかかるとアスファルトの道から砂利道に代わり、マツダファミリアが低いエンジン音を鳴らして坂道を上っていった。峠に差しかかり、健男が「車なら楽なもんじゃ」と言った。健男が青年時代は、この峠道を歩いて市内まで出たのだ。昭和三十年にミヤコと一緒に暮らすようになり、四畳一間の新居まで実家から米を担いで歩いて戻ったこともあった。その時代から十年余りが過ぎていた。
「お母さん、帰ったで」と健男が言い、藁葺き家のガタビシ鳴る引き戸を開けると、
 うす暗い土間から顔を覗かせた健一郎の祖母が、
「ありゃ、どうしたんかい。あんたら、島根じゃないんか?」と言った。
「それがのう、きのう洋子が事故に遭うて、中止じゃ」
 祖母の家には電話がなく、なにも知らされていなかった。
「事故いうて、まあ、どうしたんか」
「大した怪我しとらんが、家で寝かせとる」
「まあ、まあ、大丈夫ならええが」
 祖母の絹江が声を震わせて言い、健男と健一郎のあいだに目を泳がせた。
健男が腕時計に目をやり、「三時か、墓参りに行こうや」と言って土間を出ようとした。
「わしは朝の涼しいうちに墓へ参ったんじゃが、ええことじゃ。あんたらと行きゃあ、先祖が喜ぶのう」
 墓は山の上にあり、麓までは車ですぐだが、車を降りて山道を十五分は登らねばならない。小山の頂きに十坪ほどの墓地があり、代々の墓が並んでいる。水を担ぎ上げ、供物を並べての盆供養を毎年、絹江がひとりでおこなっていた。やかんに汲んだ清水を墓にかけ、手を合わせる健男の姿は、久しぶりのことである。健一郎も同じように手を合わせ、何に向かって拝んでいるのかはよくはわからずも、墓石に向かって「ナンマイダブ」と二度繰り返した。

 西の山に日が隠れ始めていた。茶の間の柱時計がボンボンボンと六つを打った。その横には健男が二歳の時に亡くなった父親の肖像画が掛かっている。ほうじ茶をすすっていた健男が、そろそろ帰ると言って腰を上げた。
「なんもないが、漬物で茶漬けでも食べんさい」
「ええよ、暗うなる前に峠を抜けて帰るけえ」
「ほうじゃ言うても、なんか食べとかんと」
「健一郎は、明後日迎えにくるから、あれになんか食べさせてくれりゃええ」
「健男は泊まれんのかい?」
「入院せんかったが、まだ洋子が心配じゃけえ」
 健男はそう言い、マツダファミリアのエンジンを吹かして田舎道に土煙を巻き上げ、村外れに消えていった。それを見送った健一郎の耳にツクツクボウシの蝉の声が聞こえ、夏の夕暮れの空気が辺りを包み込んでいた。
 健一郎は納屋へ行って以前に使った網を探し、畑でキュウリをもいでいた絹江の前に振りかざした。
「ばあちゃん、あした、川へ遊びに行ってええ?」
「おお、ええよ、ええよ」
 絹江が、思わぬプレゼントでも手に取ったように相好を崩し、
「あしたは、健一郎さんの好きな鯨肉でも焼こうかいのう」と言った。

 健一郎は、前日の事故現場で妹が撥ねられたことがわかったことがふしぎで仕方なく、夕餉の後、蚊帳に入ってふとんの中で祖母にその話をしてみた。
「ドキドキして、洋子がひかれたのわかったの、なんでじゃろう」
「そりゃ、昔からいう胸騒ぎいうもんじゃのう。親姉弟はつながっておるから伝わるんじゃ」
「ぼくがわかったの、うそじゃないんじゃね」
「ほんまよね」
 絹江が真顔でそういい、うちわで健一郎の顔をあおいだ。
「健一郎さんが墓参りしてご先祖も喜んどろう。洋子はご先祖が守ってくださったんじゃけえ、感謝せんといけんのう」と絹江が言い、電球を消した。
 障子の外で、夏の虫が鳴くのが耳に届く。茶の間の柱時計が鐘を十回鳴らしたが、その夜、健一郎はなかなか寝付くことができなかった。


勇気

2011年01月20日 21時46分04秒 | 航海日誌
ぼくは小さな頃、教室で笑われるのを苦手とした。バカにされるのを嫌った。その場で思いついたことを口にすると、大抵が笑われ、みんなからバカじゃのうと言われたものだ。

なんで、1+1が2なのか、そのわけがわからないというと、みんな笑う。そう決まっているから。決まっていることを判らないのはバカだ。小学校2年のときの話である。

それからぼくは算数が苦手になった。でも、証明はおもしろかった。答えは決まっているが、途中の計算方法に幾通りかあって、それを探すのがおもしろい。できるだけ、変わった計算式を探した。探すのがおもしろいのだ。

以来、ずっとおもしろいものを探している。これがこうでこうなっているというものにおもしろさを感じないという性格ゆえだが、それってなかなかシンドイことで、奇妙なものを発見しても口にすることに勇気がいるのは、何十年経っても変わりませんね。でも、未発見に仕合わせの宝が眠っているのだろうと今だってずっと思っているのです。


米粉(こめこ)

2011年01月17日 23時47分10秒 | 航海日誌
明日、岡山へ。「中国四国米粉シンポジウム」に行ってきます。米粉は最近、一般でも注目の食材。米粉でパンが焼ける家電製品「ゴパン」は、発売以来、注文が殺到して品薄状態だ。パンなら食べるということか。ご飯離れといわれて久しいが、今後、米粉が今の10万トンからどのくらい増産され、日本人の口に馴染んでいくか。米の消費拡大を目指すとはいえ、手を変え品を変えで、さて、どうだろう。貿易自由化TPPの事務レベル会議直前、米粉に情熱をかける人たちの話はいかに。

短編・消えた顔

2011年01月16日 22時14分12秒 | 短編エトセトラ
『消えた顔』

 薄皮を剥がしたばかりの二枚が、ひらり、道端に落ちていた。まだいくらも経たないに違いない。それも、並んだ男女の面皮である。

 アスファルトに貼り付けられたふたつの顔を月がぬめり照らしている。月光の冷たい火であっても、朧気に、顔が笑っているのが判る。

 何を笑っているのかはいっこうに判らない。誰が誰に笑っているのかも知れず、笑っている。

 わたしは帰宅の途中だった。
 こんなところでいつまでも佇んでいても仕方のないことだ。

 家に帰って朝方、食べ残したスウプを温め直して、パンを浸して食べるのだ。それから日記を書き、今日という1日を終えなければならない。また、明日は忙しい。ああ、君もう出来たのかねと小煩い上役の声もこだまする。来週には総決算だ。その前に、かたずけないとならないいくつもの煩わしい作業がわたしの胃を鈍痛で苦しめている。

 ますますわたしは動けずに、アスファルトの上に突っ立って、二枚の薄面皮を眺めている。
 声が背中越しに聞こえた。
――ねえ、あなた
 聞こえないふりをした。
――それ、それよ、あなたの
 知らないぞ。
――落としたでしょ。
 違う、違う。
――だったらあなた、ご自分の顔を
 振り返ると女の影が、アスファルトの一枚を指さして、
――わたしたちのね
 フフフッと声がしたかと思うと、二枚の面皮が風に押されて宙に舞い、どこかへ消えていった。わたしは、ひとつ笑った。或、晩冬の夜の事である。


目が悪いゆえ

2011年01月14日 23時02分36秒 | 合氣道のすすめ
48歳の頃だったろうか、急に、目がおかしくなった。カメラのモニターを見ていて、よく見えないものだから、モニター画面が曇っているのかと、そでで拭いて見直していて、おかしい。尾瀬の木道で写真を撮っていたときのことだ。

老眼とわかったのは、少ししてのこと。もともと近眼で0.03。眼鏡をかけて30年だ。それが急に近くが見えない。近眼なら老眼にならない神話があったから、近くが見えないはずはない。

目で見ることの限界、範囲があるのだ。そもそも、武道(私は合気道)のときには、裸眼で動いている。その時は目で見ていない。身体全体で動きを察知して、相手の顔も、何も全部を見ているような見ていないような状態で対応している。局所を見る必要がないからだ。一点を見れば、そこに囚われる。囚われないには、見ないこと。ただし、ぼっとしているわけでなく、全体を見ている状態で、もっといえば、相手も見ないで、突き抜けて、遠くを見ているのがよろしい。師範によっては、相手の向こうに月を見なさいという。

ブルースリーが、月の道を説いた。あの、月への道を歩くことが今やっていることだ(武道)だと言った。

なぜ、月だといったのか。

わたしなりには解釈が今あるが、それは言葉にしない。

自分でわかって勝手に歩む話。

教えてくれは、つまらない話。

教えられますか?

勝手にやればよい。


成人式

2011年01月10日 17時00分08秒 | 航海日誌
パプアニューギニアでは、15歳くらいだったか、あちら流の成人式で木を組んだやぐらの上から足につるを巻き付けて飛び降りる儀式があるとか。高さが10m以上あるから、相当な勇気を試される。これがバンジージャンプの原形だそうである。

また、北米のネイティブ部族には、やはり15歳くらいになったら、大人の仲間入りをするためのイニシエーションがある。ナイフ1本を持って森に入り、数日間をひとりで過ごし、そこで精霊と対話して自分のトーテムを見つけるという。トーテムというのは、簡単にいえば自分の守護精霊だ。おおかたは森の動物のようで、クマやオオカミ、ビーバーなどといった獣である。たとえば、ヘラジカが現れて何か特別な行動を示したとしたら、それが自分のトーテムとなり、村に帰って報告し、その日からその少年は幼名で呼ばれることはなくなり、ヘラジカ男となる。ネイティブにとって森の動物は部族を結びつけるシンボルなのだ。

これらは、もはやむかしの話であろう。今は当地でもそんな儀式はおこなわれていないのではないだろうか。さて、この日本では。むかしは各地に村の成員になるための独特の儀式があったろうが、高い所から飛び降りるとか、森に入るといった話は聞いたことがない。だから、ずいぶん大人になってお遍路に出たり、熊野古道を歩いたり、自分なりのイニシエーションを試す人もあるのだろう。この私も聖地へ赴くと未だにイニシエーション気分が抜けないところがある。2年前に登った月山(出羽三山巡り)などは、まさしくそうだった。何かが自分の中で発露しないかと。そして、しましたけど(笑)

そして、また一歩だ。この感慨は生涯続くのだろう。

どなたか日本独特の面白い儀式をご存じなら、教えてください。


時間の感覚

2011年01月08日 17時53分40秒 | 航海日誌
皆さん、このお正月はいかがお過ごしでしたか。
改めて、新年おめでとうございます。

さて、正月があっという間に過ぎて、その後におまけのようにこの3日間の連休。正月は、新年の挨拶やら何やらで忙しい。で、この連休のほうが出来なかったことに時間が使える。部屋の片付けやら、読書やら。直後の休みは大人のお年玉のようなものである。

時間とは、身をおく状況によって変化するものだ。時計の針は規則正しく回っているだけの物理時間の話。心理時間のほうは、心の有り様でさまざまに変わるのですな。

人間は脳の電気的な明滅により、意識と意識に狭間がうまれる。意識しっ放しということはないから、その狭間で時間感覚が変わるのだろう。何事かに忙殺されると、あれよあれよと言う間に時間が過ぎているが、ゆったり過ごしていると、長い時の間を感じる。今がその時間。コタツに入り、年賀状を読み返して久方のお人の顔を思い浮かべたり。

人生をゆったり生きれば、長い年月を感じ、慌ただしく駆け抜ければ、あっという間ということを言いたいのだ。まあしかし、長かろうが短かろうが、その中身に満足いけばいいのだろう。何をどう為すかはとやかくいうことでなく、その人なりのものをその人なりに一所懸命であればいい。時間というものが、人間の意識の明滅なれば、ほんとうはずっと今なのだから、長いも短いもない。ただただ、生かしていただいて、ありがとうの気持ち。わたしらは、生まれてこの方、初夢の中にいるといえまいか。


釣り少年5(後編)

2011年01月04日 10時19分05秒 | 短編「釣り少年」

「タスマニアの鱒」


〈ロンドン・レイクスの大鱒〉

 ロッジは丸太づくりのがっしりした山小屋風の大きな建物だった。表のドアには真鍮製の鱒が取りつけてある。ここがフィッシングロッジだということは誰の目にも明らかだ。
「ロンドン・レイクスへようこそ。さあ,なかに入って」
 オーナーのジェイソンが、日本からまっすぐここに向かってきた客をていねいに出迎えてくれた。
 玄関ホールはタータンチェック柄の赤い絨毯が一面にひかれていて、その奥には大きな暖炉が据えられていた。すぐに案内された部屋は、やはりタータンチェック柄のベッドカバーが掛けられたツインの部屋だった。

 僕はツインの部屋をあてがわれ、どうも落ち着かない。シングル料金しか取られないとわかっていても、空のベッドをもったいなく思ってしまう。そういうときは、ワンベッドの部屋に変えてほしいと頼むのだが、ここではそれは無理のようだった。5部屋ある客室はすべてツイン。つまりここに釣りに来て泊まれる客は10名で、湖での釣りも、その10名に限られる。料金はちょっとしたリゾートホテルの倍もしたが、1泊2日の食事と釣りガイド料も含まれているのだ。

 ディナーが始まるまで、僕は片方のベッドに寝ころんで休むことにした。長旅だった。日本を発ち約10時間、太平洋上を飛んでシドニーに着き、それから国内線に乗り継ぎ、メルボルンを経由してホバートに3時間半かかって着いた。空港ではトラブルが待っていた。預けた荷物がターンテーブルに出てこない。しばらく小さな空港をぶらついて荷物を待っていた。
 旅行バッグは、結局、1便後の飛行機に載せられていた。胸をなでおろし、空港でレンタカーを借りて、ロンドン・レイクスのある中央高原までの2時間半のドライブをこなしてきたのだった。

 長旅の疲れは、すでに麻痺していた。肉体は精神と微妙にずれた状態で、体がワンテンポ遅れてついてくる。僕はあやつり人形にでもなったような調子で、宙を浮きながらディナールームへ向かった。
 そこには、ダイニングテーブルに着いた3人の客が、白ワインを飲みながら話込んでいた。僕より20年は歳を取った男たちだった。空いた席に着くとワインを勧められ、見知らぬ者どうしの挨拶程度の自己紹介をした。

「初めてタスマニアに来ました。ここで釣りをするのが夢だったんです」
 僕は、少し嘘をついた。夢だったのは、むしろTのほうだ。いつしかTの夢が僕の夢になったのだ。
 これでグループに入る儀式は終わりだ。あとは、釣り談義に聞き入っていればいい。
 3人の内のひとり、スティーブはシドニーの弁護士で、よく喋った。先ほどから聞き入ってばかりの僕に、話の矛先を向けたのは彼だった。
「私は年間、50週間働いて、そして12月になるとタスマニアに来て1週間釣りをするんだ。釣りは人生の妙薬だよ。これなしにはとても生きられない。君は、日本でどんな釣りをしているのかね」
「釣りは久し振りです。それに、フライフィッシングは初めてで」
 自分がまったくのビギナーだということを言うのに、ためらいがあった。ロンドン・レイクスは世界中の腕自慢が集まる場所である。どこかの大統領がヘリでやって来て遊ぶ場所でもある。僕はそのロンドン・レイクスで、フライフィッシングを一から習おうと思ってやって来たのだ。たったの1泊2日だけど。
「ここではフライフィッシングが楽しめるよ。この釣りは、古典的な釣りだが、未来の釣りでもあるんだ。魚との知恵くらべで、とてもゲーム性の高い遊びだし、自然のことも理解せにゃならん。たぶん日本でも、これからフライフィッシングに興味を持つ人が増えてくると思うね」
 彼は紳士的に話し、素人を見下すような態度は微塵もなかった。まだ一度もフライの竿を振ったことがない僕は、黙って彼の意見にうなづいた。
 メイン・デッシュにチキンのパイ包みをたいらげ、舌がとろけそうな甘い苺ソースのケーキを食べて、ディナーが終わった。席を立ち、皆が暖炉の方へ集まったので後に続いた。3人のお客たちは、ビデオでアラスカのサーモン釣りに見入っていた。僕はコニャックをもらい、薪の爆ぜる炎を見つめていた。

 暖炉の炎がちらちら揺れ、いつもの場末の新宿のバーが目に浮かんだ。
 Tの声がした。
「そこは釣り師の夢の城だ」
 台詞が耳の奥に残った。
 コニャックの甘い酔いがまわり、宙に浮いたあやつり人形のようになって部屋へ戻り、ベッドに倒れ込んだ。

 闇の中にいた。
 一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
 ベッドサイドのライトをつけ腕時計を見ると、午前3時きっかりを指していた。釣りに出かけるのは4時過ぎだ。僕は静かな興奮を抱きかかえたままベッドの中でまんじりともせず、時の過ぎるのを待っていた。

 Tがくれた釣り竿を握りしめ、胸まであるゴム製の長靴をだぶだぶ鳴らしながら、ガイドのクリスについて湖の岸辺を歩いていた。クリスは190センチはあろうかという大男で、そのうしろをゴム長を引きづりながら歩く自分が、まるで子供のように思えた。あたりはまだ薄暗く、タスマニアは12月の真夏だというのに少し肌寒かった。やがて森がひらけ、湖面が広がっている場所に出た。クリスが指さすほうを見ると、水面に波紋が残っていた。そしてまたその近くで鱒が跳ねた。大男は僕の頭の上のほうで、
「ライズ、ブラウントラウトだ」
 と小さな声で言った。

 羽化した水生昆虫を狙って、鱒が水面を割って飛び上がる。鱒はそうして虫を食べていた。その様をジャンプというではなく、ライズと言った。朝もやの中に姿を見せた鱒の黒いシルエットがくっきりと目に残った。
 ブラウントラウトだ!
 クリスが、後ろから僕の肩をとんとんと叩いて、竿をかざした。まずは自分が竿を振るのを見ててくれと言った。
 ヒュン、ヒューン、ヒューン
 竿の先から伸びた太いラインを、2度、3度、前後に振ると、竿のしなりでまるでムチのようにスルスルと飛んでいく。そのラインの先端に毛バリが付けてあり、数10メートル先に、本物の羽虫のようにひらりと落ちた。手品かなにかでも見ているようだった。あまりに華麗なその一連の動きが見事で美しかった。

 今度はこちらの番だ。しかし見るとやるとでは大違いだった。ムチのようにラインを振るタイミングがわからず、目の前の水面にラインと毛バリが絡まって落ちた。「最初はこんなもんだ」と呟いた。それから何十回と呟き、竿を振り続けた。そんな調子でもなんとか毛バリが前へ飛ぶようになった。
 湖を半周はしただろうか、もう昼間近かで午前中のレッスンは終わった。ブラウントラウトは一度も顔を見せてはくれなかった。ロッジに戻り、サンドイッチを頬張ると、右手の上腕筋にだるい痛みを感じた。それは昔、テニスをやり始めたころの痛みに似ていた。テニスのときもそうだったように、僕は早くプレイを再会したい気分で落ち着かないランチタイムを過ごした。

 午後の湖は、姿を変えていた。風がユーカリの木立を揺すり、湖面を波立たせた。水に浮く毛バリが見え隠れしていた。いつ鱒が飛び出すかしれない。ずっと目が毛バリを追っていた。場所を少し動き、毛バリを飛ばし、また見つめ続ける。そうした動作を何度も繰り返し、30分が過ぎ、1時間が過ぎ、頭の中に空白の状態が続いた。ときたま息が切れたように竿を小脇に抱え、煙草に火をつけた。そしてまた毛バリを見つめ続けた。目玉だけが毛バリを見つめているような不思議な感覚だった。僕は目玉になって、湖面に浮いた毛バリを見つめ続けた。

 突然、黒い影が、水の中から現れた。
 バシャ、バシャ、バシッ
 竿が弓になり、一瞬でぷつりと糸が切れ、毛バリごと魚は姿を消していた。手が震えていた。
「ここ何週間かで釣られている魚で、今のが一番大きかったと思うよ」
 クリスは、自分のことのように肩を落としてそう言った。
 そして、
「今逃げたブラウントラウトは、口に勲章を付けてるんだ。つまり君の毛バリが勲章なんだよ」
 と、付け加えた。
「毛バリが勲章か」
 僕はひとりごちて、湖の鱒が顔を出したあたりをしばらく眺めていた。さざ波を立てながら風が湖面を吹き抜けていった。

 ロッジに戻ると、オーナーの甥っこが、すぐに釣りの成果を聞いてきた。両手を広げて肩を上げて見せると、麻袋の中から立派な鱒をつかみ出して、目の前に突き出した。いぶし銀のような体色に,オレンジがかった黒い斑点が目立った。顔にはギョロリとした目玉があり,顎と口が猛禽類のくちばしのように突き出して先で曲がっていた。生まれて初めて見るその鱒は、獰猛でかつ知恵者という印象を与えた。60センチを超えるブラウントラウトだった。       
「初めて釣ったんだ」
 少年は瞳を輝かせ、満面に笑みがこぼれた。
 彼はハイスクールの夏休み中で、ロッジの手伝いをしながら、フライフィッシングをマスターしようとしていた。そして、9日目にやっとのことで一匹の鱒を釣り上げた。15歳の少年は、この先、ロックミュージックや女の子に夢中になるだろうが、フライフィッシングの聖域は侵されることなく人生に君臨し続けるだろう。

 僕がロンドン・レイクスで鱒に勲章を与えて、翌日からは高原に点在する湖を巡り、覚えたてのフライフィッシングで釣り歩いた。島には3000もの湖があると聞いていた。そのほとんどに鱒がいるということだった。
 鱒はいっこうに釣れてはくれなかった。夏だというのに、ハイランドの湖は小雪がちらつき寒い思いばかりしていた。だれもいない湖の岸に立ち、飽きもせず、ひとり竿を振り続けた。実のところ素人の自分に、はたして釣れるものかどうか、確信などなかった。ただ、釣れてくれるような気がして、その気分を楽しんでいたといったほうがいい。夜は湖畔のロッジで泥のように眠った。

 5日目の午後だった。湖というより大きな沼のような場所で、鱒が、僕の毛バリをくわえた。弾丸のように水中に潜ったかと思うと、次の瞬間、鱒は宙を跳ねた。野生の生命は数分の間、爆発したかのような活力を見せた。その動きに翻弄され、竿を持っているのが精一杯だ。それでもなんとか岸辺に寄せて、メジャーで計ると45センチほどのブラウントラウトだった。この土地では決して大物と呼べるサイズではなかったが、僕にとっては夢のような鱒だった。
 やっと釣れたこの鱒はビギナーズ・ラック、幸運の賜物だ。脳の中の、空白だった部分に、赤い血が一気に流れ込んだような新鮮な感触が味わえた。流れ込んだ血は、僕のなかでずっと眠っていた野性の血とでも呼べそうなものだった。
 僕は、足元に竿を置き、顔を赤く上気させて、冷たい水が打ち寄せる湖のふちにしばらく立ち尽くしていた。

                ○
 蒸気船のやさしい揺れが好きだった。フロントデッキの上で、しばらく僕は浅い眠りに落ちていたようだ。蒸気船は出航した河口の桟橋に向かって煙りを吐き続けていた。同じ川を逆戻りしているわけたが、景色は違って見えた。初めて歩く道で、行きと帰りがまったく違った道に見えて戸惑うことがよくある。川もまたひとつの道ということか。いづれにしても道に迷うわけでもなし、また違った景色が見られるのだから、そのほうが良かった。流れゆく世界をぼんやりと眺めて、水辺の風景を楽しんでいた。バターカップの黄色い小花が、土手の草原に点々と咲いていた。男の子がそのなかに腰掛けて釣り糸を垂らしていた。絵のなかのような、のどかな風景だった。

 デッキで風に吹かれ、沈黙のまま座りつづけている僕に、ピーター船長が話かけてきた。
「ホバートの街の前を流れるダーウェント川は見たかい。あの大きな川では、捕鯨が行われていたんだよ。海から上がってきたクジラの潮を吹く音で眠れないほどだったんだ」
 その話は、無口になっていた僕の気を充分に引きつける内容のものだった。
「クジラが見られるの?」
「もうずいぶん昔の話さ。クジラの潮吹きがうるさいってのは、タスマニアの初代総督が日記に書いていたものだよ」

 クジラの話は、150年も前のことだった。クジラが大挙して潮を吹き上げる姿がビジュアルになって、頭の中を悠然と泳いでいった。
 満月の夜、クジラたちが仲間どうし唄を歌い合いながら、湾からダーウェント川へクルーズするのだ。それは愛の歌といわれるが、どんな歌なのだろう。人間が聴いて、その旋律に心がときめくだろうか。その歌と、時折、吹き上げる潮の息が、植民地の港街に鳴り渡る。巨大な水の生き物の存在が、闇のなかで空気を伝ってやってくる。ベッドの中で息をひそめ、その音を聴くのだ。

 この土地の天気は変わりやすかった。1週間いつもそうだった。晴れのち、どりしゃぶり、ときに雪、そして虹という天気。気温も8度から20度まで上下した。にぎやかな天候に一喜一憂しつつ、それを旅として楽しんだ。豊かな雨が、森にしみ、湖に湧き、川となって流れ、大海へと続く。そこに鱒やサーモンやクジラたちが群れ泳ぐ。オーストラリア内陸の砂漠とはまったく異なる水の世界。タスマニアは、水の国だった。

 またもやポツリ、ポツリと大粒の水滴がデッキを打ちはじめ、やがて大粒のシャワーとなった。しばらく僕はデッキの上でそのまま雨に打たれ、水と遊んだ。川下の遙か上空には青空がのぞいていた。
 船室に入り、シャツを脱いで手すりに掛けた。ポタポタとしずくが木の床に落ち弾け、小さな水たまりを作っていた。やがて水滴の量が水たまりとなり、床の低い方へひと筋の線を描いて流れていった。僕は曇った眼鏡をバンダナで拭き、窓越しに川を眺めた。川いちめんに、雨が無数の波紋を打っていた。湿った冷たい風が、川面を渡っていった。蒸気船は相変わらずのマイペースで、白い煙りを吐きながら、水性動物のようにゆったりとヒューオン川を下っていった。

(1991年)


短編・釣り少年5(前編)

2011年01月03日 06時59分58秒 | 短編「釣り少年」
釣り少年その後・・・

「タスマニアの鱒」


 青空を映し込んだ川面を、蒸気船が、微かな流れに逆らって滑り出した。煙突から白いスチームをシュッーと吹き出し、漏れ出た息のような響きが、タスマニアの高い空に消えていった。ときおりくり返す船の吐息が、あたりの静けさをいっそう際立たせた。
 蒸気船は、全長32フィート、10メートルそこそこの大きさしかなかった。定員12名の小型船だ。川幅もさほどなく、穏やかな流れのヒューオン川を上り下りする観光船としては、おあつらえ向きのサイズだ。船体は、目につくところすべてが木製で、柔らかな感触を与えてくれる。

 オーストラリアの島で、南半球では12月のサマーシーズンなのに、客は僕ひとりだけだ。週末にはバカンス客でにぎわうのだろうけど。たったひとりの客でもこころ良く乗せてくれた船長に、感謝だった。

 ブラウンカラーの船体に、白ペンキで、レディ・テレサ号と書かれていた。
「テレサは妻の名前なんだ」
 舵を取りながらピーター船長が微笑む。
 乗船するとき、ボートハウスで見送ってくれたテレサ婦人は、素朴な美しさを秘めた人だった。その姿が、この蒸気船のイメージと重なった。
 ストライプ柄のオーバーオール姿の彼は、40歳を過ぎくらいで、色白でほっそりとしていた。蒸気船の船長というよりも、どちらかといえば教師かエンジニアといったタイプだ。
 
 ピーター船長が、船を持った経緯を教えてくれた。以前は、街で小さなレストランをやっていて、地元料理を家庭風の味付けで出してけっこう繁盛していたそうだ。その店を手放して、長年の計画だった蒸気船づくりに夢をかけた。そして丸2年を費やし、自宅の庭で巨大な模型でも作るかのように、この船を手作りで完成させた。木造の船体だけではなく、蒸気エンジンも手製なのだと言った。古いアメリカ製の図面から再現したエンジンは、1時間に25キロの薪を燃やして、8ノットのスピードが出せるという。ディーゼル・エンジンの性能とは比較にならないが、アンティーク・エンジンの復活は、ゆったりとした旧時代の乗り心地というものを味合わせてくれる。彼は庭先でコツコツと手仕事を続け、頭の中の蒸気船を現実のものにしたというわけだ。

 その蒸気エンジンは、操舵室のすぐ真下でメラメラと薪を燃焼し、シャフトを回す鋳物の塊だ。煙りと潤滑油の匂いが立ち込めるレディ・テレサ号の心臓部は、力強く回転し続けていた。

 薪で動く、こんなエンジンがよく作れたものだ・・・
 マシンというのは、こういう物のことだ。コンピュータ制御で動くエンジンなど、僕には理解の域を超えた代物で、無表情な金属製品にしか思えない。そこへいくと、この薪のエネルギーが動力に直結した運動のさまを見ていると、生き物に対するような感情さえ芽生えてくる。
 鋳物の固まりが、両腕を勢いよく振り回し続ける。
「いいぞ頑張れっ!」
 僕はスポーツ観戦客のように声を弾ませ、マシンに声援を送った。

            ○
「ビール飲まない? チーズと生牡蠣もあるけど」
 真上から船長の声が聞こえた。
 クーラーボックスの中でよく冷えたタスマニア産のドラフトビールが、舌に甘さの混じった苦みを残して喉へ流れた。
 デッキに出ると川の風がここち良く、手に持ったボトルに午後の日差しが反射して輝いた。ラベルには、すでに絶滅してしまったといわれているタスマニア狼の絵が描かれていた。タスマニア狼は、それでもまだ奥地に生きていると信じて疑わない人もいる島の野性をシンボル化した幻の獣だ。

 船長はラベルを指さして、
「一度だけ見たことがあるんだ。ただし博物館の剥製だけどね」
 と言って肩を落とした。
 彼はタスマニア狼を見るのが夢だが、この夢だけはまだ果たせないと言った。

 タスマニア狼は、カンガルー、ウォンバット、フクロギツネといった有袋類の仲間だ。お腹の袋で子どもを育てる動物たちは、このオーストラリアにしかいない。
 そのなかでも変わり種は、全身針だらけのボールのような生き物だった。ユーカリの森で、全身の刺を逆立ててうずくまっていた。半身を土にもぐらせておけば、硬く鋭い刺で身を守れるという防備の仕種だ。このハリモグラは、乳で子育てするのに子を卵で産む。その昔「子どもは卵で産みたいの」といった日本の女優のせりふを思い出した。それならハリモグラになるしかない。
 世界中にそんな生き物は、もう一種だけいる。ビーバーのような体にアヒルのようなくちばしをくっつけた動物、カモノハシだ。つまりタスマニアにはその両者がすんでいることになる。そのカモノハシは、湖の果てに小さく点のような姿で泳いでいるのを一度だけ見た。

 タスマニアは、オーストラリア大陸の右下にぶら下がったリンゴのような形をした島である。けれども北海道ぐらいの大きさがある。かつては開拓の島で、1800年代初頭に、オーストラリア本土から多くの人間が入植し、広大な原生林がヒツジの牧草地に変えられている。人間が来る以前は、もっと数多くの動物たちが生きていたことだろう。自然保護思想が先進国の良識として掲げられる時代となって、今では島の面積の5分の1が国立公園となっている。
 だが、残念ながらビールのボトルに姿をとどめるタスマニア狼は、開拓時代の乱獲と環境劣化という歴史のなかで消えてしまった。肉食獣の頂点にいた彼らは、有袋類の代表として犠牲になった。


〈釣りのチャンス〉

 レディ・テレサ号が、それまでの舵取りを変え、ゆっくりと停止した。そこは川が左に大きく蛇行していて、川幅も倍の広さになった場所だった。
「ここでサーモンを狙ってみよう。運がいいとヒットするんだが」
 船長はそう言って、船首へ行って錨を水の中に沈めた。それから釣り具を2セット用意し、一本を僕に差し出した。竿はルアー釣りのもで、餌は小魚に模した鉄製の疑似餌だ。サーモンはこれを弱った小魚と思って食らいつくという仕掛けだ。
 運がいいと釣れる、と言った船長の言葉が耳に残ったまま、僕はリールを巻いて糸をたぐり寄せていた。濃紺のとろりとした水の中はのぞくことがならず、はたして魚がいるのかどうか見当がつかないままで、ただ運を信じてルアーを泳がせていた。
 船長の言う運とは、まだサーモン釣りのシーズンではなく、ひょっとしたら釣れてくれるかもしれない、という意味だった。そうだと気づいたのは、結局、運がないという答えがでて竿をたたんでからだったが、釣れようが釣れまいが僕としてはどちらでもよかった。

 ピーター船長は、
「チャンスはまた来るよ」
 とだけ言った。
 チャンス。いい言葉だった。釣りのチャンス、旅のチャンス、人生のチャンス。この次がまたきっと来る。そう信じることができるかどうかがチャンスを掴む分かれ目となる。大切なのは自分の感覚をシャープにしておくこと。釣りで言えば針先に磨きをかけておくことだ。

                 ○

 そもそも僕がこのタスマニアに来た目的は、釣りをすることにあった。それまでまともに釣りをしたことのない人間が、釣りのために外国を旅するというのも妙な話だ。
 だが、この旅は、釣り好きのTという友人の話から始まったのだ。彼とはたまに場末のバーへ行き、旅と釣りの話を酒の肴にして飲んでいた。Tは海外へもたまに釣りに出かけている。彼の釣りはフライフィッシングというやつで、その釣りの話には、異国の人間模様や土地の料理、酒の話が絡まって飽きさせない。僕はウイスキーに酔い、釣りに酔う。
 そして、最後には決まって、
「フライってのは,魚との知恵くらべだな」と言う、そのせりふで僕の耳はピクリッと動く。
 僕はTの話に聞き入り、昆虫に模して作った毛バリで鱒を釣るそのフライフィッシングに興味を持った。イギリスで誕生したその釣りには、餌釣りにはない、さらなる遊びの世界が開けているような気がした。ただし、そこには気軽に手を出せない深みのようなものが感じられた。いつか、何かのタイミングで、僕もフライフィッシングをするかもしれないという漠然とした予感が、妙にこころに引っ掛かっていた。

 久し振りにTとカウンターに並んで酒を飲んでいた。
「タスマニアって知ってるか」
 Tが、唐突に言った。
「オーストラリアの島だろう」
「お前、動物詳しいよな。有袋類ってのもいるらしいぞ」
「知ってるさ。あの島には、独自に進化した動物がいっぱいいるよ」
「今年、そこへ行こうと思ってるんだが」

 Tは、タスマニアでブラウントラウトを釣るのが夢なのだと言った。タスマニアへ行く日本からの観光客はわずかなもので、オーストラリアのなかでも遠い地に数えられるらしい。ひと通り話し終えると、キャンパス地のバッグから“タスマニア釣り天国”というタイトルの入ったパンフレットを取り出して、僕に渡した。
「ロンドン・レイクス」という名のフィッシングロッジが案内されていた。釣り専用の湖が二つあり、ロッジに泊まってガイド付きで釣りを楽しむ。オーナーはフライフィッシング歴40年とあった。必要な道具もすべてが完備されている。釣れる魚は、ブラウントラウト。1880年代にイギリスから卵のまま帆船に乗せられ、はるばるとタスマニアにやって来た魚の末裔ということだった。島に隔離されたお陰で、いまではヨーロッパの在来種よりも原種に近いとある。つまり純潔種。犬でいえばさしずめ血統正しき名犬というところか。
 パンフレットには、ざっとそんな内容のことが書かれていた。イギリス人というのは、世界中から香辛料や紅茶だけでなく、ありとあらゆる生物標本や民芸品の数々を自国の博物館に収集してきた民族だが、一方では移住先に鱒の卵まで運ぶのだから、恐るべき執念の持ち主だ。ともかく、卵で大洋を渡ったその鱒が、とても崇高な魚のようにも感じた。

「よし、行こう。その鱒を見てみたい」
 グラスの残りを飲み乾して、僕は言った。
「今年の12月、向こうは夏だ」
 Tが言った。
 そして僕が、結局はひとりでその歴史的な鱒の末裔に会いにいくことになったのは5カ月後のことである。直前になってTはこの旅に出られなくなった。
「彼女に、子供ができたんだ」
 僕はおめでとうを言った。彼は照れと嬉しさの交じった顔を作って、大きく溜め息をついた。彼にとって間もなく結婚生活が始まることを意味していた。
 Tは、思いつきを軽く口走るタイプではない。口にしたことは守る男だった。その彼が自分から言い出した約束を果たせなくなったのが辛そうだった。延期という手もあったが、旅に出る時間と金を用意した後だった。
「旅はタイミングだ。今がお前のタイミングだぜ。俺も絶対に行くから、代わりに偵察して来てくれ」
 と言って、Tは、フライフィッシングの道具をワンセット、プレゼントしてくれた。竿のグリップに銀色のリールを取り付けて振る真似をしてみた。手首を軽く動かすだけで竿は意思を持つ生き物のようにぷるぷると震えた。リールを巻くと、かりかりと小気味よい音が薄暗いバーに響き渡った。


(つづく)

謹賀新年

2011年01月01日 17時21分46秒 | 航海日誌
あけまして おめでとう ございます

今住む地元(落合・高田氷川神社)の氏神様に初詣して、
かみさんと息子の神楽坂・赤城神社の産土神(うぶすま)さんへお参りして

すがすがしき 新年の今日であります。

氏神とは、住んでいる土地の神で、産土神とはご自分が生まれた土地に祀られる神。
ゆえに、氏神は移住ごとに変わるが、産土神は一生変わらないのです。
広島生まれのわたしの場合は、臼山八幡神社が産土神です。

さて皆さまは、新年いかがお過ごしでしょうか。
おおかた、ご近所の神社に初詣されたのではないでしょうか。

お詣りで、すっきり。

ああ、日本人。

また、ちょいと、おとそをいただきましょうか。