『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

日本人の未来1

2009年11月30日 11時09分15秒 | 歴史の断層
       伊勢神宮別宮伊雑宮の御田植え

「日本人の未来を考える」
 私論による、考え方の方向と提案

1【戦後、食から改造された日本】

国家が、その存在基盤として寄って立つところは何であろうか。領土、政治、経済、産業、文化と、事項で挙げれば、そうであろうか。しかし、その国家に帰属する人間があって、それらの諸活動が起こるのである。国家は人なりであるが、では、その国家を形成する人間の基本的アイデンテティとは、いったい何から生まれるのだろうか。

帰属意識の基盤は、住居から始まり、居住区域、地方、国へと徐々に拡大する。これは空間的、地理的条件である。一方、精神的条件として、出生の来歴というものがある。まず、両親があり、その親があり、先祖へと連綿と繋がっていく歴史である。このことは人種の如何を問わず、どこの国、民族においても同じはずだ。地理的条件は移住すれば変わるが、精神的条件を変えることはできない。その気になれば移民してアメリカ人になることは出来るが、自分の出生(親、先祖)を変えることは不可能だ。

ところが今、この日本では、このアイデンテティの精神的条件が欠如していると言わざるを得ない事態に陥っている。親殺し、子殺し、家族崩壊といった事件が連続して起こっている。また、授業放棄、いじめと自殺といった学校崩壊や、さらに会社崩壊ですら起こっている。度重なる建築耐震データの改ざんや、食品会社の賞味期限隠蔽、個人データ流出、株のインサイダー取引などがいい例だ。モラルの欠如でかたづけられる問題ではない。家庭が崩壊すれば、第2の家庭ともいわれた会社が崩壊してもおかしくはない。大人、子どもに関わらず、多くの日本人にアイデンテティの精神的条件が失われつつあるということを証明しているのではないか。これは、国家の存在基盤の危機的状況だということを強く認識すべき事態である。

では、なぜ、この日本がそうなったのか。「戦後政策」にほぼ原因があるといえるが、これには敗戦国としての条件の下にそうなったというべき問題を孕んでいる。日本の帝国主義における、中国、アジア各国での暴挙に対する徹底的な再教育をアメリカがおこなったというのは、表から見た事実であって、勝った国が都合のいいように相手国を「改造」するのは当たり前の話だ。飴があれば鞭がある。その鞭で、日本の精神的バックボーンを叩き壊したのだ。

飴は、現代で分かり易くいえば、象徴としてのハンバーガーだろう。あれを囓りながら路上を歩いている若者の姿である。たとえば少なくとも40代か50代の方なら、ファーストフードを路上で立ち食いなどしないだろう。人間改造は、戦後20~30年かかってのことだからタイムラグがあり、その後、ますます強化されたと考えられる。
 
食生活の変更は、人間をコントロールする最も有効な手段のひとつである。米国流栄養学の提唱を受け入れ、昭和29年、学校給食法を制定して、脱脂粉乳とパン食に変えた。戦後の食糧難と栄養失調からの脱却という現実があり、アメリカ人のような逞しい身体にならんと思う事情があるにせよ、あれは米国側の政策だったのだ。日本人を肉食化へ方向づけ、米国企業の市場拡大が目的だった。今では、動物性たんぱく源を主体とした食生活が健康を害するということは常識となったが、当時は健康増進に必要不可欠だと喧伝された。欧米化は食から始まったのだ。五穀菜食主体の日本人の伝統的食生活は、昭和20年代に断ち切られた。

食生活が与える精神の変貌は想像以上に大きいといえるだろう。そうした実験データもある。被験者を1ヶ月間、肉食と野菜食とに別けた結果、肉食のみの人間は精神的に安定せず、常に苛つき突然、怒りだすようになったという。野菜食はその反対に、穏和なままで体力の低下もなく、むしろ持久力が認められている。最近では、「1ヶ月間マックだけを食べたらどうなるか」といった内容のドキュメンタリー映画がアメリカで制作されたが、3週間でドクターストップがかかっていた。そのまま続ければ生命の保障は出来ないと。

肉食だけにかかわらず食品添加物問題も見過ごせないが、食品による精神の影響を、われわれは現実問題として捉えるべきである。日本のアメリカ化というのは、ハッキリ言えば愚民化なのだ。アメリカ政府は、自国民に健康の保障などしていない。「自由の国」というのは、ほったらかしで好きにさせて、愚民化することなのだ。日本にもそれを見習わせたわけで、それを「愚民政策」と呼ぶ。

「3S政策」と呼ばれるものも存在し、これは「セックス・スポーツ・スクリーン(TV)」である。これもアメリカの裏政策といわれ、広告メディア戦略などの研究書では当たり前の話であるが、一般にはこうした本は読まれることがない。私は学生時代から、『メディアの牢獄』『広告の神話』『広告の洗脳戦略』といった数々の本を読んで卒論を書いたりしていたので、自分にとってはお馴染みの話だ。オームが洗脳手段で活用して話題になったサブリミナル効果など、60年代からある広告戦略なのである。

自分の想像など遙かに超えて世界が運営されているということを知らなければ、愚民のひとりに参加することを否めないのだ。戦後、日本人は、まず食(安い・早い・恐いファーストフード)により肉体を侵害され、精神的バックボーンを抜き去られている。


道具好き

2009年11月29日 20時48分07秒 | 航海日誌
この何年も、食品などの生活品以外ほとんど買い物をしなくなった。たまに、必要な衣料品を買うことがあっても稀だし、欲しいと思うモノがない。物欲がゼロとはいわないが、そういう欲求が薄くなっている。余計なものはいらないのだ。

その私が、最近1本のナイフを買った。取材先の工具店で目に入ったスウェーデンのバーコという工具メーカーの小型刃物だ。デザインも洒落ていて、使い勝手も良さそうで、つい買った。しかも値段がいい。1200円。アウトドア店なら8000円の値段は付きそうな品物だった。工具店の品物は、物づくりに必要な道具ばかりを扱うから、質実剛健だし、いたずらにブランド価値などをのせないので、思いのほか安い値段設定がされている。道具とはそういうものだろう。

先週まで缶詰状態で原稿を書いていたのが、12月17日に発売となる『美しい男の工具』という本(男の隠れ家別冊)だ。世界の工具の数々が紹介され、なかにはブランド・ツールと呼ばれる名品もあり、一級の美の工具だ。これらは機能を追求した結果、何十年も使える製品ばかり。男は、そういう道具に弱い。ところで、取材先の工具店で買ったバーコのナイフは、えんぴつを削るしか目下の使い道はないが、それでも道具を握っている時間は、なんとなく豊かな気分でいられるのだ。


使命の道

2009年11月28日 16時19分46秒 | 航海日誌
       奈良・大神神社(おおみわじんじゃ)

六年前、ある雑誌の取材で沖縄を訪れた。テーマは風水。沖縄には、中国から学んだ風水が今も生活に根付いている。しかし取材を進めていくうちに、古来からの祖霊信仰が、風水よりももっと深く人々の精神世界を支えていることがわかった。

沖縄には、村ごとに御嶽(うたき)と呼ばれる木々に囲まれた聖域があり、そこで人々は神々や祖霊を拝む。本土でなら、神社の杜のような場所といえようか。取材中に出会った民俗学者はいった。沖縄の祭りや信仰を調べると、日本の古代が見えてくる。沖縄には、大和で消えた古いものがまだ残っていると。興味が風水から祖霊信仰に移っていた。

そして、ひとりのシャーマンを宮古島に訪ねた。島では、神カカリャと呼ばれる巫女さんである。しかし彼女から聞いた話は、取材の範囲を超えた内容だった。長い祈りのあと、口をついて出た言葉の中身は、僕の先祖の因縁についてのものだ。目の前で見るかのように語られる話を、簡単には否定できなかった。祖母から聞いていた話と奇妙に一致していた。

頭が混乱した。自分の常識と神秘の世界が交錯し続けた。どうしていいのか、わからなかった。神カカリャは、人にはそれぞれに生まれてきた使命があるといった。大切な人生を無駄にせず、自分の足で立ち上がり、その道を歩きなさいと励ました。人生の岐路を、僕は沖縄の宮古島で迎えた。まったく予期せぬ出来事だった。三年かかって『ソウルボート』(平凡社)という物語を書いた。それから、僕は、見えない世界の旅に出た。

作家 遊田玉彦
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これは以前、中国新聞の連載エッセイで書いたものです。あれから、もう7年が経ちました。その間、エッセイで書いたように、見えない世界を歩んでいることに変わりはありません。その後もいろいろふしぎな導きで、沖縄は始め、出雲や奈良、金沢、山形などほうぼう御縁のある地へ参り、自分なりの「祈り行」をさせてもらっています。私はそういったことを、宗教とは思っていません。しかし宗教的世界ではあるので、あえて言えば「ひとり宗教」でしょうか。

その際の祝詞は「生かして頂いてありがとうございます」です。神仏諸霊への祈りの基本は、「感謝」です。現世御利益を願うのではなく、こうして生かされていることを神仏に感謝するのです。感謝とは感じるままを伝える祈りです。生きていることが幸いであり、それを感謝すると、神仏諸霊に喜んでもらえます。神社などでご祈祷を願う際に、内容を記入しますが、まず始めに「神恩感謝」とあります。それで充分であり、家内安全や健康、商売繁盛なども本来は感謝に含まれているのです。

また、人間どうしの付き合いの際も、常に「生かして頂いてありがとうございます」を念頭に置いていれば、諸々が平静にスムーズに流れていきます。出会いは縁あってのことですから、善し悪しに関わらず、感謝が基本です。たとえ相手に無理難題を押しつけられても、感謝の気持ちを忘れなければ、結果は良好へと進展するものです。抵抗したり恨んだりすれば、その逆現象が起こります。

人間ですから、「コンチクショー!」と苛立つことも多々ありますが、感謝を想起すれば、荒れた気分が納まります。感謝するためには、相手への理解が必要です。理解の幅が広がれば心が大きくなり、感謝の気持ちが平常になり、和の心で生きていられるようになります。すると、いろんなことが楽しめるようになります。それが幸せというものだろうと思います。


天地人終了

2009年11月22日 22時27分16秒 | 航海日誌
       兼続さん、ご苦労さん

今日、大河ドラマ「天地人」が終わった。いま、大量の原稿仕事がたまって締め切りに追われ、テレビを観ている間がちっともないが、これは観た。日本人に「義」とは何かを問う中身が良かったが、果たして皆さんは、どんなふうにご覧になっただろうか。

私には、この時代ドラマがとても示唆に富んだものに思え、これからの世を考えさせられたし、そのことは、これまでも当ブログで時々に書いてきた。400年前の歴史ドラマだが、今だって、やがて歴史ドラマだ。その登場人物のひとりが自分ということである。この人生ドラマを大いに謳歌しようではないか。

ということで、原稿締め切りに追われているので、今週末あたりから、どがーんとブログ、再開します!


限界集落ニッポン

2009年11月18日 10時13分23秒 | 航海日誌
       ヤマトタケル伝説の伊吹山

前原国交大臣が、日経の雑誌で、限界集落までは面倒みられないと語ったそうだ。都市部に人口の多くが居住する日本で、地方農漁村部のさらに限界と呼ばれる過疎地など、事業仕分けのごとく切り捨てるしかないということだろう。だが、そこには先祖代々、営々と生活するにんげんが住んでいる。そのにんげんを切り捨てるというのは、暴言も甚だしいと、各地で声が上がっている。

若手新自由主義派の政治家ならではの発言だが、そのまま正直に語っているとも思える。財源からっぽで、こっちが限界だと。つまり、集落だけが限界なのではなく、限界集落はニッポン全体なのだ。いや、欧米も今や限界集落。新しい金融システムを構築しなければ、もう、世界金融機構はもたないギリギリのところまで来ていると、経済アナリストの藤原直哉氏がネットラジオで語っている。

地球社会全体が限界集落化した今、明日が見えるか。何となく今日も静かだが、明日か明日かと不穏な空気に身がちじこまっていないか。巨大な動きがある前夜は、静かなものだ。だが、何も恐れることはない。新生への好転反応と思えば、歴史のトンネルをくぐれるだろう。そう思う。

山のあなたの空とおく 幸いすむと人のいう・・・限界の向こうの風景だ。


ワクチン注意報

2009年11月14日 17時41分22秒 | 航海日誌
ここのところ、と言っても、いつからはもうよくは解らないが、世の中がおかしい。不可解な事々が度重なっていると思いませんか? まあ、テレビを観なければ、そんな事も思わないだろうけれど、画面にタレ流されるNEWSで、ちょっと前は覚醒剤女優の追っかけ報道に重点が置かれていたとおもったら、どこどこでまた殺人があったとか、護衛艦が貨物船とぶつかったとか、整形手術男が逮捕されたとか。もう、まるでフィクションの世界ですな。

そんなの~NEWSかよ、です。国民にほんとうに必要な情報が流されないのがテレビならびに新聞で、ブログ界では「マスゴミ」と呼ばれている昨今ですが、兎に角、人というものは精神も麻痺するので、そういう愚にも付かないような話題が脳内にこびりついて、自分たちに直接、禍害をうむような問題から意識がフェイドアウトされている、と思いませんか?

オバマ来日問題は、せいぜい銀座でデモるくらいしか手がありませんが、「豚インフル」は、自分たちの生命に直接かかわる大問題です。通常のインフルエンザ(年間約1万人が死亡)に比べ、うつったって軽症のようですが、ほんとうに恐いのは「ワクチン接種」のほうらしい。信頼のおけるある医師の発言によると、自分は「打たない」そうです。先日、医療関係者への接種が始まりましたが、10人に3人は拒否しているそうです。接種する7人は医者でありながら危険性を知らないのだそうです(ホンマかいな!?)。それでも国内生産ワクチンはまだマシらしく、輸入ワクチンは、国内では使用されない増強剤が混ぜられていて、副作用による死亡例が出ていて、欧州では集団接種をしていないとか。それから、日本では安易に投与されているタミフルも副作用が恐いそうです。そういう情報がほとんどテレビ新聞で流されないのはおかしいと思いませんか?

まったく人ごとではありませんから、心配に思う方は、ご自分でネット情報を検索して、知識を蓄え、よーく考えて自己防衛をしてください。
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ワールド・ブロガー協会
第3回取材会「待って!そのワクチン本当に安全なの?」
(元国立公衆衛生院免疫学部感染症室長らが発言)

下記アドレスをコピペして検索してください。
       ↓↓↓
http://www.youtube.com/watch?v=vP2Jv83WX-w


郵政民営化ついに

2009年11月13日 10時39分24秒 | 航海日誌
十数年前、ニュージーランドへ3週間ほど旅をした。その折、山間部の小さな郵便局に行くことがあった。綺麗な施設内には子ども用の遊具コーナーもあり、サービスの充実に感心した。数年前に、一度民営化したが郵政事業が悪化したので国営に戻したという。民営化は失敗だったと、ニュージーランドでは言われていた。

郵便事業は全国一律の料金で配達されるのが世界の通例である。日本でも都内も西表島もハガキが50円で届くのが郵政サービスだ。つまり、儲ける商売ではないのが郵便事業である。民営化して事業効率を高めれば、サービスが向上するというのは、どういうことか。民営合理化すれば、都内は50円でも、西表島は150円にしなければ、経営利益は確保できない。その輸送コスト差を穴埋めして一律を実現するのが国営だったが、民営では郵便事業を保険・貯蓄部門などと分離するという。儲からない事業の切り捨てだ。表面上では料金一律は守るとしても、ニュージーランドの例が示すように、サービスが向上するとは考えられない。

郵政に限らず、医療機関など国営事業に対して、民営化すればサービスが向上するという宣伝が連呼されるが、そのサービスとは何かが、極めて曖昧だ。接客態度が良くなるとか、テッシュをくれるとか、そんなことがサービスか? 民営効率化は、バックヤード(仕事の裏側)をきゅうきゅうにさせて、本来のサービスが劣化するのだ。サービスという言葉が、単に宣伝イメージで使われているとしか思えない。サービスとは何かと、中身をハッキリ問わなければならない。

サービス向上のうたい文句などに惑わされているが、郵政民営化の最も注目しなければならない点は、ひとつしかない。金融部門の切り離しだ。ゆうちょ銀行という300兆円を超える国民資産が株式になって、外への流出糸口を作れば、どうなるか。実は米国が求めているのは、それだ。年次改革要望書にも「郵政民営化を勧める」とあるように、国内から出ない資産をアメリカで運用しなさいという話だろう。農協も米国金融商品に手を出していたようにだ。早い話、グローバル化の正体は、金を回せといった商売の事である。今日、オバマ大統領が来日するが、普天間基地問題など眼中にない。ゆうちょ問題をなんとかせよと恫喝するのが立ち寄りの目的らしい。今回の主題は中国との基軸通貨問題の交渉であり、日本へは金の穴埋め資金調達のための、立ち寄りである。

そうハッキリ書くのは、下記の記事を目にしたからである。亀井大臣は公式の場で驚くべき発言をしていた。もう、ここまでハッキリ言わざるを得ない状況に来ているのである。そうでなければ、亀井大臣は気が狂った事になる。
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亀井内閣府特命担当大臣閣議後記者会見の概要(雑誌・フリー等の記者)
(平成21年10月9日(金)13:01~13:28 場所:金融庁大臣室)
週刊エコノミスト記者の質問に答えて・・・

「小泉・竹中のやったものを私は踏襲する気はないのです。それを、アメリカやそこらがあてにしていったら大間違い。そうですよ。私は5月にアメリカへ行ってシーモアとかビューターだというけれども、この亀井静香をCIAが暗殺でもしない限りは、アメリカの言うとおりにはならないよと。わかりやすいでしょう」
(金融庁の公式ホームページhttp://www.fsa.go.jp/common/conference/minister/2009b/20091009-2.htmlより抜粋)


自己とは何か

2009年11月12日 10時16分44秒 | 航海日誌
自己は、あらゆる場に偏在しており、
あらゆる体験を同時進行で体験している。
しかし、この物理的三次元へと
意識が集中(施錠)しているため、
全くそれと気づかないだけである。

思考は源泉からの光である。
思考はネットワークされており、
すべてとあまねく繋がっている。
思考は、選択を生み、
ひとつの行為行動を取るが、
選択されなかった行為行動は、
別の自己がおこなっているのだ。

しばしば私たちは、夢の中で
それを目撃することになる。
たとえば、別れた相手と一緒に
暮らしている場面を観る。

選択されなかった行為行動が、
無に帰すことはない。
ただ、自己と思っている「自分」に、
現実化されていないだけである。
次元(時間)という枠組みを設けなければ、
私たちはマトリックスに
存在していることを知覚するだろう。

私たちは、なんぴとたりとも例外なく、
宇宙の中心に座しているのである。
なぜなら、
広大無辺の宇宙は、
どこもかしこも中心なのだから、
私たちは全て、中心に居るわけだ。
つまり中心というものも無い。
色即是空である。

偏在自己とは「自分」と同じ
姿形をしているわけではない。
女でもあり、男でもあり、
奈良時代の宮にいれば、
江戸時代の長屋にもいる。
あるいは、
3000年前のエジプトにもいれば、
3000年後の日本にもいる。
また、
自分とそっくりだが、若干若い10年前の
アパートの一室にもいる。

あまねく偏在とは・・・
私たちが「神」と名付けし常態・・・

ゆえに、「神」とは、
私たちのことであり、
神を概念化して、
神を創っているのも
私たちである。

ただ、私たちは、それを認めたがらない。
なんじ、おのれを恐るるべからず

思考の旅は続く・・・


自我は悟れない

2009年11月11日 10時17分07秒 | 航海日誌
自分として知覚しているものを「自我」と呼ぶが、
自我があってこそ、「自分」と思うわけで、
これ以外に自分というものの存在は有りえないと想像する。
思考のスタート地点は、そこからだ。

自我のポジションは、どこにあるのだろう。
自我が自我の中で、この自我について考えているのか。
自我を別の心理学用語「表層意識」に置き換えてみよう。
表層とは、頭で思考している、言葉を繰り出している部分だ。
今こうして考えて、キーを打って文章を表出させている意識である。

では、表層意識を観察する者は、何か。
自我とは一線を画した領域の意識。
これを精神世界では、自我に対して「真我」と呼んでいる。
心理学用語では、「深層意識」が対応するだろう。

「真我」または「深層意識」は、自我領域に通常浮上しないと考える。
黙って自我を見つめている観察者だ。
自我は、人生の個々に想い悩む。ときに壊滅的な状況まで陥る。
しかし、「真我」または「深層意識」は、介入しない。
介入しないが、バックから自我を支えている。

人間は成長を求めて生きている。
その道程で、悩みがうまれる。
どうしたら、この自分は、より良く生きることができるだろう。
より良くとは、道徳的な心情を含むものばかりではない。
極論すれば、どう、自分の思うように好きに生きられるか、だ。
そうなるためには、と、自我が葛藤する。
自我は、ねたみ、そねみ、嫉妬し、強欲で、
とどのつまり恐怖にさいなまれて、萎縮する性質を帯びている。
これを克服できれば、思うように、好きに生きられるはずだと、
思うが、自我は自我の性質を変更できない。

変えよう、変えられると思うから悩み、苦しむ。
悩みの根源はそこに在る。
そのことを認識すれば、自我は温和しくなる。
つまり、あまり悩まなくなる。

それはどういう常態かといえば、
真我に任せている状態だ。
主従逆転であるが、自我の敗北でもなく、消滅でもなく、
自我が静かになるということである。
言葉を換えれば、「お気楽」になるということだ。
あるいは、「のん気」になるということだ。

実はそれこそが、
自我がいちばん恐れていることである。
そんなことになったら、
メシが食えなくなる!
ライバルに負けてしまう!
築き上げたものが奪われてしまう!
何もかも無くしてしまう!
世界が終わってしまう!
死んでしまう!

自我は、その考えを決して捨てない。
捨てないが、まあ、いい加減もう面倒くさいから、
真我に任せておこうか、
という気分にはなれる。
お気楽な気分である。

それが、悟りの門の手前に立つということだ。
わたしはその門の前をうろうろする者である。
壁の向こうを覗けないかと、行ったり来たりしつつ、
悩みの度合いを減らす方策を練っている。
(門番などいないから、入れてくれと交渉もできぬ)

自我について、私流にまとめると、以上のようなものとなる。
自我と格闘しているかぎり、そういうことだ。
では、なにが自我と格闘するのか。
自我である。自作自演である。

その感触は、徹底的に自己をリアルに内部検証することで理解できる。
どんなにたくさんの本を読んだり、他者の言葉を聞いたりして、
外部情報から知識は得ても実感を得ることは出来ない。
自己内部を検証せねば、ここに文字化していることは、
わけのわからない戯言(たわごと)でしかない。

これは、自我の悩みから発せられている「自己メッセージ」である。

この道は、極めて孤独な道なのだ。

私の弟子はわたしである。

思考の旅はつづく


幸福感

2009年11月10日 10時05分03秒 | 航海日誌

16歳の少年と話をしたときのことです。
君は将来、どんな仕事をしたいと思うの、という質問をすると、
「特には、ないよ」といいました。
「そう、でも好きなことってあるだろう、なにか」
「別にこれといって・・・」
「そうか、野球選手とか、医者になりたいとか」
「そういう奴もいるけど、でも、大体はないのがほとんどだよ」

彼と話していて、とっかかりが見つかりませんでした。
でも、何か自分で探して選ばなければならないときが来るといいますと、
だっていろいろ在りすぎて何を選べばいいか分からない、
それに選べといわれても選ぶ気がしないと云いました。

そこで、ふと気づきました。喩えの話ですが、
自分が子どもの頃はジュースといっても、ラムネ・サイダー・ファンタ・コーラくらいしかありませんでしたから、選ぶにも間がありません。サイダーか、ファンタにしよう。そんなのものでした。ところが、今は自動販売機をみても、何十種類もの飲料水があります。たくさんの種類があって、選ぶにも迷う。迷ったあげくお決まりの「おーいお茶」にしています。そのうちに、迷うのが面倒臭くなって、水を飲んだほうがいいと思えてきました。ジュースなんか、もう、どうでもいいと。

少年の気持ちは、それと同じことだと感じました。選べ!といわれても、選ぶ物事が多すぎて飽和状態なのかと。あっぷあっぷなのです。こんなにあって、与えられているのに何て贅沢なのかと大人は思うものですが、そうではない。選べ選べといわれて、困ってしまって、別にといううちに、もうどうでもよくなった。決めなさいといわれれば、苦しくなるばかりではないかと思えます。

5年前にシルクロードへ行く機会がありました。トルファンという世界一乾燥した町にいた時でした。夕方、表を歩いていて、30分くらい経ったら急に声が出なくなりました。喉が張り付いた感じでした。ガイドの人と一緒でしたから、声が出ないというと、そこに居た露天商で西瓜を買って与えてくれました。喉が渇いたと感じる速度を超えて、体内から急速に水分が失われていたのでした。その時の西瓜の旨かったことといったらありませんでした。

そこで思うのは、環境で人の幸福のあり方、感じ方が変わってしまうということでした。湿潤な土地に居て、いくら西瓜が山積みになっていても、有り難いなどとは思いません。水気のない土地だからこそ、西瓜が宝のように思えたのです。無いから、有り難いと感じる。

今、子どもたちに必要なのは、無い体験ではないでしょうか。無いところからの、有った喜びを知る機会を与えることの意味は大きいはずです。無い体験は、幸福への一歩になると思う。これといって好きなものはないよと言った少年は、私の息子でした。親として、好きだと思える感情そのものを与えることは出来ない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~

このエッセイは、1年前に書いたのもです。今、思うのは、そろそろそういう事態が世の中に起こるだろうという実感です。今、目の前に溢れる物資をアタリマエに思う人には何のリアリティもない話ですが、無くなれば、アッと驚く為五郎です。貿易や流通の世界機構をちょっとでも理解すれば自明の事なのです。1本のイモが有り難い世の中が到来しますよ。


もったいない

2009年11月09日 10時49分17秒 | 航海日誌
30年前、貧乏学生をしていた。ある町で発掘調査のアルバイトがあって、出土した土器の復元作業を2ヶ月間したのだが、そのバイト料が担当者の不手際で1ヶ月遅れ、サイフが空になった。冷蔵庫に残っていた玉ねぎを煮て食べ、餓えをしのんだ。

当時、近所にできたばかりのコンビニの店先に、大袋に入った食パンの耳が、30円で売られているのが目にとまった。そのコンビニは、もとは昔ながらの食料品店だったから、パンの耳を捨てなかったのだろう。それを買ってパン粉を作ったり、揚げたりする主婦も多かった。けれども、喉から手が出るほど欲しいくても、買えなかった。恥ずかしかった。まだ餓死するまでには至っていなかった。数日後、バイト仲間たちが缶詰やインスタントラーメンを寄付してくれた。

テレビ番組で、「フードバンク」という活動を紹介していた。食べられるのにキズが付いた等の理由で破棄される食品を商店から提供してもらい、ホームレスや施設、生活保護者などへ配るNPO活動だった。代表者は日本在住のアメリカ人。アメリカでは、こうした活動が盛んで、年間に何百万トンもの食品が配られているのだとか。

その番組を見て思ったのは、「もったいない」の感覚を日本人が忘れていないかということだ。以前あるアフリカ人女性が来日して、その言葉を知って感銘を受けて「MOTTAINAI」を提唱し、それをまた受け直して「MOTTAINAI」がマスコミで紹介されていた。日本人本来の感覚である、「もったいない」を何で外国から逆輸入するのかと思った。無いから、輸入するわけだが・・・

学生時代に経験したことで言えば、飢えると本当に苦しい。食べものに有り付くと、有り難い。「もったいない」とは、畏れ多いという意味だ。自然から頂いた恵みを有り難く思い敬うという感覚だ。

では、その感覚をいかに呼び覚ますのか。なんでもかんでも、「あたりまえ」で生きないことだろう。腹が減ったら冷蔵庫を開けて何か食べるのではなく、我慢してみて、空腹になってみれば、それが解ると思う。そして、ご飯だけ、あるいは大根だけを囓ってみれば、そのおいしさが口に広がり、食べものに「有り難い」と感じられる。「有り難い」を感じられると、腹の底から「有り難う」が出るようになる。

今日も 生かして頂いて ありがとう御座います


夜行急行

2009年11月07日 00時37分01秒 | 航海日誌
       上野発:夜行急行「能登」


今夜は、乗り遅れた。約束の時間に間に合わなかった。
だから、仕方ない。もう、出てしまったのだ。
2009年11月6日の23:59分の定時列車だった。

やはり、定時便は定時に出るものだ。

望郷列車に、明日乗ろう。

さて、その望郷とは、何処か・・・


寒の到来

2009年11月05日 22時14分57秒 | 航海日誌
       尾瀬の木道


急に寒くなりましたな。でも、この身が引き締まる感じ、嫌いじゃありません。夏うまれですが、寒いのも好きです。生まれて初めて、大雪をみたのは県北の、雪原だった。犬ころのようにはしゃいで走り回ったのを覚えています。なんで、あんなに嬉しかったんだろう。顔を突っ込んで雪も食べたな。今年はどんな雪が降るだろう。


ある博士の本音

2009年11月04日 09時06分22秒 | 航海日誌
わたしたちというものは、やはり、二人から始まったということに、どうしたってなるわけですね。この地球の大地に、いきなり何千何万と人間が発生したならば、ほかの星の移民という説になりましょう。

人類誕生の地をアフリカのどこかに求めようとするわけですが、どうしてアフリカなのか。おそらく近代ロマンチシズムですな。そういう説は欧州人が申したわけですからね。日本もサル学を打ち立てて、あのあたりに学徒を送りましたけれども。

人類発生というかたちを求めてサバンナの向こうの森林のどこかにキノコのように湧いて出た人類原初を定めようと試みたわけですけれども、どうもいかんのです。ビクトリア湖の辺りで、600万年前生まれのルーシーというのが一個体でてきたけれども、発掘でもってさらなる証拠を探す。しかし、どこもかしこも掘り尽くすことなんぞできませんから、本気で納得、得心がいかんのです。

神話というものが世界中にある。西洋ではアダムとイブですが、カムロギ、カムロミをわれら60億の祖とするのは、しごく自然な考えですね。これをどうすることもできんわけです。父母さがしをずっと続けているわけです。人類の悩みです。未だ父母知らず。兎に角、サルと人類が繋がらない。これをミッシングリングと呼んでおります。秘められた輪っかです。バチカンあたりがこの秘密を知っているという話もありますがね。パウロ何世だったか、秘密文書を読んで卒倒したという話もありますよ。案外、われわれというものは、地球外移民かもしれませんぞ。なにが本当かわからないのが、この地球という遊園地ですな。