『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

合気道

2014年03月02日 09時27分05秒 | 合氣道のすすめ
おはようございます。
今朝は、合気道のお話を紹介します。合気道開祖の植芝盛平翁がおっしゃった不戦の精神について。
以下は、その言葉です。
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「合気道開祖 植芝盛平」

合気道とは、敵と戦い、敵を破る術ではない。
世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。

合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させる事にある。

合気道の極意を会得したものは、宇宙がその腹中にあり『我は即ち宇宙』なのである。

私はこの事を武を通じて悟った。

敵が『宇宙そのものである私』と争おうとする事は、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。

即ちわたしと争おうという気持ちを起こした瞬間に、敵はすでに破れているのだ。合気道は無抵抗主義である。

無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。

邪気ある人間、争う心のある人間ははじめから負けているのである。

では、如何にしたらその邪気を払い、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?

それにはまず、神の心を己の心とする事だ。

それは、上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまで及ぶ、偉大なる『愛』である。

『愛は争わない』『愛には敵がない』何ものかを敵とし、何ものかと争う心は既に神の心ではないのだ。

これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。

だから、武技を争って勝ったり負けたりするのは真の武ではない。

真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。

即ち絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬ事である。

勝つとは己の心の中の『争う心』に打ち勝つ事である。

与えられた自己の使命を成し遂げる事である。
 

内観

2011年01月26日 23時01分51秒 | 合氣道のすすめ
自分の心を見つめることが重要な時代になりました。禅の世界では、「内観」として教えますが、一般にはあまりなじみのない精神論です。自分の心を見つめることというのが、感触として、解りにくいのです。

人は、外界の刺激に反応して、意識を外にフォーカスさせているのが常です。相対する人が言葉を発し、どんな態度をしたかに気を向け、それに対して言葉や態度を示します。そのとき、自分が何を感じ考えているかを同時に捉えることが出来にくい。ほとんどが相手の意識に引っ張られ、それにどう対処するかに心を奪われています。また、相手もしかりで、返された言葉や態度に反応してと、互いに相手を映し合います。

「内観」がおこなえると、相手も自分もなく、中空から双方を見つめることが出来ます。すると、第3の目を持つことがかないます。どちらにも言い分があり、感情で物事を言い合っているとわかります。そこに在るのは、自分のほうが正しいといった、保身です。いつもそうだというわけではありませんが、大方がそういう心理状態にあります。

「思いやり」は、そんな状態から心を相手に傾け、相手の心を察することですが、それでもまだ「内観」ではありません。内観は、思いやっている自分も見つめます。いいとか悪いとかといった価値判断の無い、客観的な心理状態です。ただ、自分を見つめ、おのれを知るということのみです。シンプルゆえこれが難しい。しかし、世界を変える唯一の方法と言えるのです。変わることがあれば、だた、それだけです。霊的視座と呼べるものゆえ、その意味を了解するのは難解です。


目が悪いゆえ

2011年01月14日 23時02分36秒 | 合氣道のすすめ
48歳の頃だったろうか、急に、目がおかしくなった。カメラのモニターを見ていて、よく見えないものだから、モニター画面が曇っているのかと、そでで拭いて見直していて、おかしい。尾瀬の木道で写真を撮っていたときのことだ。

老眼とわかったのは、少ししてのこと。もともと近眼で0.03。眼鏡をかけて30年だ。それが急に近くが見えない。近眼なら老眼にならない神話があったから、近くが見えないはずはない。

目で見ることの限界、範囲があるのだ。そもそも、武道(私は合気道)のときには、裸眼で動いている。その時は目で見ていない。身体全体で動きを察知して、相手の顔も、何も全部を見ているような見ていないような状態で対応している。局所を見る必要がないからだ。一点を見れば、そこに囚われる。囚われないには、見ないこと。ただし、ぼっとしているわけでなく、全体を見ている状態で、もっといえば、相手も見ないで、突き抜けて、遠くを見ているのがよろしい。師範によっては、相手の向こうに月を見なさいという。

ブルースリーが、月の道を説いた。あの、月への道を歩くことが今やっていることだ(武道)だと言った。

なぜ、月だといったのか。

わたしなりには解釈が今あるが、それは言葉にしない。

自分でわかって勝手に歩む話。

教えてくれは、つまらない話。

教えられますか?

勝手にやればよい。


「力む」とは5

2010年10月31日 18時45分47秒 | 合氣道のすすめ
何度かに分けて「力む」ということについて書いてきました。力むの反対は、「ゆるむ」です。「ゆる体操」というものがあります。身体科学を研究する高岡英夫さんが提唱する健康法です。身体をゆるめていくと、思わぬ動きが出来るようになるし、内蔵もゆるめることで機能をアップすると言います。

現代は、ストレス社会と言われるように、心身に想像以上に負担がかかっているようです。満員電車ラッシュ通勤で会社に出て、この不況でノルマも厳しい。人員削減で仕事量も増え、給料は上がるどころか下がって帰りの赤提灯での一杯もできない。リストラの憂き目もいつ何時か・・・これはサラリーマンの話ですが、社会のしわ寄せはあらゆるところに出ていますね。みんな、きつきつで苦しい。気がつかないうちに「力んで」いると。肩の荷を下ろして、肩の力を抜いて、と言っても、抜けるような状態じゃない。

今の生活現状が、プレッシャーを与えるほどに、それに対して「力んで」いても、我慢できる限度があります。だったら、うまく力みを抜いて、なにもかも頑張ろうとしないことも大切なことと思います。かく言う私も性格的には「力んで」しまうタイプです。だからどうしたら力まないでいけるかと考えてきました。そこで結論は、ゆるめばいい。話は簡単です。

ゆるむというのは、覇気を無くすることでも、のんべんだらりでもありません。身体の芯(正中線)をしっかりさせて、しなやかになることです。柔らの道に「柔よく剛を制す」という言葉がありますが、柔軟になる、その術(すべ)です。ここでつらつら書いてきたことは、言葉ですから、なんかそうみたいだけどとヒントにしてもらって、感触、実感は自分でみつけていただきたい。そう思います。「自分の主は自分」ですから、ご自分を納得させるのは自分です。合気道も、「力まない」その感触を得る門ということです。世にはいろんな門がありますから、ぜひ、自分にあったものを見つけて、うまく「ゆるみ」ながら人生を謳歌していただきたいと思います。


「力む」とは4

2010年10月30日 13時44分08秒 | 合氣道のすすめ
なぜ、力んでしまうのか。筋肉を固めて攻撃に備える、相手の力に対抗しようとする「防衛本能」です。緊張すると身体は自然とそうなる。身構える状態です。それで防衛できるレベルもあります。しかし、硬直で身を守れる限度を超えると危険な状態になってしまいます。自分より大きな力がぶつかってきたら、受け止めるよりも、受け流すか、身をかわすほうが安全です。

ところが、緊張して固まっていると身体が動きません。そこで合気道では、さっと身体を動かせるようになる練習をするわけです。例えば、徒手を振り下ろして打ち込んでくるのを、かわして技を掛ける稽古をします。また、短刀(模擬)を突き込んで、かわすこともします。何度も稽古を重ねて慣れていき、とっさの攻撃に身体が動くようにするためです。

幕末の倒幕派の話ですが、京の街中で出くわした侍が刀を構えて軽く握っていたら、その相手は新選組だと思えという申し合わせがあったそうです。真剣を交えても、力まない相手は強敵だから逃げろというのです。今の時代でも、現実に街角で斬りつけられる事件が起こっている昨今は、いつ何時とも言えます。もし、そうなったら身をかわして逃げるが勝ちです。力んで身構えていたら命取りになりかねません。

身体の状態と心は連動しています。力まないことに馴染んでくると、気持ちもゆったり保てるようになります。また、心がゆったりしていれば、身体もリラックスするのです。心身一如というように、ほぼ同時にそうなる。力まなければ心も落ち着き、平常心を保てるようになります。

合気道は少ない力で投げ飛ばせるとか、とっさのときに身をかわせるとか、そういったメリットがありますが、何よりも、平常心を保てる精神と身体を錬磨することこそが目標だと思います。そのための、力みを抜く稽古なのです。つまり、心と身体を自由自在にコントロールする訓練をしているということです。
(つづく)


「力む」とは3

2010年10月29日 11時44分52秒 | 合氣道のすすめ
「力むな」では力は抜けません。命令では筋肉は従いません。では、どうすれば・・・? 合気道の稽古法のひとつで説明します。片手の手首を掴まれた状態で、相手の足下にその手を突き下げる「隅落とし」という技があります。初心者の場合、力みが入ったままで手腕を動かすので、掴んでいる相手もそれに反応して筋肉を固め、技が掛かりません。

そこで、こう教えることがあります。「足下に100円が落ちてるよ。それを拾う感じで手を下ろしてごらん」。落ちているコインを力んで拾う人はいませんね。むしろ、さり気なくすーっと拾う(笑)。そんな感じで手腕を伸ばすと、相手は拍子抜けで腕を持って行かれ、アレ?と思う間もなく技が掛かってしまうのです。

さて、どんなスポーツでも、応援で「がんばれ~ファイト!」と言われたら、歯を食いしばって力んでしまう。「がんばる」とか「ファイト」という言葉が、「力み」に繋がっているかのようです。がんばろうと思うと、よーしと力こぶを作って、ファイトと腕をかざす。体育や運動会で、誰しもそんな経験があるのではないでしょうか。

でも、運動神経がいいと言われる同級生などは、どこか悠々としていて、サッカーの試合などでボールをひょいひょいと運んでゴールを決めます。身体の力みを抜いてなどと考えることもなく、そうしている。サッカーがうまいと自他ともに認められているので、その余裕からリラックスしていて、力むことがないのです。しかし、そんな運動神経自慢の仲間も大きな大会へ出場して、もっとレベルの高い選手と競うと、とたんに緊張して固くなり、いつもの動きができなくなってしまいます。

もう、ご理解いただけたと思いますが、身体の動き働きは、精神状態によって変化しているということです。心の置き所、あり方が身体に影響を与えているのです。
(つづく)


「力む」とは2

2010年10月28日 09時57分28秒 | 合氣道のすすめ
もう一度、合気道の稽古で「力む」場面を説明します。稽古相手と対面して、片方が技を掛け、もう一人がその技を受けます。技を掛ける方は、その瞬間に力みを無くしてスムーズに動きますが、初心者の場合はここで力んでしまいます。なぜなら、技を掛けようと意識し過ぎて腕力に頼り、筋肉が硬直してしまうからです。このときの力みを「屈筋力」と呼びます。屈筋は物を持ち上げたり引っ張ったりする筋力(力こぶ)で、筋肉(上腕筋)が縮んで出すパワーです。一般に腕力とはこの屈筋力のことを指しています。

一方、あまり認識されていない筋力が、「伸筋力」です。これは筋肉の束が伸びることで出るパワーで、手腕を突き出す力です。実は、この伸筋力は、屈筋力の数倍のパワーを持っています。筋肉を縮めるよりも、伸ばすほうが力強いのです。例えば腕を強く引っ張られたら引っ張り返さず、逆に力みなく腕を突き出せば、相手の力を簡単に押し返せるのです。

さて、筋肉の働きはそうなのですが、では、いざそうなったらどうか。おそらく殆どの人が力んでしまうでしょう。押されたら押し返そうと、また引っ張られたら引っ張り返そうと反射的にそうなります。興奮状態なら尚更そうなり「力み」ます。屈筋パワーVS屈筋パワーです。腕力のあるほうが勝ことになります。

では、そのとき「力み」を消すにはどうすればいいのか。筋肉の動きは呼吸と連動していますから、息を吐きながら身体の力を抜いて腕を伸ばします。とはいえ、これがなかなか簡単ではありません。手首を掴まれると、反射的に力みが入ります。力むなと思っても、身に付いた動きに逆らえないのです。ですから合気道では、屈筋力に頼らない稽古を何度も繰り返し、力みを抜くことを身体に叩き込んで覚えさせます。

これが技の基本といえ、どんな動きでも力まない身体づくりを目指します。つまり、たとえどんな不利な状況下でも、フリーズ(固まる)しないということです。人の運動能力を高めるテクニックなのですが、学校の体育や一般スポーツで教えられることはあまりありません。ただ、「力むな~!」と言うだけでは力みは抜けません。どうしたら力まないでいられるかを教える具体的なメソッドが必要なのです。
(つづく)


「力む」とは1

2010年10月27日 10時48分00秒 | 合氣道のすすめ
今日は合気道の教えから「力み」について書きます。合気道は「力み」をなくしていく稽古を繰り返します。「力む」と「力」を失からです。これはどういうことかと言うと、相手の腕を取って投げてやろうとグッと力を込めると、腕力だけが相手に伝わります。すると相手もその強制的な力に反応(反射)して、力みます。そこで互いの力がぶつかり合います。ぶつかると、互いの力を殺し合うことになります。力と力が押し合い、動きが止まります。

ところが、力まずに筋肉を柔らかくしたままで相手の腕を取って投げ技をかけると、相手も力まずに流れに従うので、すーっと力が伝わって、そのあとは、アレ?っとスッテンコロリとなります。これは生理機能です。筋肉は防衛反応で押してくる力には対抗するのですが、力みを感じない流れ(動き)には、対抗しない(できない)という機能が備わっているのです。その筋肉の特性がわからないと、「なんで投げられたの?」となります。合気道の技が不思議に思われるのは、実は筋肉の生理機能「力むと相手の筋肉も力む」の逆をおこなっているからなのです。

さて、この「力む」ということを、日常の話に移し替えてみると、面白いことがわかります。例えば、急いで料理をしていて、固い食材に包丁を当てて力むと刃筋を誤って指を切ったりします。力まず刃を当ててすっと動かせばきれいに切れるものです。相手が動かない食材であっても「力み」は、流動という力を失うのです。また、場面を野球に変えても同じことが言えます。力んで打ったボールは遠くへ飛びません。力みのないきれいなフォームでバットの芯に当てればホームランです。長嶋監督が「ぽーんと打て」といったアレです(笑)。ゴルフでもテニスでも同じです。或いは球技でなくともおよそ人間の動きに当てはまるでしょう。ランニングでもウオーキングでも、リラックスして軽やかに全身を動かせば疲れも少なくなって気持ちよく走れ、歩けるものです。

では、わかってるのに力んじゃうという「力み」は、何からもたらされるのか。どうすれば力まなくなるのか・・・
(つづく)


合気道で感じる事

2010年10月03日 15時02分11秒 | 合氣道のすすめ
今日の稽古では、さらに力みを抜いて、自然と身体が動くように技を展開してみようということでした。素になって動く。何も考えない。動くように動く。

すると、拍子しかありません。拍子とはリズムとも言い換えられる動態です。すると、相手は拍子抜けになります。相手からも力みが抜けるのです。相互に力みが抜ける。すると、自由になります。気持ちいい状態です。

稽古が終わって改めて今日の状態を感じ直しました。力みとは、心の固さからもたらされる。護ろうとか、やってやろうとか、そういうことを考えると、即、固くなる。固くなると本末転倒して、何もできなくなる。気持ち悪い状態となる。

話を転じて、今の世の中を観ると、力みが酷いように思えます。あらゆるところにそれが出ている。固まっている。明日はどうなるのか、どうしていいのかわからない状態です。悩めば悩むほど、力みが増して堂々巡りとなる。そんな風景が見えます。

力を抜けと他人に言われれば、力が抜けない。では? 自分で抜くしかありません。どうしたら抜けるのか。気軽になる。心を軽くする。でも、どうやって? やり方は千差万別、人それぞれにあるでしょう。散歩に出る。運動をする。読みたかった本を読む。甘いものを食べる。たっぷり眠る。笑う。

一時しのぎでも、心を転換させれば、そこに突破口がみえてくるでしょう。とにかく固く固まっているとすれば、それを解きほぐすことから始まります。その連続が人生そのものです。そういう習慣をつければ、やわらかい心になれるのではないか。私にとっては合気道がそれを身体に教えてくれます。今日も稽古ができてよかった。残るのは、感謝です。「生かして頂いて ありがとうございます」のそのものです。


旅の道、人の道

2010年08月02日 07時21分50秒 | 合氣道のすすめ
文筆業という仕事柄、旅をすることが多い。旅行系雑誌の取材で、毎月のように何処かへ出かけている。取材のテーマにより、訪れる地はさまざまなのだが、近年は今の世相を反映してか、「聖地」へ行くことが増えた。少々、列記すれば、伊勢、熊野、奈良三輪山、出雲、高野山、伊吹山、白山、月山といった古代から信仰される地や、聖なる山である。

まるで巡礼者かと我ながらに思うが、仕事という名目があって「行かせてもらえる」ことになる。いつか行ってみたいと思っていた地ばかり。ふしぎである。御縁を頂いて、ありがとう御座いますと頭を垂れ、参る。

去年の暮れには、「熊野古道」を歩いた。伊勢神宮から熊野速玉大社へ続く約170キロの山ひだを往く道である。その昔、伊勢参りから、さらに熊野詣を目指した人々の巡礼の道。平成16年に世界遺産に登録され、この古道を歩く人々が増えているとか。全行程を歩きたいところだが、そこは日程が限られた取材だ。

さて、ツヅラト峠、馬越峠など幾つかの峠を越えて、曽根次郎坂・太郎坂に至った。樹林のあいだに熊野灘が遠望され、苔むした石畳が続く古道の、峠の手前の路傍に、巡礼供養碑があった。文政13年(1830)、熊野を目指し、当地で行き倒れた武州(埼玉)の人を弔う碑であった。線香を手向け「生かして頂いて ありがとう御座います」と祈った。

今年の春、やはり取材で訪れた出雲大社や須佐神社でも同じく祈った。島根県佐田町に鎮座する須佐神社はスサノオ尊が「小さき国なれどよき処」と最後まで暮らした地である。「出雲風土記」にそう記され、スサノオ尊は神話の神でありながら、当地では実在の人物のようである。歴史には秘された事々もあまたあるのだろう。

訪れた地に祀られるのが神でも仏でも、参拝すれば「生かして頂いて ありがとう御座います」と唱えている。それはなぜか。有り難きことに人としてこの世に生を受け、今生きて歩けることの感謝を、土地土地で縁を頂いた神仏、祖先、先人に礼を尽くすことのあたりまえを想うからである。それぞれの土地には必ず人の営みがあり、今は目には見えないけれど、その歴史があって他所の者が歩ける道があるのだ。旅をするということは、その道を歩くことにほかならない。

ところで、「道」という文字をよく観ると、しんにゅうに首が据わっている。このつくりの意味は足が行き来する動態を顕し、そこに首(頭)がのっているのが、つまり道。漢字は表意文字であり、人が歩いている様が道そのものの意味である。

われわれが日々、稽古をさせて頂いているのは合気の道とはいわずもがな。私もこの道を歩かせて頂き、そろそろ十年になろうかというところで、ふと。

道というのは道程であるが、距離ばかりでなく、時の流れでもあるのだと想う。入門当初はわけもわからず手を振り回して、汗まみれになりながら息があがり、「難しいから面白い」などとのたまいながら今に至った。いったい幾人の方々と、受けと取りを繰り返したことだろうか。

それら数々の稽古の時間の中にも、人の歩む道がある。ゆえに感謝の想いを胸に、道場へ参り礼をして、稽古が終われば「ありがとう御座います」と声に発し言霊にするのである。

さてさて、この寄稿を生のまま高校生の息子に読ませたら、「理解できたよ」と云った。彼は小3から中3まで本部少年部で稽古した男子である。であれば親子共々ということで、これを合気道探求に捧げたい。

季刊誌『合気道探求』(第40号)より


中国青年と合気道

2010年07月18日 18時45分41秒 | 合氣道のすすめ
今日の合気道の稽古で組んだ相手は、中国人留学生のR君でした。日曜稽古で初めて見かけた顔です。普段は平日に来て稽古をしている青年でした。横浜国立大学で経済学を学び、合気道を習い始めては1年半になるといいます。稽古が終わって少し話をしました。太極拳をはじめ、中国には600を超えるさまざまな武術があります。私も昔、少し少林寺拳法を習ったことがあり、中国の人が日本の合気道にどういう印象を持っているのか興味がありました。「自分は中国武術よりも、日本の合気道が面白い」といいます。どう、面白いかは片言の日本語ではうまく説明ができないようでした。

しかし、ここからの話が合気道の真骨頂です。彼との1時間の合気道の稽古で、「面白い」と感じていることが言葉を超えてこちらに伝わっていたということです。技を掛け合うと、どういう感覚で相手がいるのかが解るのです。これは言葉にするのは難しいのですが、例えば「恐る恐る」か「伸び伸び」か、或いは「力任せ」か、「相手任せ」かなどといった一々の細かな動きの中に、その人の感情や感覚、性格などか読み取れるのです。まさしく、ボディー・コミュニケーションです。

中国人留学生のR君は、とてもまじめで心優しい青年です。しかし強い意志を持ち大変な努力家で、中国という大国に生まれましたが、もっと世界を知りたいといった好奇心も旺盛です。「井の中の蛙大海を知らず」の逆です。その彼は日本に学ぶことが多くあり、その一つが合気道だと思って始めてみたら、予想を超えて面白かったと感じています。稽古中の態度や表情、技を掛け合うなかでの感覚で、そういった事々が解るのですから、合気道は面白いのです。

本部道場には、彼のような海外からの生徒さんも多く参加しています。そうした彼らとの合気道を通じた交流は、今後の世界を繋ぐ要になると思います。「合気道は世界平和に貢献する」オーバーに聞こえるかも知れませんが、人と人の言葉を超えるコミュニケーションは想像遙かに重要なのです。それを一語で云えば「愛」。合気道開祖が、「合気は愛気だ」と申されたことの意味がそこにあると思います。世界で唯一、勝敗を設けず戦わない武道が合気道なのです。

今、とても深刻な経済でいえば、気(お金)は滞れば麻痺し、循環すれば健やかになるのが原則ですね。ひょっとして、合気道が面白いという留学生R君は「気の交流」の中に、未来の経済学を感じ取っているのかもしれません。マネー戦争をしない循環系の「合気道的経済」です。今日の稽古はそんなことまで考えさせる楽しいものでした。


学ぶとは

2010年07月14日 12時04分04秒 | 合氣道のすすめ
ドキュメント番組でペルーの少数民族の子育てを紹介していました。3歳の男の子を母親が畑に連れて行き、芋の収穫を手伝わせていました。大きなナイフを持たせ、芋の根を切るといったこともさせます。母親は何も口出しせず、見よう見まねでやらせます。手取り足取りして説明しません。失敗しても怒りません。また、良くできたと誉めることもしません。すると、子どもは自分ができる範囲のことを熱心にやっていました。

その様子をテレビで観ていて、合気道の稽古法と同様のものを感じました。合気道では「見取り稽古」といい、師範が見せる技を手本に真似て稽古をします。その際、事細かに説明しません。まさしく見よう見まねです。いいとか悪いとかといった判定や評価もほとんどしません。あくまでも自分なりに真似て、それを繰り返して自分のものにしていきます。稽古で余計な説明(言葉)は、学びの妨げになると考えているのです。

テレビ番組の解説者が、かつては日本人もこのような教え方をしていたと話していました。学ぶとは、「真似ぶ」から派生した言葉だといい、真似ていくことで自然と身に付くものが、本人にとってホンモノになっていくのだと。また、すぐに出来を評価すると、それに囚われて、かえって伸び悩むとも。職人の世界でも、丁稚から叩き上げの親方が、弟子を叱るのも、誉めるのも滅多にないというのも同じでしょう。

よく、子どもを誉めることが大事だといいます。一見、そのほうがいいように思われがちです。しかし、子どもは誉められることばかりに気が向き、失敗をしないよう頑張ります。すると失敗の中に潜んでいる「成功の素」を掴むチャンスを失うことになります。失敗することで理解する事があるのです。

そうしたことを改めて考えると、教えるという行為は、親(教える側)の希望や理想、都合からの押しつけであることが多々あると思い至ります。人はみな、その人なりの心身を持って生まれているので、同じようにはなりません。その人なりの技量、体力、知力、感覚に基づいて、自分なりのものを習得していくのでしょう。ああだ、こうだと、教えるのは教えになっていない場合が多いのではないでしょうか。黙って見守り、失敗も放っておき、本人なりに学ぶ(真似ぶ)ことを阻害してはいけません。教えると思っている側が、よくよくこの事を理解しておくことが肝要です。


登山と合気道

2010年07月04日 18時04分42秒 | 合氣道のすすめ
       唐松岳の夕景

先週、信州北アルプスの唐松岳へ登った。八方池(2060m)まではハイキング程度のトレッキングコースだが、その先は岩場が続き山頂(2696m)まで2時間30分かかる本格登山となる。そこで気をつけなければならないのは高山病だ。酸素が薄くなる標高2400mくらいからかかりやすいと言われ、いったん症状が出ると、頭痛、めまい、吐き気に襲われる。ひどくなると平衡感覚すら失う。険しい山道をこの状態で歩くことは極めて危険で、ベテランでも滑落事故を起こすのは、高山病での場合が多々あるようだ。

以前、富士登山をした折、同行者がやはり2500m辺りから体調が悪くなり、2800mで真っ青な顔となった。ガイドさんが中止を命じ、その人は付近の山小屋で休むことになった。私は、折から注意していたので平気だったが、どう対処していたかといえば、ゆっくりとした腹式呼吸で登っていたのだ。鼻からゆっくり吸い込みながら腹まで空気が行き渡る気持ちで肺の下部まで膨らませ、今度はゆっくり吐いていく。歩調に合わせながら、これを繰り返す。

合気道に呼吸法というものがある。激しい動きでも息を乱さないために腹式呼吸を取り入れている。小刻みに息をしていると、金魚のようにあっぷあっぷとなるから、吸気をしっかり取り入れて動きつつ音もさせずに吐きながら動くのである。ほかの武道でも同じだろう。ただ、合気道の場合は、この呼吸に合わせて技を掛けることを意識して稽古する。技を掛けると同時に息を吐くのである。すると、技の伝道が大きく伸びる。これを呼吸力と呼んでいる。また、息も上がらないのである。

さて、登山でこれを試してみて、確かに効果を感じた。一緒に登っていたカメラマンにも勧めていた。彼は私より10歳以上も若いからどうだかわからないが、山頂でも元気だった。ただ、高山病は年齢に関係ないと山小屋のご主人に聞いた。彼もよく息を吸いながら登ったのだろう。山小屋で夜は酒まで楽しめたのだから腹式呼吸サマサマだ。合気道の稽古はいろいろな場面で役に立つという話である。


合気道の意味

2010年05月29日 17時31分53秒 | 合氣道のすすめ

合気道という武道は、試合がありません。合気技の稽古だけです。二人で向かい合い「受け」と「取り」といって、技を受ける者と技を掛ける者に別れ、技を掛け合い、それを交代で繰り返します。稽古で、やりっ放し、やられ放しはありません。そもそも合気道には、勝った負けたがないのです。どちらが強いかを問うていません。

説明しても、合気道の経験がない方には、なんのことだか解りにくい話でしょう。どのような動きなのか、言葉では説明できませんから、観念論となります。ここで合気道を語るのは、あくまでも私論です。私が思い考えていることです。それをご理解いただいたうえで、考えを述べます。

戦国期の末に、上州に上泉伊勢守という武人がおりました。新陰流の開祖です。この人物は無敵でした。あの有名な宮本武蔵でも、ぎりぎりの死闘をして勝っていました。上泉伊勢守は、相手を一度も斬ることなく勝ち、しかも仕合した者の殆どが弟子になったといいます。その仕合で真剣を用いることをせず、革袋をかぶせた竹刀を使いました。斬って勝つことを目的としていない武人でした。無刀取りという神技をあみだした人でした。よって上泉伊勢守は「剣聖」と呼ばれ、技は「活人剣」と呼ばれました。これを柳生が受け継ぎ、柳生新陰流として江戸幕府の正式な剣術となりました。江戸期になり、刀が武士の魂とされ、抜かないのが武士とされたのは、上泉伊勢守の存在が大きいといわれます。

私は、合気道の心というものは、その上泉伊勢守に通じていると思います。240年間、闘いのない世界史でも極めて稀な江戸時代という歴史を持つ日本は、上泉伊勢守の精神を受け継いだのだと言っても過言ではない。合気道を修練する者の皆が上泉伊勢守を知っているとはいえませんが、知らずとも、合気道はそういう歴史の精神を歩んでいることに変わりはありません。弱肉強食とか適者生存といった、闘い勝ち負かし利を得ることを良しとする思考は、本来の日本的なあり方とは全く異質なものであるということなのです。そして、日本人はもうそろそろ、その本性を回復する時に来たのだと思うのです。


のん気の極意

2010年05月24日 07時22分05秒 | 合氣道のすすめ
「現在(今)」は、連綿と続くエネルギーの流れです。「過去」は記憶の中にあります。「未来」は想像の中にあります。過去も未来も「脳」の中にあり、人間の行動は記憶と想像に影響されています。よく、過去を引きずるといいますが、嫌な過去の出来事を現在に呼び覚まし、そこから未来を思い描いて不安になることを示します。

この関係をよくよく観察しますと、実は現在に過去も未来も実体がないことがわかります。過去の記憶はデータでしかなく、未来は想像力が描く未定の事柄なのです。心配性の人というのは、記憶と想像を駆使して、心配な事柄を描く名人ともいえます。そして、心配したとおりの結果を招いて、だから心配したのだと思います。逆に能天気な人というのは、あまり過去も未来も思わず、今だけをみています。よくそんなに気楽にいられるなと思うくらいに。

心配性も能天気も、どちらも良い表現ではありません。どっちもどっちという感じですが、現在(今)をより良く生きる名人は、どちらかといえば能天気な人のようです。あまり過去にも未来にも捕らわれずに、気を楽にしています。これを「のん気」といいます。身体的にいえば、力みを除いて楽にしているので、気のめぐりもいいのです。呼吸もゆっくりで血液のめぐりもいいと。つまり健康体でいわれるので、気分も楽でいられます。

「悩むな!」といわれて、心配性な人が気が晴れ晴れすることはありません。「泣くな!」といわれれば、よけいに悲しくなります。では、どうすればいいのか。不安を煽っている脳(考え)をいったん断ち切ることをすればいいのです。それには運動が有効です。ムシャクシャしていたら、何キロか走ってみるのもいいでしょう。走っているうちに悩みから遠ざかっていくはずです。昨今のマラソンブームはそれと関係しているようです。

私の場合は合気道です。1時間、集中して動き回り、しかも全身をゆるめていきます。稽古が終わると心身ともにスッキリしています。これを習慣づけると、思いあぐね悩む脳を解放できるようになり、健康体を保てるので、すぐに調子を取り戻せるようになります。もちろん、悩みはやって来ます。しかし、その悩みを留める間が少なくなるのです。これが心身ともに、いちばんのクスリです。

さてところで、現在・過去・未来の中で、心はどこにあるのでしょう。答えは、現在(今)の中です。「心ここにあらず」あるいは「心をどこかに置いてきた」ともいいますが、心はずっと現在に在るのにもかかわらず、それを喪失する感覚のことをいいます。過去を悩んだり、未来を不安に思ったりしすぎると、失念し、今に生きることが出来にくくなるのです。これは要注意のクセです。

現在というウエーブにうまく乗る、乗り舟(ソウルボート)の漕ぎ手名人は、どんな大波が来ても、焦らず騒がず、漕ぐ手を波(流れ)に合わせられる人のことをいいます。でも、わたしはそれが苦手でと悩む人も、日頃から自分に合った「気晴らし運動」を習慣づければ大丈夫です。不安は不安を現実化するナビだと知って、とりあえず、悩んだら走りましょう。脳をゆるめてあげましょう。焦って(汗)ではなく、ほんものの汗を流すのがええんよね~(笑)