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『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

現代の龍馬は?

2010年10月25日 19時34分37秒 | 龍馬は悲し
以前、坂本龍馬のことを世間で伝聞されているのとは全く違う側面から書いた(カテゴリー/龍馬は悲し)。多分にミステリじみている話だが、近年は、龍馬は英国のエージェントだったのではないかといった本も出版されている。グラバーを始め長崎にいる外国人との接触で、当然、秘密取り引きがあったはずである。そうした資料が残される可能性は極めて少ない。今の検察が資料を破棄するのと同じだ。表に出たらまずいからである。

幕末にあって、この国がどうなるのか、どうするのかといった風雲急を告げる中にあって、志のある下級武士たちが動いた。この歴史に間違いはないだろう。薩長を結びつけ、土佐を動かしたのは龍馬だけではないが、かれが中心にいたのも事実だろう。龍馬はそれだけの仕事をやれる人物だったと。京で殺されなければ、欧米のどこかへ渡って海運商人になったかもしれない。明治になって土佐の新聞記者が岩崎弥太郎から龍馬の人物を聞き書きしなければ、世間に知られることもなかったようだ。まったく裏舞台での活躍だったと思われる。

さて、龍馬のようなエージェントはほかにも何人もいただろうが、龍馬のように歴史に名を馳せることはないままだ。なにを言いたいかといえば、彼らのような舞台裏の人間たちが動いて、表が動いたということだ。エージェントの仕事とはそうだからである。であれば、現代もまた、秘密裏に何かが動いているはずだ。時代は大断面にある。幕末から維新への1869年と、2010年の今の風景はあまりにも違うが、人間社会の根本は変わらない。世間に顔を出さない誰かが動いている。それは、どんな人物か。15年くらい経って、またどこかの新聞記者が聞き書きで記事を書くのだろうか。


龍馬は悲し6

2009年10月28日 09時21分23秒 | 龍馬は悲し
写真は、慶応元年(1865)に長崎の上野彦馬写真館で撮られた「フルベッキ博士と大室寅之佑を囲む志士たち」。前列右から4人目が坂本龍馬。勝海舟は中段左端。ほか西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、大隈重信、桂小五郎、高杉晋作ら面々も。そして前列中央で刀を抱える青年が、大室寅之佑(後の明治天皇とされる)。これが幕末日本史の決定的な証拠写真といわれる。このメンバーが、薩長同盟成立の前年、慶応元年に長崎で一堂に会しているとは!・・・長らく伏せられていた貴重な資料だが、その信憑性は未だ謎とされている。
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私がいつも当ブログで書く歴史は、年表に記述されることのないものだ。年表を歴史と考えれば、まったく見えない話である。歴史とは何か。個人史というもので考えて、自分の歴史を自問自答すればわかる。表向きと、内向きの歴史があるだろう。常に歴史というものには、表と裏の二面があるのだ。単純な話である。だが、人は大抵の場合、表向きの歴史のみを歴史と思い込む。記憶力がよければ年表の年号を覚えていて、○○年にはどんな事件が起こったと言えるが、なぜ、それが起こったのかの深いところは知らない。それが一般の歴史認識というものなのだろう。

龍馬を題材にしながら、幕末~明治という歴史の不毛地帯を跋扈した。私の頭の中のイメージでは、この150年が今へと連綿と続いている。少し前の記事「オイル文明150年」で書いたが、150年前と言えば、オイル元年(1859)であった。また、同じ年にグラバーが来日している。その4年後に米国のロックフェラー一族が、スタンダード石油会社を設立した。そこから世界構造が変化していくことになる。その後、米国オイルメジャーは自動車の誕生とともに巨大になり、欧州勢を押し退けるほどの力をもった。

そういった欧米の歴史と、日本の歴史をクロスして観なければ、世界史は理解できない。欧米から観た日本という学問が、まともにないのは不具合なことである。日本人はいつまで井の中の蛙でいるのだろうか。日本人は余りにも集団的コンセンサスに陥りやすい。自分でじっくり物事を考える習慣も時間もない。いわば精神の、一種の生活習慣病といえようか。われわれは、この緑ゆたかな列島で、寝ぼけている場合ではないのだが。窮鼠猫を噛むで嵌められては困る。窮鼠にならないためには、世界を知っておくことだ。学校では教えてくれないから、自分で調べて学ぶしかないが。

兎に角、歴史は謎に包まれている。だから、歴史をミステリと想って頂いて構わない。しかし、そのミステリの中で生きているのは、ほかならぬ我々自身だということを忘れてはならない。そのことを切に、お伝えしたいと想い、こんなものを書いた。歴史は、ダブルスタンダード・・・コインの裏表・・・私たちを常に取り巻く、表と裏の人生そのものなのだ。

そして、今、150年を節目として、また、形とスケールをちがえた幕末(大政奉還)を迎え、欧米列強の巨大な圧力(G7、G20)に押されながら、寺田屋でエージェントに暗殺された龍馬のように暗殺される志士を出しながら・・・新政府が誕生しようとしている・・・まったく、歴史は繰り返される・・・阿鼻叫喚!

ミステリの細部は、またその内に書きたいと思っています。ここまでお読み頂き、ありがとうございました。

  (了)


龍馬は悲し5

2009年10月27日 09時22分32秒 | 龍馬は悲し
龍馬は必死だっただろう。命をかけていた。太平洋を見て育った土佐の気質が、大きな夢も描かせた。司馬遼太郎が描いた龍馬は、確かに龍馬ではあった。われわれは、その龍馬に憧れさえ抱いた。ただしそれは、エージェントの身を隠した龍馬の姿だった。スクリーンに映ったヒーローに憧れるのと同じだ。観客である限り、生の俳優が、舞台裏で何をしているのかを知る人はいない。それと同じことだ。

ヒーローを娯楽として眺めるのはいい。だが、現実に生きるすべての日本人にとって、今も連綿とつづくリアル舞台で、自分たちの身の上に降りかかる禍害を、なし崩しにされていいものか。国民総生産世界第二位までとなり、日本は世界でも類のないほどに豊かになったといわれながら、ローンと税金であっぷあっぷでここまで来て、あげく、世界金融危機の煽りを受けて、失業者があふれ、貧困者がどんどん増えて、みんなで稼いだはずの金はどこに消えたのか。一般会計(70兆円~)は表向きで、特別会計(300兆円~)へと金が吸い込まれ、どこへ消えているのか。なぜ、国家のサイフが二つ存在するのか。単純な疑問だ。家(国)の母さんのサイフは一般会計で、表(海外)で使う父さんのサイフは特別会計か。

この国は誰がつくったのか。簡単に、書こう。幕末~明治は英国であり、新政府に銀行を設立せて初期投資をした。日ロ戦争時は、ロスチャイルド系の金融資本家が資金援助をした。日本は昭和期に至るまでその借金を返済したといわれている。第二次世界大戦後は、アメリカが進駐して日本を我がものとした。そういう国家経営が今も続いているのではないか。表向きでも日本は600兆円もの米国債を買い、アメリカに金を貸したままだ。その金はもう返って来ないと囁かれている。だから、現況はアメリカが金欠となって勢力を失い、また、英国金融+王族連合が日本奪回に動いているのではないか。それが今の政治の流れとなっていると。推論である。もちろんだ。しかし、歴史の流れを俯瞰すれば、そのように見える。そして私がここで書いているようなことに、すでに、そうではないかと気づきだした日本人も少なからずいる。そういう人々にとって、歴史はまったく違ったものに見えている。

あの世で龍馬は何を感じているか。やはり、いや、ここまでになるとはと、想っているのか。どう何を想おうが、龍馬は悲しい。勝も悲しい。この二人を歴史の裏舞台の代表とさせたが、この150年間に、何人もの悲しい人間が消えていったのだ。知れば、やるせなく悲しいのだ。悔しいなど、通り越して・・・我が生まれた郷土を赤毛天狗に踏みにじられて喜んでいる人間などいない。

(つづく)


龍馬は悲し4

2009年10月26日 10時33分49秒 | 龍馬は悲し
さて、龍馬に戻ろう。高速帆船いろは丸に乗って、瀬戸内海を奔走し、倒幕派に渡りをつけ、新撰組に追われながら京に潜伏して活動していた彼は、何者だったか。また、長崎に本拠地を置き、日本初の会社「亀山社中」を設立して、グラバー邸に出入りしていた彼は何者だったか。土佐藩を脱藩し、郷里からも追われる身であり、すでに郷士でもない彼は何者だったか。

何者でもなかったのだ。人は、あなたは何者ですか?と問われれば、自分が身を置く学校や会社組織、帰属する場を名乗るだろう。では、龍馬は何と答えたか。海援隊隊長か、亀山の社長か。それは肩書きに過ぎない。ずばり、彼はエージェントだったと私は思っている。土佐藩や薩長連合の隠密なら、隠密と書くところだが、エージェントと呼ぶのは、英国側の代理人を意味している。何者でもないというのは、そのことだ。龍馬が政府筋に何者かと問われて、「私は英国のエージェントです」としゃべることはない。

龍馬は早くから土佐で外国人宣教師と接触があったといわれる。また、ジョン万次郎とも会っていた。欧米情報を彼らから得ていた。その情報とは「日本開国後は、米国か英国、もしくはフランス、ロシアが植民地にする」というものだ。土佐の郷士などしている場合ではない。しかし秀吉の時代ならいざ知らず、近代兵器を持つ欧米を相手に国を守るなど土台無理な話だ。勝海舟との出会いが、その後の行動を決定づけただろう。すでに、勝はエージェントだった可能性も高い。その彼から、日本国の将来を説かれた。ならば、視野を広げて、これからは外国勢と付き合う生き方を考えて当たり前だった。

どこで、どの時点で龍馬が雇われたのか定かではない。恐らく英国公使パークスに目を付けられ、裏側で動く仕事を任命されたのではないか。長崎のトーマス・グラバーとは、亀山社中としての商談目的が主だった。しかし、外国商人との接触は政治戦略がらみに変わりない。グラバーは龍馬に軍艦や銃器を調達してやっている。そのグラバーはスコットランド系フリーメーソンといわれる。当時はすでに上海にフリーメーソンのアジア支部(ロッジ)があり、彼はそこから派遣されていた。フリーメーソンとは欧州を中心に米国や世界各地に組織された秘密結社だが、世の陰謀論に払拭され、未だ一般には不可解な存在となっている。

とにかく龍馬は、どっぷりと染まっていた。莫大な活動資金も与えられ、命じられるままに走り回った。その自分に酔いしれたかもしれない。土佐の姉に何十通もの手紙を送っていて、それは暗号文だったという説もあるが、当時、京から土佐まで手紙を出すには、数両(1両で2万円以上)かかったという。通信費用だけで莫大なのだ。高速船いろは丸の金は? 会社設立の資金は? 誰が出したのか。司馬の小説も、そのほかの歴史解説書も、肝心な部分が何も語られていない。「語るべからず」だからである。たとえ知っていたとしても、日本近代史最大のタブーだからである。その近代史の流れこそが、現代の日本をかたちづくっていると言ってもいいと思うのだ。

(つづく)


龍馬は悲し3

2009年10月25日 15時41分00秒 | 龍馬は悲し
土佐藩の下級武士である郷士の身分だった坂本龍馬は、江戸に出て、何を見、何を知ったのか・・・
龍馬が接触した幕臣の勝海舟は、1860年には咸臨丸で米国へ渡り、帰国後は神戸海軍繰練所の軍艦奉行に就任している。今でいえば海軍のトップだ。さらに、明治元年には徳川の軍事総裁となり、新政府(官軍)に対して旧幕府方を代表する立場にあった。

江戸城無血開場の立役者は勝である。戊辰戦争で幕府側についたフランスは、官軍との徹底抗戦を促した。イギリスは新政府側を支援していた。勝は、英国公使パークスに接近し、新政府に圧力をかけさせ、交渉が決別したさいは、江戸を焼き払い、官軍壊滅作戦を計画していたといわれる。徳川慶喜は英国艦で亡命させる手はずも整えていた。だがしかし、旧幕府と新政府との対立を長引かせることを懸念していた。戦乱が長引けば、イギリスとフランスに国が分割統治されることを最も恐れていたのだ。
(この話は、一般の歴史教科書に記述はないだろう。そういう認識は広く日本人にはないと言っていい)

ここで言いたいのは、勝海舟という人間は、幕府側に立ちながら新政府側を通して、さらに先の日本を誰よりも見据えていたということだ。軍事総裁という立場は、諜報部のトップでもある。パークスを動かして、新政府へ圧力を掛けるといった工作も計った。慶喜亡命の密約も取っていた。欧州二国に分断される可能性があり、ならばイギリスに統治されるのはやむをえないと。つまり、当時の日本人で誰よりも現実を知る人間だったのではないか。その現実とは、「外国による統治、植民地化」だ。

そして、勝海舟が予測したとおり、日本は英国に統治されたのだ。そう言えば驚かれるだろうか? 明治政府は、旧幕府側のフランス勢を押し退けたイギリスによって打ち立てられた新政権だと。何をバカなと。明治時代は積極的に欧米に倣って近代化を図った主権国家であり、外国と対等に付き合い、一度も植民地化されたことはないではないかと。確かに、ほかのアジア諸国のように、公然と植民地化されてはいない。なぜ、そうはならなかったのか。最も考えられるのは「天皇家」の存在だ。明治政府は天皇をすり替えたという説(鹿島昇説)もある。英国にとって都合のよい政権とは・・・

「分断させて統治せよ」という言葉が欧州にはある。その国の勢力を二分させ、双方に支援しながら、最終的に体制側を誕生させて、思うようにコントロールする政治戦略である。また、「奴隷化はコストがかかる」とも言う。東南アジアのように植民地化すれば、軍を駐留して武力制圧をかけ、また、奴隷化した民衆にも食料を与えながら労働させるといったコロニアル政策は、コストがかかるうえに、収益も上がらない。当時、日本はアジアの中で秀でた文化国家であり、英国は高度な政治戦略を立案した。「適度に独立させながら、経済活動を発展させ、収益を上げる」と。この時点で、英国は100年の計略を打ち立てていた可能性を否定できない。その英国とは、表側の国家ではなく、東インド会社などを経営する、ロスチャイルド系列の、国際金融資本家らである。
(そんな事実など、当時の人間には想像もつかないだろう。それどころか、現代日本人も、ほとんど知らないし、今もそうであると言え「?」の筈だ)

維新後も勝海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任して、伯爵となった。だが、勝は新政府の重要なポストを得ながらも、仕事にはほとんど興味を示すこともなく、要職の椅子に座り、ただ黙っているだけの日々を送ったといわれる。全てを知りすぎた彼は、絶望し切っていたのではないか。他国に蹂躙されていなかった江戸の頃に、ただ想いを馳せて余生(明治32年/1899年没)を送ったのではないか。
私には、そう思えてならない。

(つづく)


龍馬は悲し2

2009年10月24日 13時38分31秒 | 龍馬は悲し
龍馬は悲し2

1858年に日米修好通商条約締結をかわきりに、鎖国時代を終えた開国ニッポンは、日本近海の正確な海図、主要港の海図を必要とした。自らも欧米に追順する海軍を持つ必要があった。そのためには、英国の手を借りるしか道がなかった。幕府が英国艦船に測量を許したのも、海図や水路誌を得るためのやむを得ない事情があったのだ。すでに長崎に開設されていた「海軍伝習所」では、航海術や測量技術の実践訓練がおこなわれていた。当時、英国は世界一を誇る海洋技術を保持していたから、明治政府樹立後も英国式を導入して、日本の海軍が誕生した。その後も、ずっと日本海軍は英国式に則ってきた。

さて、私が10年前に訪れた英国海軍水路部の話に戻る。資料庫を案内する係官M氏は、背は高くないがガッシリした体躯の持ち主だった。広い資料庫の棚をまわり、幕末から明治期に作成された海図を見せてくれた。通路を歩きながら、M氏が私にこう言った。「100年ほど前にも、あなたと同じ名前の日本人が水路部を訪ねていますよ」

それを聞き、その時は日英関係の親密さを語っているくらいにしか思わなかったが、帰国後に思い返してある事に気づいた。つまり、私が水路部を訪ねる前に、個人情報が調べられていたということだ。水路部のデータベースに、過去、どんな人物が訪問しているかのリストが照合され、明治末期にも私と同じファミリーネームの人間が来ていたのを目に留めていて、それを語ったのである。真意は解らないが、水路部はちゃんと調べているのですよといった暗喩だったのではないかと。ちなみに、諜報機関MI6の007も、海軍水路部所属の中佐である。水路部というところは、地勢情報の集積機関なのである。

「100年前にも、あなたと同じ名前の日本人・・・」その言葉が、妙に引っかかり、そこから私は、さらに50年の時を遡り、英国と日本の歴史を紐解いた。150年前は、江戸末期だ。ペリーが黒船で浦賀にやってきて、会談を受け入れぬ幕府に苛つき、洋上に居座っていた。確か、江戸に出ていた坂本龍馬も、小説では、勝海舟と接触し、その黒船見物をしたと描かれていた。このときの龍馬は、剣術修行のため、千葉道場に身を寄せる身分だった。土佐藩を脱藩するのは後である。

(つづく)


龍馬は悲し1

2009年10月21日 10時39分48秒 | 龍馬は悲し
来年のNHK大河ドラマは、坂本龍馬だそうだ。明治を切り開いた開国の志士、国民的英雄である。司馬遼太郎が、そう書いた。司馬史観は、昭和の国民に受け入れられ、日本人の姿勢を正したし、戦後、自虐的に落ち込んでいた日本人の心に灯明を照らした。それはそれで価値のあることだった。私も、かつて司馬の龍馬物語を読んで、立派な日本人がいたのだと素直に受け入れたものだ。そのうち、長崎の地に行って、当時の面影を辿ってみたいとも思っていた。

しかし・・・10年前(1999年)、雑誌の取材で英国海軍水路部を訪ねたことで、龍馬の時代の見え方が変わったのである。資料庫に入れてもらい、日本との関わりのあった幕末、明治期の海図類を調べているうちに、どうも、幕末の風景がちがうぞと、思い至った。

イギリス測量艦が作図した「神戸港」や、幕府が測量艦に差し出した「伊能小図」を見聞していて、想像以上に英米が接近していて、日本の新時代を築く手綱を握っていたことを知った。日本近海は、アメリカ、イギリス、ロシア、フランスなどが測量航海を頻繁におこなっており、イギリスは、幕府の許可を得て、神戸や長崎などの主要港の測量を遂行していた。地図は地政学の要で、その国の重要資料だ。まず外国側に測量を許すことはない。資料庫に眠る当時の詳しい海図が、あからさまに日本の劣勢を物語っていた。

ペリーが浦賀に来航したのが1853年。翌年、日米和親条約を締結し、4年後の1858年に日米修好通商条約を結び、港を開いた。次いで蘭、露、英、仏とも締結。ここから明治維新の1868年までの約10年間が、攘夷から倒幕への歴史転換期だ。坂本龍馬が奔走して薩長同盟を導き、江戸城無血開場させ、大政奉還となり、政権を朝廷へ返した。龍馬の影ながらの活躍がなければ、大政奉還はスムーズに事が運ばなかったというのが一般の考えだろう。

ところが、幕末のイギリス測量艦の事情を取材していて、どうもそういった龍馬ヒーロー説が、腑に落ちなくなった。そんな単純な話ではないと。ただ、取材当時は、漠然とナニカがおかしいと・・・

(つづく)