メキシコの犬
――1――
砂ぼこりを巻き上げて定期便バスが悪路を飛ばしていた。山あいの坂道にさしかかっても運転手は忙しくギアを変え、スピードをほとんど落とさなかった。
赤茶けた斜面に沿ってレンガ造りの小さな家がびっしりと立ち並んでいた。家々の周りには、大きなサボテンが庭木のように生えて一角に日陰をつくり、老人たちが古木にように佇んでいた。窓越しに見る景色は、百年も変わっていないにちがいなかった。
車内は客で満杯で、みんな黙りこくっていた。唸るようなエンジン音と、ギアの悲鳴が耳に響いていた。どの客も、無表情だ。メキシコ人は陽気で明るい、という風評など嘘っぱちだった。
隣の席には、肌の浅黒い無愛想なヒゲづらの男が両腕を組んだまま、揺れに任せて座っていた。僕はもう、二時間もこの男と隣り合わせて座っていた。やがて平地となり、左右への揺れがおさまって、隣のヒゲ男に寄りかかる気苦労もなくなった。男は小さな村でバスを降りていった。
運転手が後ろを振り返りながら、
「ピラミドース、テオティワカン」
と、しゃがれ声を張り上げた。
運転手が何か言うたびに耳をそば立て、ガイドブックに出ている地名を聞き分けなければならなかった。バスが停車すると、みな席を立ち、前方の出口へと向かった。終点がテオティワカンだったのだ。バスはすべての客を吐き出し、土煙りを立ち上げて走り去っていった。
テオティワカンは、メキシコシティに最も近いメキシコ最大級の古代神殿都市遺跡だ。ここには太陽と月をシンボルとする巨大ピラミッドがあるとガイドブックに書かれていた。つまり、メキシコ人にとっては、日本人が神社仏閣に詣でるようなものなのかもしれない。今しがたバスから降りた客たちは、僕をさっさと追い越して、テオティワカン神殿の入場口へと消えていった。
街道に一匹の犬が現れた。
大型とはいえないまでも体高のあるしっぽの長い茶色犬で、少し痩せていた。ノラ犬、というのは一目でわかるが、飢え切った風でもなかった。
犬にも、性格のいいのと悪いのがいて、一瞥してわかるものだ。性悪犬は、道で会うと険悪な眼を差し向けるか、さもなくば妙にコソコソするか、どちらにしてもいい印象を与えはしない。
「おい、こっちへおいで」
地面を嗅いでいた茶色犬は、その呼びかけに応じてか足元にやって来て、僕の靴を嗅いだ。
「お前どこから来た?」
頭を撫でてやりたかったが、手を出さなかった。
子供の頃、手首を噛まれたことがあった。狂犬病が恐れられていた時代だ。すぐに病院へ連れて行かれ、噛まれたときよりも痛い注射を打たれたのだった。メキシコでは、まだ狂犬がいるかもしれない。その態度を察してか、奴も間を置いて前を歩き始めた。
「案内でもしてくれるのか?」
ピクッと耳を動かした。シェパードのようにピンと立った耳だ。犬は神殿都市のゲートまで一緒についてきたが、もと来た道へ帰っていった。妙にサバサバしていて、暑い国の犬というのは、ああいうものなんだろうと思った。
――2――
ゲートをくぐった広場には博物館と土産物屋があったが、それらを通り越して真っ直ぐ神殿を目指して歩いた。古代都市というものを早く見てみたかった。
巨大な石像建築が目の前にあった。ケッツアルコアトル神殿だ。階段状のステージに、獅子のような顔が並んでこちらを見据えていた。沖縄のシーサーに似ていなくもない、その彫像に見入った。
彫像の前で左に向くと、敷地の中央に一筋の路が伸びていた。「死者の通り」とガイドブックにあり、ずっと先にピラミッドが頂を見せていた。ピラミッドへ向かって死者の通りを進んだ。通りの両脇には半ば崩れかけた住居跡が続いていて、かつてここが都市であったことを物語っていた。
歩いても歩いても、なかなかピラミッドには近づけなかった。次の広場に出ることができたときは、かなり息が上がっていた。メキシコシティで標高が二二四〇メートルだ。ここはもっと標高がありそうだった。
太陽のピラミッドの前に立った。エジプトのものとは形が違い、どっしりと裾を広げた台形をしていた。高さもありそうだが、横幅もあった。登る人間が蟻のように見えた。
石段は真っ直ぐ頂に向かって伸びていた。神社の石段とは比較にならないほどの角度があった。石段に手を突き出して四つんばいで登るのは女たちだ。男はそんな真似ができるかといった調子だが、それでも慎重に足を運んで登っていた。踏み外せば下まで転がり落ち、体中の骨がバラバラになるだろう。ぐっしょり汗をかき、二五分かかって頂上に辿り着いた。
絶景だった。
テオティワカンの全容が一望に見渡せ、下界のパノラマ風景には区画された都市の面影が映し出されていた。紀元前一五〇年頃に誕生し、およそ九〇〇年後の西暦七五〇年頃まで栄華を誇った古代国家の遺影だった。
ピラミッドは王の在位を象徴した墓などではなく、太陽神を祭った巨大な宗教装置で、ここは太陽の高みだ。この国は、宗教が一〇万人もの住民を束ねていたという。かつて神殿を中心に、商業が栄え、文化芸術が開花していたのだ。
その宗教都市が、一二〇〇年の昔、忽然と消滅している。スペインからエルナン・コルテスがやって来て、アステカ国家を征服するよりも七五〇年も前の話である。侵略があったのならわかるが、なぜ、テオティワカンは消えたのか、理由は謎に包まれたままだ。
ピラミッドの頂きに腰掛け、下界に広がる遺跡群をじっくりと見下ろした。ここの謎は想像する取っ掛かりが何もない。ただ、廃墟となった都市の遺構が横たわる風景があるだけだった。
へっぴり腰で広場まで降り、最奥にある月のピラミッドへ近づいた。太陽に比べて小振りだが、こちらの造形のほうが洗練されているように思えた。ここも急角度の石段だったが、太陽の神殿よりも楽に登れた。太陽からよりも月の頂きからのほうが古代都市の全景を見渡すことができた。ピラミッドの配置には、必ず何かの目的や意味があったはずだが、ガイドブックは、そのことについて何も触れていなかった。
月は中央の太陽からの光を受けて都市のすべてを映し出す役割を担っている。月は鏡だ。中国では陰陽というけど、宇宙的なエネルギーバランスが取られて、この古代都市を支えていた・・・
そう、もっともらしい論をひねり出してみたが、応えてくれる人間はだれもいない。ただ僕は、このピラミッドを言葉でまとめずにはいられなかった。黙っていると、何者かに足元をすくいあげられ、自分が世界から消えてしまいそうな危うさを感じていた。そもそもピラミッドというものは、神への生け贄が供された場所でもある。石のナイフで心臓をえぐり出し、血の溢れる石の盃が供えられたのだ。ただし、その生け贄には永劫の栄誉が与えられたという。テオティワカンとは、王が神に変わる場所という意味なのだ。
太陽よりも、月のピラミッドがなぜか心地よかった。一時間はいただろうか。頂の中央に座り、しばらく瞑想して、目を開けると、もうだれもいなくなっていた。ボーボーと風が吹き続けるばかりだ。
――4――
古代都市に降りると、すっかり人影がなくなっていた。腕時計の針が五時近くを指していた。ここに八時間もいたことになる。閉場の時間が迫っていた。入り口まで戻るには急いでも三十分以上はかかる。それに死者の通りに戻るのは気が進まなかった。案内図を見ると、遺跡を囲むように外周路があった。そこからもバス停まで戻れそうだった。月の広場から、ケッツアルパパロトル宮殿を抜けて外周路に出た。
サボテンの林に土の道が伸びていた。野生のサボテンは観葉植物とは違い、樹高が五メートルもあろうかという大木だった。根元は黒っぽく角質化していて、イチョウの木の樹皮によく似ていた。それが上へ行くほど青さを取り戻し、サボテンを枝葉のように繁らせていた。
行けども行けどもサボテンの林が続き、ほかに道らしきものはなかった。五時はとっくに過ぎていた。メキシコ行きの最終バスはもう出てしまったかも知れない。薄日の中で影を落とすサボテンが、まったく別の生き物のように見えた。バスに間に合うかどうかなど、もうどうでもよかった。早くひと気のある場所に出たかった。
足を取られ、その場につっぷした。
遺跡のカケラが散らばっていた。その赤茶けたカケラは土器の破片だった。
「どこまで遺跡が続いてんだ・・・」
ズボンの砂をはらいながら、そう吐き捨てるようにいった。視界の際でサボテンの影が動いたように見えた。息を止め、それが何かを確かめようと目を凝らした。サボテンの影から出てきたのは、犬だった。
「おい、ポチじゃないか!」
ノラ犬は、僕の周りをウロつきながらついて来た。犬がいてくれて、心細さがいくぶんやわらいだ。やっと入口の裏手に出ることができたが、観光客の姿はなかった。バス停へ行くと一台も残っていなかった。日は落ち、真昼の暑さが嘘のように肌寒い風が吹き渡っていた。
「おまえ、近くにホテル知らないか」
犬は僕の顔を見上げ、前を歩き出した。あてもなく犬について歩いてみたが、眼前にはトウモロコシ畑ばかりが広がり、建物らしきものは見当たらなかった。そのまましばらく歩いていると、布包みを抱えた女に出くわした。
「ドンデ エスタ アル オテル?」
『旅行者のためのスペイン語』を片手に、近くにホテルがあるかとたずねると、道の先を指さし、「オテル」と言った。
「グラシアス」
礼を言い、寝床の心配はいらなくなったと思うと急に腹がすいてきて、昨夜メキシコシティで食べた細切り肉の詰まったタコスと冷たいビールが恋しくなった。
ホテルは、白壁のコロニアル・スタイルの高級そうな構えだった。門から庭を通って建物に入るとフロントに女が立っていた。英語で部屋が空いているかと聞くと、意味のわからない返事が戻ってきた。とっさに一つ覚えのスペイン語を口にした。
「ノ エンティエンド エスパニョール(スペイン語はわかりません)」
「英語で、話して、います」
彼女がゆっくりと、訛りのひどい英語でそう言った。
バツが悪く、うつむき加減に部屋はあるかと聞いた。犬は横で待っていたが、フロント嬢からは見えないようだった。
ボーイが現れて部屋へ通してくれようとしたが、足下を見て、「お客さんの犬ですか」と聞くので、そうだと答えるよりなかった。案内されたのは中庭に面した一階の部屋だった。僕はドアの前で犬を制して自分だけ中に入った。友だちを裏切ったような後味が残った。
部屋は一人旅にはもったいないくらい広く、キングサイズのベッドと革張りソファのセットがあり、テレビと冷蔵庫もあった。メキシコシティでの一週間、僕は一泊四ドル(宿泊料はドルで請求された)の宿に泊まっていた。部屋にベッドがひとつだけ置いてあり、あとは風呂もトイレも共同という簡素な宿だ。それに比べると、この部屋は超がつくほど高級だった。
一泊三五ドル(ここもドル払いだ)というのは、メキシコ人にとってどの位の金なのかよくわからなかったが、一日で稼げる単位ではないだろうと思った。古代都市からこの高級ホテルへという流れは、どうにもギャップが大き過ぎる気がした。
「やっぱり、バス停で野宿すりゃよかったか」
ホテルの前で一瞬立ち止まり、迷ったが、空腹と疲労には勝てなかった。本当は、怖かったのだ。あの古代遺跡で夜を明かすには、相当の勇気が必要だった。月のピラミッドに戻ろうか、とも思ったのだ。
「贅沢なメキシコの夜があってもいいか」
バスダブにとっぷりつかり、自分を納得させた。
腹が鳴った。なにか腹に詰め込みたかった。ドアを開けると、犬が床にうずくまって僕を待っていた。
「おまえずっとここにいる気か。待ってろ何か持ってきてやるから」
レストランは中庭を挟んだ反対側にあり、ほかに客はいなかった。ウェイターにビールを頼み、それから食事がしたいと言うと、
「セニョール、申し訳ありませんが、調理場の火を落としたので温かいものはお出しできません」と言った。
ビールのつまみになりそうな生ハムと、チーズ&クラッカーを注文した。ビールはボヘミアという銘柄で、そのどっしりとした味わいが気に入っていた。シティで、マリアッチと呼ばれる流しの楽団音楽を聴きながら飲んだこのビールの味は最高だった。
「お客様の犬ですか?」
ウェイターも、ボーイと同じ質問をした。男はしげしげと犬を見つめ、いい犬ですねと言った。
僕はそうだと答えて、生ハムのひと切れを足元の犬に食わせてやった。向こうが透けそうな生ハムなどひと飲みだったが、この犬は次を催促するような素振りをしなかった。
いい犬。ウェイターのいう通りだった。旅の相棒に生ハムとチーズを二切れ放ってやった。
茶色犬は、僕が知っているどの犬とも違っていた。ノラ犬にしては静か過ぎた。それが個性といえば個性だが、犬は、僕の心に一定の距離を置いていて、決してそれ以上近づこうとはしなかった。もちろん生ハムをやると嬉々として食べたし、長いしっぽも振った。しかしすぐに元の静かな犬に戻り、両手をきちんと重ねて床に座っていた。
ノラ犬なのに臭いがしないのも妙だった。それに、僕は奴の声を、一度も聞いていない。吠えるのを、まったく聞いていないのだ。そんな犬がいるものか? 目の前にうずくまる犬を見つめ、そう思ったが、小さく小刻みな息をもらして、テーブルの下からこの僕を見上げるばかりだった。
――5――
その夜、僕はキングサイズのベッドの中で夢を見た。
明け方の夢だった。
深く暗い森の中を歩いていた。森は臭いに満ちていた。落ち葉の積もった土壌から湿った臭いが立ち込めていた。それは複雑にあらゆるものの混ざり合った土の臭いだが、とても静かな臭いともいえた。
突然、風の来る先からケモノの臭いがした。魅惑的な臭いだ。僕は用心深く、ていねいに、風に向かって駆け出した。臭いはどんどん近くなった。甘い乳の香りが漂っていた。草むらの中で、赤ん坊が眠っていた。
僕は泣き叫んだ。頭を振り、その場でグルグルと飛び回った。赤ん坊を包むように生えた草を掻きむしり、むさぼり食った。それは茎も葉も細長く、先に実のある草だった。食えども食えども草はなくならなかった。
その時、赤ん坊が僕にこう言った。
「あんたは、この草を永遠に食べにゃいけんよ」
広島弁だった。
目覚めた僕の耳に、ハッキリとその言葉が残っていた。広島弁は年に一、二度、東京から帰郷したときにしか使わないから、妙に生生しかった。僕はとてつもない空腹感を覚え、胃袋のあたりを押さえてみた。腹部がぽっかり空洞になったような錯覚に襲われたからだ。
ドアを開けると、犬はいなかった。中庭の噴水が光を浴びて眩しかった。庭にも犬はいなかった。レストランへ行き、僕はコーヒーを飲み、パンをかじり、チリのきいた豆料理を食べた。どれも美味かった。こんな素晴らしい朝めしは経験したことがなかった。
胃袋が満たされると、今朝の夢を思い返した。
色がなく、臭いが形づくった世界だった。あの草? 音? 音は声だけだ。あの赤子は、一体だれなのだろう?
草は、米だ。確かにそうだとわかった。なぜ、米の夢を見たのか。そのわけを考えてもわからなかったが、米が大切ないのちの要なのだということだけは理解できた。僕は犬になって、その米を食い、赤ん坊に教えられたのだ。
何だか、あの犬までもが夢の一部のような気がしてきて、僕は頭を振り、首のうしろを指でほぐした。夢じゃないのは確かなのだ。先ほど朝食を注文したとき、夕べと同じウェイターが「今朝は犬は一緒ではないのですか」といったばかりなのだから。
どこへ行ったのだろう?
置き去りにされたような寂しさがあった。もう一度会えば、あの犬の心が読めるかも知れない。そんな気がした。しかし、ウェイターにたずねてみるのも気が進まなかった。自分の犬だと、きっぱり言ったのだ。
――6――
ホテルを出て、バス停へと向かって歩いた。メキシコシティから到着したバスが、大勢の観光客を吐き出していた。そのバスの客はほとんどがアメリカ人のようで、若いカップルや老年夫婦らが一団となって、テオティワカン見物に意気揚々としていた。ツアーの団体なのだろう。
「ヘイ、カマーン」
若者が、どこからか現れた数匹の野良犬に向かって声をかけた。何かをねだるように、犬たちはアメリカ人観光客のそばに近寄っていった。尾の長い茶色の犬はいなかった。
あの犬は、今ごろきっと月のピラミッドの下で眠っているんだ・・・
僕は犬を、自分の胸のうちにそっと仕舞い込んだ。
メキシコ行きの定期便バスには、僕のほかに数人のメキシコ人が乗っているだけだった。街に出かける田舎の男たちは、笑い声と共に盛んにしゃべくり合っていた。
明日,九月一六日は、メキシコ独立記念日だ。一五二一年、コルテスによって征服され三〇〇年もの間、植民地だったメキシコが、一八二一年、スペインから自由になった日である。男たちも独立を祝いに街へ繰り出すのだ。
シティでは、大通りで大パレードが催されるはずだ。今夜あたりから、そこらじゅうで花火が打ち上げられて、男も女も、大人も子供もお祭り騒ぎだろう。
走り去るバスの窓越しに、古代都市から延びた街道をもう一度振り返った。土埃の中に、犬が立っているかも知れないと思ったのだ。どこにもその姿はなかった。
デイパックからノートを取り出し、短文をしたためた。
あれはもう、ずっと昔の話のようで・・・
文字にしておかなければ大切な何かを忘れてしまいそうな気がした。
頭をよぎりながら、すぐに消えてしまう、
言葉になる前の微かな風のような、感触だった。
――1――
砂ぼこりを巻き上げて定期便バスが悪路を飛ばしていた。山あいの坂道にさしかかっても運転手は忙しくギアを変え、スピードをほとんど落とさなかった。
赤茶けた斜面に沿ってレンガ造りの小さな家がびっしりと立ち並んでいた。家々の周りには、大きなサボテンが庭木のように生えて一角に日陰をつくり、老人たちが古木にように佇んでいた。窓越しに見る景色は、百年も変わっていないにちがいなかった。
車内は客で満杯で、みんな黙りこくっていた。唸るようなエンジン音と、ギアの悲鳴が耳に響いていた。どの客も、無表情だ。メキシコ人は陽気で明るい、という風評など嘘っぱちだった。
隣の席には、肌の浅黒い無愛想なヒゲづらの男が両腕を組んだまま、揺れに任せて座っていた。僕はもう、二時間もこの男と隣り合わせて座っていた。やがて平地となり、左右への揺れがおさまって、隣のヒゲ男に寄りかかる気苦労もなくなった。男は小さな村でバスを降りていった。
運転手が後ろを振り返りながら、
「ピラミドース、テオティワカン」
と、しゃがれ声を張り上げた。
運転手が何か言うたびに耳をそば立て、ガイドブックに出ている地名を聞き分けなければならなかった。バスが停車すると、みな席を立ち、前方の出口へと向かった。終点がテオティワカンだったのだ。バスはすべての客を吐き出し、土煙りを立ち上げて走り去っていった。
テオティワカンは、メキシコシティに最も近いメキシコ最大級の古代神殿都市遺跡だ。ここには太陽と月をシンボルとする巨大ピラミッドがあるとガイドブックに書かれていた。つまり、メキシコ人にとっては、日本人が神社仏閣に詣でるようなものなのかもしれない。今しがたバスから降りた客たちは、僕をさっさと追い越して、テオティワカン神殿の入場口へと消えていった。
街道に一匹の犬が現れた。
大型とはいえないまでも体高のあるしっぽの長い茶色犬で、少し痩せていた。ノラ犬、というのは一目でわかるが、飢え切った風でもなかった。
犬にも、性格のいいのと悪いのがいて、一瞥してわかるものだ。性悪犬は、道で会うと険悪な眼を差し向けるか、さもなくば妙にコソコソするか、どちらにしてもいい印象を与えはしない。
「おい、こっちへおいで」
地面を嗅いでいた茶色犬は、その呼びかけに応じてか足元にやって来て、僕の靴を嗅いだ。
「お前どこから来た?」
頭を撫でてやりたかったが、手を出さなかった。
子供の頃、手首を噛まれたことがあった。狂犬病が恐れられていた時代だ。すぐに病院へ連れて行かれ、噛まれたときよりも痛い注射を打たれたのだった。メキシコでは、まだ狂犬がいるかもしれない。その態度を察してか、奴も間を置いて前を歩き始めた。
「案内でもしてくれるのか?」
ピクッと耳を動かした。シェパードのようにピンと立った耳だ。犬は神殿都市のゲートまで一緒についてきたが、もと来た道へ帰っていった。妙にサバサバしていて、暑い国の犬というのは、ああいうものなんだろうと思った。
――2――
ゲートをくぐった広場には博物館と土産物屋があったが、それらを通り越して真っ直ぐ神殿を目指して歩いた。古代都市というものを早く見てみたかった。
巨大な石像建築が目の前にあった。ケッツアルコアトル神殿だ。階段状のステージに、獅子のような顔が並んでこちらを見据えていた。沖縄のシーサーに似ていなくもない、その彫像に見入った。
彫像の前で左に向くと、敷地の中央に一筋の路が伸びていた。「死者の通り」とガイドブックにあり、ずっと先にピラミッドが頂を見せていた。ピラミッドへ向かって死者の通りを進んだ。通りの両脇には半ば崩れかけた住居跡が続いていて、かつてここが都市であったことを物語っていた。
歩いても歩いても、なかなかピラミッドには近づけなかった。次の広場に出ることができたときは、かなり息が上がっていた。メキシコシティで標高が二二四〇メートルだ。ここはもっと標高がありそうだった。
太陽のピラミッドの前に立った。エジプトのものとは形が違い、どっしりと裾を広げた台形をしていた。高さもありそうだが、横幅もあった。登る人間が蟻のように見えた。
石段は真っ直ぐ頂に向かって伸びていた。神社の石段とは比較にならないほどの角度があった。石段に手を突き出して四つんばいで登るのは女たちだ。男はそんな真似ができるかといった調子だが、それでも慎重に足を運んで登っていた。踏み外せば下まで転がり落ち、体中の骨がバラバラになるだろう。ぐっしょり汗をかき、二五分かかって頂上に辿り着いた。
絶景だった。
テオティワカンの全容が一望に見渡せ、下界のパノラマ風景には区画された都市の面影が映し出されていた。紀元前一五〇年頃に誕生し、およそ九〇〇年後の西暦七五〇年頃まで栄華を誇った古代国家の遺影だった。
ピラミッドは王の在位を象徴した墓などではなく、太陽神を祭った巨大な宗教装置で、ここは太陽の高みだ。この国は、宗教が一〇万人もの住民を束ねていたという。かつて神殿を中心に、商業が栄え、文化芸術が開花していたのだ。
その宗教都市が、一二〇〇年の昔、忽然と消滅している。スペインからエルナン・コルテスがやって来て、アステカ国家を征服するよりも七五〇年も前の話である。侵略があったのならわかるが、なぜ、テオティワカンは消えたのか、理由は謎に包まれたままだ。
ピラミッドの頂きに腰掛け、下界に広がる遺跡群をじっくりと見下ろした。ここの謎は想像する取っ掛かりが何もない。ただ、廃墟となった都市の遺構が横たわる風景があるだけだった。
へっぴり腰で広場まで降り、最奥にある月のピラミッドへ近づいた。太陽に比べて小振りだが、こちらの造形のほうが洗練されているように思えた。ここも急角度の石段だったが、太陽の神殿よりも楽に登れた。太陽からよりも月の頂きからのほうが古代都市の全景を見渡すことができた。ピラミッドの配置には、必ず何かの目的や意味があったはずだが、ガイドブックは、そのことについて何も触れていなかった。
月は中央の太陽からの光を受けて都市のすべてを映し出す役割を担っている。月は鏡だ。中国では陰陽というけど、宇宙的なエネルギーバランスが取られて、この古代都市を支えていた・・・
そう、もっともらしい論をひねり出してみたが、応えてくれる人間はだれもいない。ただ僕は、このピラミッドを言葉でまとめずにはいられなかった。黙っていると、何者かに足元をすくいあげられ、自分が世界から消えてしまいそうな危うさを感じていた。そもそもピラミッドというものは、神への生け贄が供された場所でもある。石のナイフで心臓をえぐり出し、血の溢れる石の盃が供えられたのだ。ただし、その生け贄には永劫の栄誉が与えられたという。テオティワカンとは、王が神に変わる場所という意味なのだ。
太陽よりも、月のピラミッドがなぜか心地よかった。一時間はいただろうか。頂の中央に座り、しばらく瞑想して、目を開けると、もうだれもいなくなっていた。ボーボーと風が吹き続けるばかりだ。
――4――
古代都市に降りると、すっかり人影がなくなっていた。腕時計の針が五時近くを指していた。ここに八時間もいたことになる。閉場の時間が迫っていた。入り口まで戻るには急いでも三十分以上はかかる。それに死者の通りに戻るのは気が進まなかった。案内図を見ると、遺跡を囲むように外周路があった。そこからもバス停まで戻れそうだった。月の広場から、ケッツアルパパロトル宮殿を抜けて外周路に出た。
サボテンの林に土の道が伸びていた。野生のサボテンは観葉植物とは違い、樹高が五メートルもあろうかという大木だった。根元は黒っぽく角質化していて、イチョウの木の樹皮によく似ていた。それが上へ行くほど青さを取り戻し、サボテンを枝葉のように繁らせていた。
行けども行けどもサボテンの林が続き、ほかに道らしきものはなかった。五時はとっくに過ぎていた。メキシコ行きの最終バスはもう出てしまったかも知れない。薄日の中で影を落とすサボテンが、まったく別の生き物のように見えた。バスに間に合うかどうかなど、もうどうでもよかった。早くひと気のある場所に出たかった。
足を取られ、その場につっぷした。
遺跡のカケラが散らばっていた。その赤茶けたカケラは土器の破片だった。
「どこまで遺跡が続いてんだ・・・」
ズボンの砂をはらいながら、そう吐き捨てるようにいった。視界の際でサボテンの影が動いたように見えた。息を止め、それが何かを確かめようと目を凝らした。サボテンの影から出てきたのは、犬だった。
「おい、ポチじゃないか!」
ノラ犬は、僕の周りをウロつきながらついて来た。犬がいてくれて、心細さがいくぶんやわらいだ。やっと入口の裏手に出ることができたが、観光客の姿はなかった。バス停へ行くと一台も残っていなかった。日は落ち、真昼の暑さが嘘のように肌寒い風が吹き渡っていた。
「おまえ、近くにホテル知らないか」
犬は僕の顔を見上げ、前を歩き出した。あてもなく犬について歩いてみたが、眼前にはトウモロコシ畑ばかりが広がり、建物らしきものは見当たらなかった。そのまましばらく歩いていると、布包みを抱えた女に出くわした。
「ドンデ エスタ アル オテル?」
『旅行者のためのスペイン語』を片手に、近くにホテルがあるかとたずねると、道の先を指さし、「オテル」と言った。
「グラシアス」
礼を言い、寝床の心配はいらなくなったと思うと急に腹がすいてきて、昨夜メキシコシティで食べた細切り肉の詰まったタコスと冷たいビールが恋しくなった。
ホテルは、白壁のコロニアル・スタイルの高級そうな構えだった。門から庭を通って建物に入るとフロントに女が立っていた。英語で部屋が空いているかと聞くと、意味のわからない返事が戻ってきた。とっさに一つ覚えのスペイン語を口にした。
「ノ エンティエンド エスパニョール(スペイン語はわかりません)」
「英語で、話して、います」
彼女がゆっくりと、訛りのひどい英語でそう言った。
バツが悪く、うつむき加減に部屋はあるかと聞いた。犬は横で待っていたが、フロント嬢からは見えないようだった。
ボーイが現れて部屋へ通してくれようとしたが、足下を見て、「お客さんの犬ですか」と聞くので、そうだと答えるよりなかった。案内されたのは中庭に面した一階の部屋だった。僕はドアの前で犬を制して自分だけ中に入った。友だちを裏切ったような後味が残った。
部屋は一人旅にはもったいないくらい広く、キングサイズのベッドと革張りソファのセットがあり、テレビと冷蔵庫もあった。メキシコシティでの一週間、僕は一泊四ドル(宿泊料はドルで請求された)の宿に泊まっていた。部屋にベッドがひとつだけ置いてあり、あとは風呂もトイレも共同という簡素な宿だ。それに比べると、この部屋は超がつくほど高級だった。
一泊三五ドル(ここもドル払いだ)というのは、メキシコ人にとってどの位の金なのかよくわからなかったが、一日で稼げる単位ではないだろうと思った。古代都市からこの高級ホテルへという流れは、どうにもギャップが大き過ぎる気がした。
「やっぱり、バス停で野宿すりゃよかったか」
ホテルの前で一瞬立ち止まり、迷ったが、空腹と疲労には勝てなかった。本当は、怖かったのだ。あの古代遺跡で夜を明かすには、相当の勇気が必要だった。月のピラミッドに戻ろうか、とも思ったのだ。
「贅沢なメキシコの夜があってもいいか」
バスダブにとっぷりつかり、自分を納得させた。
腹が鳴った。なにか腹に詰め込みたかった。ドアを開けると、犬が床にうずくまって僕を待っていた。
「おまえずっとここにいる気か。待ってろ何か持ってきてやるから」
レストランは中庭を挟んだ反対側にあり、ほかに客はいなかった。ウェイターにビールを頼み、それから食事がしたいと言うと、
「セニョール、申し訳ありませんが、調理場の火を落としたので温かいものはお出しできません」と言った。
ビールのつまみになりそうな生ハムと、チーズ&クラッカーを注文した。ビールはボヘミアという銘柄で、そのどっしりとした味わいが気に入っていた。シティで、マリアッチと呼ばれる流しの楽団音楽を聴きながら飲んだこのビールの味は最高だった。
「お客様の犬ですか?」
ウェイターも、ボーイと同じ質問をした。男はしげしげと犬を見つめ、いい犬ですねと言った。
僕はそうだと答えて、生ハムのひと切れを足元の犬に食わせてやった。向こうが透けそうな生ハムなどひと飲みだったが、この犬は次を催促するような素振りをしなかった。
いい犬。ウェイターのいう通りだった。旅の相棒に生ハムとチーズを二切れ放ってやった。
茶色犬は、僕が知っているどの犬とも違っていた。ノラ犬にしては静か過ぎた。それが個性といえば個性だが、犬は、僕の心に一定の距離を置いていて、決してそれ以上近づこうとはしなかった。もちろん生ハムをやると嬉々として食べたし、長いしっぽも振った。しかしすぐに元の静かな犬に戻り、両手をきちんと重ねて床に座っていた。
ノラ犬なのに臭いがしないのも妙だった。それに、僕は奴の声を、一度も聞いていない。吠えるのを、まったく聞いていないのだ。そんな犬がいるものか? 目の前にうずくまる犬を見つめ、そう思ったが、小さく小刻みな息をもらして、テーブルの下からこの僕を見上げるばかりだった。
――5――
その夜、僕はキングサイズのベッドの中で夢を見た。
明け方の夢だった。
深く暗い森の中を歩いていた。森は臭いに満ちていた。落ち葉の積もった土壌から湿った臭いが立ち込めていた。それは複雑にあらゆるものの混ざり合った土の臭いだが、とても静かな臭いともいえた。
突然、風の来る先からケモノの臭いがした。魅惑的な臭いだ。僕は用心深く、ていねいに、風に向かって駆け出した。臭いはどんどん近くなった。甘い乳の香りが漂っていた。草むらの中で、赤ん坊が眠っていた。
僕は泣き叫んだ。頭を振り、その場でグルグルと飛び回った。赤ん坊を包むように生えた草を掻きむしり、むさぼり食った。それは茎も葉も細長く、先に実のある草だった。食えども食えども草はなくならなかった。
その時、赤ん坊が僕にこう言った。
「あんたは、この草を永遠に食べにゃいけんよ」
広島弁だった。
目覚めた僕の耳に、ハッキリとその言葉が残っていた。広島弁は年に一、二度、東京から帰郷したときにしか使わないから、妙に生生しかった。僕はとてつもない空腹感を覚え、胃袋のあたりを押さえてみた。腹部がぽっかり空洞になったような錯覚に襲われたからだ。
ドアを開けると、犬はいなかった。中庭の噴水が光を浴びて眩しかった。庭にも犬はいなかった。レストランへ行き、僕はコーヒーを飲み、パンをかじり、チリのきいた豆料理を食べた。どれも美味かった。こんな素晴らしい朝めしは経験したことがなかった。
胃袋が満たされると、今朝の夢を思い返した。
色がなく、臭いが形づくった世界だった。あの草? 音? 音は声だけだ。あの赤子は、一体だれなのだろう?
草は、米だ。確かにそうだとわかった。なぜ、米の夢を見たのか。そのわけを考えてもわからなかったが、米が大切ないのちの要なのだということだけは理解できた。僕は犬になって、その米を食い、赤ん坊に教えられたのだ。
何だか、あの犬までもが夢の一部のような気がしてきて、僕は頭を振り、首のうしろを指でほぐした。夢じゃないのは確かなのだ。先ほど朝食を注文したとき、夕べと同じウェイターが「今朝は犬は一緒ではないのですか」といったばかりなのだから。
どこへ行ったのだろう?
置き去りにされたような寂しさがあった。もう一度会えば、あの犬の心が読めるかも知れない。そんな気がした。しかし、ウェイターにたずねてみるのも気が進まなかった。自分の犬だと、きっぱり言ったのだ。
――6――
ホテルを出て、バス停へと向かって歩いた。メキシコシティから到着したバスが、大勢の観光客を吐き出していた。そのバスの客はほとんどがアメリカ人のようで、若いカップルや老年夫婦らが一団となって、テオティワカン見物に意気揚々としていた。ツアーの団体なのだろう。
「ヘイ、カマーン」
若者が、どこからか現れた数匹の野良犬に向かって声をかけた。何かをねだるように、犬たちはアメリカ人観光客のそばに近寄っていった。尾の長い茶色の犬はいなかった。
あの犬は、今ごろきっと月のピラミッドの下で眠っているんだ・・・
僕は犬を、自分の胸のうちにそっと仕舞い込んだ。
メキシコ行きの定期便バスには、僕のほかに数人のメキシコ人が乗っているだけだった。街に出かける田舎の男たちは、笑い声と共に盛んにしゃべくり合っていた。
明日,九月一六日は、メキシコ独立記念日だ。一五二一年、コルテスによって征服され三〇〇年もの間、植民地だったメキシコが、一八二一年、スペインから自由になった日である。男たちも独立を祝いに街へ繰り出すのだ。
シティでは、大通りで大パレードが催されるはずだ。今夜あたりから、そこらじゅうで花火が打ち上げられて、男も女も、大人も子供もお祭り騒ぎだろう。
走り去るバスの窓越しに、古代都市から延びた街道をもう一度振り返った。土埃の中に、犬が立っているかも知れないと思ったのだ。どこにもその姿はなかった。
デイパックからノートを取り出し、短文をしたためた。
あれはもう、ずっと昔の話のようで・・・
文字にしておかなければ大切な何かを忘れてしまいそうな気がした。
頭をよぎりながら、すぐに消えてしまう、
言葉になる前の微かな風のような、感触だった。