『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

思わぬ展開4

2009年05月28日 10時05分10秒 | 未知への扉
もう7年ほど前のことですが、ある雑誌の取材で、単独で四国八十八ヶ所を回ったことがあります。お遍路さんの話を聞きながら、初めと途中と最後のお寺へ寄っただけの一週間でしたが、私も金剛杖も持ち、気持ちだけはお遍路さんでした(笑)。

そのときのエピソードで、四国入りした当日の夜のことでした。安ホテルの部屋に入り、金剛杖を入り口脇に置き、缶ビールを飲んでそろそろ寝ようとしたら、パタンと、杖が倒れました?・・・! 流儀を忘れていました。一日の終わりに突いた杖の先を洗うのです。金剛杖には同行二人と書かれ、空海さんの化身なのです。無礼を詫びて、すぐに杖を洗い、窓辺に立てかけて寝ようとしたそのとき、7階の窓に人影が映ったのは、編み笠をかぶり袈裟を着た人でした。あれ?と思ったら、またチラリと見えました(笑)。それから夢をみて、般若心経の一節の意味を語り聞かされました。夢の中では、あの難解な言葉の意味がハッキリわかったのですが、起きたら忘れていました。凡夫はそんなもんですね。そのとき忘れてはならじと書き取ったノートを探したのですが、見当たりません。色即是空の部分ではなく、どこだったか・・・感触だけが残っています。

まあ、そういった個人的な体験というか、ふしぎもありながらの、今回の初めての高野山参詣でした。どうも、ふしぎを道標に歩いてここまで辿り着かせてもらえたなという。またしても、毎度の有り難う御座いますです。

さて、高野にての話でした。泉鏡花が「高野聖」を書いていますが、誰か、聖(ひじり)は。私なんですね。ということは、ゆく者のすべてが、そうであるように。俗世の言動も何も関係なくあり、そうなんです。極悪も非道も善行も正道も何もかもが仏道であり、生きている生かされていることのよすが。現世の縁(えにし)というものと、解かれる。難しい言葉の羅列ですが、かんたんにすれば、いいのよ、そのまま、思い切り、みたいな話です。ただ、そのあんたの人生に悔いを残すなみたいな。何かのせいにするなら、自分のせいにして、そうならそうで思い切り好きに生きよ、です。

なぜ、そう言えるのか。今回、高野山のデザインを見たからです。凄い! もの凄いと。そのキーワードは、女人道にありました。かつて女の性の方々は、寺院領内への入場が許されなかった。だから、女人堂まで行って、そこから高野山を周遊する山中の女人道を歩き、外側からぐるっと高野山を眺めまわったのです。それが凄いと思うことの第一でした。なぜなら、高野山は菩提であり、母体であり、その中に空海さんがおわして活きることができ、その周辺を女人が囲むのです。空海さんは、そういう空間を創った。

女人道の一部を歩いて、女人道の轆轤(ろくろ)峠に暫く座り、そう感応しました。ああ、ここに母体あるいは子宮と呼べる空間を創ったのだと。今流に言えば、マザーアース、母なる地球のミニチュア版ですね。寺院領内は母体ですから、女性が入る必要がないのだと。女性差別などという次元ではない。空海さんは1000年後の世界を見据えて、それを創ったのだと感じたのでした。それではなぜ、そのようなものを生む必要があったのか。それについては、また、次回に述べさせて頂きたいと思います。