『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

最初に宮古島へ行った顔の話

2012年01月13日 23時39分27秒 | 宮古島のシャーマン

あの日と今も変わらず、変わったのは形だけ

20代前半の若造の頃の顔です。この頃が最もエネルギッシュで、これから俺はやりたいことを思い切りやって生きるぞと想っていた頃でした。旅がしたかった。旅をしました。

それから、10年余り経ち、私にファイナルコールが鳴りました。37歳のときでした。身体が墓に半分埋もれて、これはもう生きているのか、どうか、最後の最後のような姿・・・・そう、沖縄宮古のシャーマンに伝えられました。

私が宮古島へ行ったのは、1997年でした。その話は「宮古島のシャーマン」で書いてあります。

今から15年前のそのとき、シャーマンに会った第一声が「あれ、あんたもっと若いかと思ったよ。髭は生やしているけど、そうか、あんたが一番自信があった頃の姿で来たんだねえ」

でも、若かったけど、暗い青年でした。どう、どこへ向かったらいいのか解らなかった。自分のやるべきことが解らず迷いながら、おれはダメだと。

若くてエネルギーもあって、でも、自信がなく、でも、何かしたい、しなければと焦って生きていました。

そして、ファイナルコール。宮古島体験。死んでいた仲間が遠くで笑っていた。手招きもするけど、まだ、行けない、行くわけにはいかない! そう叫びました。

また、それから、15年過ぎ、これを書いている。生き、生かしてもらっている。生き生かしです。

いつもおもうのが、ほんとうに思うことを云おう書こうと思いながら、それに近づかないもどかしさです。こころと戦うが、勝てない、出来ないの、もどかしさです。なんで書けないのだろうか。

どうしても、自分の本音の底に、書くことが行き着かないのです。何万べんも書いていても、未だ、行き着かない。

書けたと思ったことが無い。

だから仕事のほうが楽です、というか、まったく違う。これこれこうしてという注文には応じられても、オーダーのないものには、書けない。答えがない。

それが昨日書いた、孤独の話です。

だから、今日も、書きました。

でも、明日書くかはわからない。


許しの島の問い

2010年02月27日 12時33分48秒 | 宮古島のシャーマン
       大神島から見た雲霞の宮古島

昨日の「許しの島」というエッセイは、8年前に書いたものですが、なぜ、沖縄に想いを寄せるのか。

日本列島の南西海域に、沖縄諸島が連なっています。台湾の先から流れ込む黒潮が、その沖縄の島々を洗いながら、北東へ流れます。黒潮は奄美大島あたりで二手に分かれて、太平洋側と日本海側へ流れ込んでいます。黒潮は海の道です。平均時速2ノット(約4キロ)の流れがあります。これに乗れば、黙っていても日本へ流れ着きます。また、黒潮の流れを利用して巻き上がりながら遡る航海術もあるといいます。つまり、沖縄と日本列島は黒潮という海の道で結ばれた文明圏です。古代からその繋がりがあり、私たちが想像するものよりもっと盛んに往来があったようです。

その沖縄諸島の一つ宮古島で、こんな話を聞きました。源平合戦の時代に、平家は日本各地に落ち延びましたが、そのうちの平家一門が、沖縄へ逃れたそうです。今の沖縄本島、琉球島に到着した平家は、当時の琉球氏族から追い返されました。源氏の追討を恐れたからでしょう。平家はさらに南西へ舟を出し、宮古島へ流れ着きました。その宮古島が平家の最終地となりました。また、源氏も執念深く宮古島まで平家を追ったといいます。平家も、もう逃げる気力がありません。

さて、そこでどうなったでしょう。源氏は平家を討ったのか。いえ、宮古島で和合したのです。宮古島は「神高い島」といわれます。宮古の神が、大和の争いを治めさせたというのが神話です。当時の宮古氏族が、神カカリャの神託を伝えたのだと思います。「ここを互いの古里とおもえばいいさあ」と。たとえ平家を討ったところで、源氏ももう大和へ帰る力もないのですから。だから、宮古島が平家の最も遠い落人村となりました。源氏も島民になって暮らしました。

その平家の末裔の村だといわれるのが、池間島の手前の古い石門が残る狩俣集落です。では、源氏の集落はどこか。今の東急リゾートがある与那覇あたりだといいます。島の南と北に分かれて住み別けたようです。源氏と平家の和合の島。「許しの島」をもっとも象徴するのが、宮古島なのです。
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『ソウルボート』読者の皆様へ

私は13年前の2月に沖縄本島へ行き、3月に初めて宮古島へ行きました。そこには目には見えないふしぎな導きがありました。第一作『ソウルボート』を書いた頃は、宮古島の源平の話は全く知りませんでした。こんな歴史があってのことだったのかと、今は思います。実は私の田舎、広島の石内という地域は源氏と平家の山城跡があり、源平が対峙した歴史があります。源範頼を祀った私の本家は源氏方でした。しかし、石内は平家ゆかりの宮島の神領地でもありました。つまり、源平合戦の濃厚な土地ということです。その土地の末裔である自分が、宮古島へ導かれた。宮古のシャーマンにも、「あんたは宮古を第二の古里と思うさ」といわれました。後に歴史の因縁を知り、その通りでした。源平和合の島へ、末裔が導かれたと。かように、魂の旅路はふしぎなものだと思うのです。ソウルボートのパート2では、そうした歴史の謎から紐解いた物語、現代版「源平絵巻」を上梓したいと思っています。


ユタは共感者

2009年06月30日 13時21分21秒 | 宮古島のシャーマン
6月28日の日曜日の夜、民放テレビで沖縄のユタ(沖縄全体でのシャーマンの呼称)をテーマとした番組をやっていました。たまたま観たのですが、なんと、宮古島の神カカリャ、Nさんが登場していました。1年前にお会いしたときより、少しお痩せになっていました。でも、お元気そうでなによりと思いました。

その番組は、まじめに沖縄のシャーマンについて取り上げていたので、安心して観ることができました。沖縄の精神科医にまでインタビューして、その医師が、「ユタというのは、相談者との感応が優れているのです。悩む者は、共感で癒されます。私たち精神科のカウンセリングと共通しています」と語っていました。的を射た発言でした。しかし医師としてのテレビ発言は、そのくらいが限界なのでしょう。科学者である医師が、神との交信うんぬんを語ることはできません。神とは科学的に何であるのか、証明しようがありませんから。番組で医師に登場してもらったのは、オカルト色を払拭するためのバランス調整ですね。

いずれにせよ、信じる信じないは個人の問題です。あの番組をご覧になった方は、どんな感想を持たれたでしょうか。目には見えないけど、そういう世界もあるのかな? と、少し心を開かれたでしょうか。しかし、体験こそが一番の学びですね。気になる方は、沖縄への旅もいいのでは? あちらでは全員とはいいませんが、ごく当たり前に、ユタの世界を信じている人がたくさんいますよ。


宮古島のシャーマン7

2009年05月20日 14時38分23秒 | 宮古島のシャーマン
ここからは、宮古島のシャーマン1まで、
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1997年春に初めて宮古島を訪れて、カンカカリャNさんに会って以来、これまでの12年間で10回ほど島へ足を運んだ。毎回、相談をしに行ったのかといえば、そうでもない。宮古島がすっかり気に入って、毎年のように行きたくなるのだ。行けば、挨拶がてらNさんの家に顔を出して、最近では雑談まじりの話を聞いて来るといった感じである。

とはいえ、当初は先祖事で相談して、それを自分なりに実行してうまくいったか、次ぎに何をするべきかのアドバイスをもらっていたものだ。そのすべてが出来たわけではないが、努力はしてきた。Nさんからは、いつ行っても「こうしろ、ああしろ」といった強制的な物言いはなく、あくまでも自分次第が原則となっている。だからいつも、分からないことを聞くといった姿勢である。ご神託を得て、安心するといった感覚とは違うのだ。

かつて、Nさんは私にこう言った。
「道というのは、前にはないんだよ。自分で歩く道が、人生の道になっていくんさね。だけど、生まれる前に選んだ、自分のほんとうの道をいうのがあるんだよ。その道を歩いてね」

その言葉が、すべてのアドバイスを集約しているのだと思う。どんな道を歩くのも自由だ。しかし、歩く道をたがえるなと。その道は、自分の道かと、しっかり自分に問えば、自ずと答えは出るものだ。ただ、邪念・雑念が入り交じるから道が見えにくくなる。そんなときにヒント・アドバイスをもらいにNさんに会う。そんな感覚だが、戒めがある。「頼るな」ということだ。Nさんが答えを出してくれるのではない。頼ると、自分のほんとうの答えが霞む。また、遠回りの道を歩むことにもなる。

道はひとつではない。さまざまな道があって、でも、誠心誠意で一生懸命に歩いていれば、辿り着くところは同じなのだろう。どの道が正しいというものでもない。迷えば、立ち止まればいい。引き返してもいい。ただ、歩んでいる自分をつまらないと思わないことだ。歩んでいることを楽しめれば最高だと思う。人ぞれぞれに、人には語りきれない思い、悩みが星の数もあるだろう。それを幸多かれとするには、感謝の念が最大の道しるべだ。自分の親、兄弟、親類、縁者、友人知人たちのすべてに向けて、感謝の気持ちを捧げ、先祖に対して「生かして頂いて ありがとう御座います」と心底思うようになれば、道は必ず開けてくる。宮古島で私は、そういうことを学ばさせてもらい、いまがあると思っている。振り返れば、そういう道が自分のうしろに続いている。目の前に、まだ道はない。
(おわり)


本日、5月20日から、旅に出ます。日本海側へ出て、新潟、富山、石川を通り、金沢から和歌山の高野山へ向かいます。ルートはそうなっていますが、私としては、白山へ赴き、そこから高野山へ向かうと感じています。もう何年も前に、四国お遍路で一周したことがあり、弘法大師空海を観じるという経験をしましたが、まだ、高野山へは行けていませんでした。遍路の納めは、高野山へのぼることで満願となると聞いておりましたから、この時期に行かせていただけるということを好機と感謝しております。この旅は、いつものように表向きは取材名目です(笑)。帰りましたら、また、旅の話をさせていただきたいと思います。


宮古島のシャーマン6

2009年05月19日 14時25分28秒 | 宮古島のシャーマン
実はNさんは、20年ほど前に、NHKのスペシャル番組「養老孟の脳の宇宙」で、取り上げられていた。なぜ、シャーマンは特殊な能力を持つのか、脳科学の立場から検証しようという内容だった。その番組でも結論はない。ただ、ご神託を述べる御声(うくい)の最中の脳波が通常と異なるといったデータ結果だけが示された。

その番組で紹介されて以来、本土からの相談が増えたようだ。カンカカリャNさんのところへ相談に来る者たちは、やはり相応の問題を抱えている。島内の人なら、ちょっとした相談もあるだろうが、私たちのように本土から訪ねる者の場合、長年にわたって悩み続けている大問題を抱えている者も多い。その悩みは人によって様々で、霊的な影響などで身体に痛みが出る人もいれば、ノイローゼ状態の人もいる。そのような人は病院通いや、ほかの霊能者を巡って、それでも原因が取り除けず、ついに宮古島までやって来たというケースもある。「ここに座っておっても、忙しいんさね。悩みを抱えた人が毎日のように来るからね」と言って、Nさんが笑みをこぼした。

本土からの相談者の場合、悩みが重いこともあり、相談時間は数時間にわたることが多い。大抵が午後2時から始まり、夕方までかかる。だから、一日の相談は、1組か2組だ。相談料という決まったものはない。村の人なら、御声だけを聞いて、はい、わかりましたと納得して、線香代として気持ち程度の謝礼を置いて帰る。一時代前は、魚や野菜の場合もあったようだ。本土からの者は、何時間もの相談だから、自分で判断して、それなりのものを包む。だが、決してNさんから、幾らだとは言わない。

カンカカリャは、金の事を口にしない。そういった神との約束があるようだ。金儲けにすると、道を外すことになるからだ。正神が離れ、その与えられた能力が消えていくことになる。カンカカリャといえども、人の子である。中には欲に負ける者もいるかも知れない。そこが正に厳しい分かれ道となるのだ。

世間には、料金看板を掲げる霊能者も多い。時間で何万円と明示する所もざらだ。儲ける気になれば、旨い商売である。心底、困った者は金で済むならと払う。だが、金を喜ぶ邪神に寄りつかれ、目前の問題は一応、解決したようでも、後で何倍返しの請求書が来ることになる。最後は身ぐるみ剥がれる結果を招く人も世の中にはいるようである。また、そういう事に手を貸した霊能者も悲惨な末路を歩むことになる。

ただし、誠心誠意で祈り願い、その感謝の顕しとして、当人に無理のない金あるいは供物を捧げるのは礼儀である。御嶽や墓でおこなわれる沖縄式の祈りでは、沖縄線香(板状の大きな線香)や、焼き紙(紙幣の代わり)を燃やして、その煙を捧げる。その煙が立ちのぼり、祈る者の心を伝える。あの世で煙がお金に替わって、先祖や縁者の霊が使うのだと、Nさんは語る。
「私もね、線香代といってお礼をもらうと、いっぱい線香を買って燃やすさね」。渡された金を自分のことに使うのが躊躇われるからだと言う。お礼は、稼ぎとは言えない。それでも生活がある。生きていくためには使わねばならない。そのギリギリの選択を常に問われているのだ。

長々と金のことを書いたのは、カンカカリャ(シャーマン)の立場というものが、どういうことなのかという一面を理解してもらいたいからである。シャーマンについて書かれたもので、金銭についての解説は少ない。それに触れてはいけないといった感覚があるのだろう。どこか、タブーにさえなっている気がする。

恐らく、有料霊能者との一線もあって、金の話に触らないとしているのかも知れない。だが、ここであえてそれを書く意味は、相談者と霊能者との接点に金が絡み、それが陰で問題となっているという事実も知っておいてもらいたいからだ。どこかの霊能者の所へ相談に行って、相手から金銭を、それも常識外な額で要求されたら「怪しい」と考えたほうがいい。市中の手相・占いの類は別として、古来のシャーマンとしての立場を堅持する者は、自分から金を要求することはないだろう。ほんものの道を歩く者は、質素な暮らしをしているものである。
(つづく)


宮古島のシャーマン5

2009年05月18日 10時38分28秒 | 宮古島のシャーマン
この私も、父と先祖や墓の事を話し合うようになったのは、自分が結婚して後のことだった。それ以前は、仕事の事で精一杯で、自分が一人前になることしか考えていなかった。しかし、家族を持つようになって、妻の実家もあり、家と家どうしの付き合いの中から、改めて家系・先祖を考えるようになった。すると、止まっていたものが動き始めたのか、不思議なことが起こり始めたのだ。

フリーライターの私に、出版社から沖縄での取材依頼が入った。沖縄の自然と風水がテーマだった。カメラマンと二人で沖縄本島へ行き、風水研究グループのフィールドワークに参加させてもらった。その中にいた1人が宮古島から来ているシャーマン研究者で、N さんの話を聞かされた。それが宮古島へ行くきっかけになったのだ。

そのシャーマン研究者は、Nさんにこう言われたそうだ。「2月25日に那覇に行きなさい。そこに導く人べき人と会うはずだから」。そう言われた研究者は、雲を掴むような気分だったという。だが、その人はNさんについてシャーマン研究をしている立場から否定はせず、言われた通りに行動し、琉球大学の研究グループと合流して、その中に私がいたというわけだ。その頃、私はそんなことはつゆ知らず。それを後で聞き、なんとも神妙な気分になった。そもそもが、私の守護霊が宮古島へ飛んで、私を導き、助けてほしいとNさんに頼んだというのだ。また、その後で私自身の霊も飛んできて、Nさんの前に現れていたという。

こういった話は、大抵がまゆつばで聞くものだ。そんな事ありえないと誰しも思うだろう。先祖探しの犬の話もそうだが、宮古島への始まりが、そんな奇異な展開からだったのである。そして、その後も、ぴるます(宮古言葉で不思議の意)体験が幾つも続いている。体験だから、細部にわたって覚えているし、時系列で並べても何の矛盾も起こらない。全部が意味的に繋がっているからだ。あるミステリ作家に、本にするための原稿を読んでもらったら、「物語の展開に矛盾はないが、これは小説なのか?」と問われたものだ。私は、その自分の体験を物語として『ソウルボート/魂の舟』(平凡社)という本にまとめたが、それはほんのさわり部分だ。だから続編があるし、生きている限り、それは今も続いている。人生とは、自分で読む気にならなければ、バラバラで意味のよくわからない物語なのである。
(つづく)


宮古島のシャーマン4

2009年05月17日 18時29分30秒 | 宮古島のシャーマン
父は広島から、私は東京からそれぞれ飛行機で宮古島へ飛び、空港で落ち合った。翌日、昼間の2時に宮古島市内にあるNさんの家へ伺った。牛買いの先祖の件もあるが、山上にある代々の墓問題を抱えていた。その山はすでに開発業者に譲渡していたから、墓を移転する問題が残っていた。これをどうしたらいいものか、その相談だった。

「墓は簡単じゃないんだよ。動かすと、みんなを起こすことになる。古い墓なら、いったい何人の先祖が眠っているかわからんでしょ」とNさん。
「土地はもう人手にわたっているから、下ろさないわけにもいかんし」と父。
「これは困った問題を抱えたもんだね」
買い戻す方法はないか考えるべきだという結論だが、何千万円もの金もない。とにかく先祖に詫びをして、何とか努力するからと祈る。先祖のことは、その子孫がやらねばならない。

私の一家が抱えた墓問題は、Nさんに祈ってもらってどうかなるといった話ではないのである。Nさんからは、アドバイスをもらうだけで、それをどうするかは自分たちに掛かっている。代々の墓は、かなり古くからのもので、墓石だけを移転して済ませるわけにはいかないようだった。適当なことでやれば、村全体へも影響が出ると言われ、頭を抱えるしかなかった。

カンカカリャへの相談は、大抵が先祖事に関わってくる。最近では、「先祖ってなんですか?」と真顔で聞き返す本土からの若者もいるとNさん。核家族化がすすみ、祖父母や親族とも余り交流がない家に育てば、そうなっても仕方がない。また、自分がどういう家系から生まれたか、その親もほとんど話すことがないのだろう。家庭内に不和がうまれ、親子関係がうまくいかないのは、そうした根っ子の繋がり感覚が途絶えているからだと思える。先祖とは、今生きている自分たちの親のまた親であり、そのひと連なりの生命の流れなのだ。世界中のどんな民族でも、宗教以前に、先祖崇拝が基本になっていることを、私たちは忘れがちではないだろうか。
(つづく)


宮古島のシャーマン3

2009年05月16日 13時00分53秒 | 宮古島のシャーマン
「あなたには、あなたが生まれてきた大きな意味があるのよ。約束した使命がある。その道を歩きなさいね」
「僕の使命、ですか?」
「そう、それを忘れているのよ」
「忘れている?」
「まず、その牛を買いに行ってゆくへ知れずとなった先祖の供養をすることから始まるさね。その先祖と約束をしてあんたが生まれて来たんだからね。その先祖の供養はあんたにしか出来んから。それをしなさい。そうしたら忘れていることも思い出すさあ」

その先祖のことは、祖母から聞かされていた。何代か前に、広島から島根へ牛を買い付けに出たまま行方不明になったという。確かに、私はその先祖が子どもの頃から気になっていて、頭にこびりついていた。だから、その話が出て、驚いたのだ。Nさんには、その先祖の姿が見えるようだった。大金を持っていたから、山賊のような者に狙われ、県北のどこかの山中で殺され、埋められていると語った。時代は江戸末期だろうか。しかし、どうやってその場所を突きとめ、供養できるというのか。途方に暮れる話だった。

「ずっと気になっていた先祖なんです。供養したいと思いますが、どうやって探せるのか・・・」
「あんたは、犬に導かれるよ」
「犬が?」
「犬が現れて、その場所を教えてくれる」

Nさんが、確かなことのように、そう言った。それを聞いた私は、ハテナと思うばかりだ。だが、事実は小説より奇なり。2年後、私は本当に山に現れた犬に導かれて、山中へ案内され、その犬が鼻で土を掘り、その場所を示したのである。そんな話、信じられますか? 体験した者でさえ、まさかの連続で、しかし、事実なのだからどうしようもない。その山へは父も同行していたから、一人の体験でもないし、写真も撮ったが、父と犬がまるで旧知の仲にように並んで写り、しかも光り輝いていた。もう、映画か漫画である。

さて、その犬が掘った土中からは、のど仏ほどの小石が出た。それを骨として80キロ離れた実家の墓へ持ち帰り、無事に供養することとなったのである。そういうことを全く信じない父も、このときばかりは流石に腰を抜かさぬばかりに驚いていたものだ。そういう体験があって、父も信じるようになり、自分も後に宮古島へ赴いて、Nさんに会って礼を述べたのであった。
(つづく)


宮古島のシャーマン2

2009年05月15日 12時19分31秒 | 宮古島のシャーマン
「私らが偉いんじゃない。神さまのおっしゃることを伝えているだけだからね」とカンカカリャのNさんが言った。私らというのは、島にいるカンカカリャのことだ。さらに沖縄諸島全体では、ユタと呼ばれるシャーマンが、数のほどは定かではないが大勢いる。また、日本各地をみても、いわゆる霊能者と呼ばれる人々も数多くいるだろう。私ら、という物言いは、そのすべてを指しているとも思えた。

とにかく、私らが偉いのではないとNさんは言う。しかし、目の前で述べられるご神託は、当事者の心中を見透かしたような内容で、恐れ入るのだ。なぜ、それが判るのだろう? どうすればいいのかと。では、どのように、そのご神託が降ろされるのか、筆者の体験から実況を解説してみたい。

畳敷きの部屋に、祭壇がしつらえられている。Nさんの場合は洋タンスを改造した手作りの祭壇だ。Nさんは50代女性で、ふくよかな笑顔だ。少し雑談を交えながら名前と住所、生年月日を聞かれる。祭壇に線香を供え、宮古方言での祈りが始まる。どこどこのなにがしが訪ねて参りましたので、と、Nさんが繋がる神へ伝えているのだ。その後、十数分も祈りが続き、それから声の調子が変わった。同じく宮古方言で、旋律にのせた民謡のようなものだ。これは「御声(うくい)」と呼ばれ、神からの言葉を受け止めて、リズムにのせて伝え聞かせている。島民ならば、その御声を聞けば神託の意味が解るが、島外の者にはさっぱりである。島民はそれを聞いて納得して帰るという。

私の場合は、この御声が45分も続いた(取材用テープ録音で記録)。長い部類のようだ。声が止まり、「事故で亡くなった友人がいるでしょ。どこか暗闇に突っ込んでいくのが見えるけど」と言われた。まさしく、青年時代の無二の親友が夜中に造成地に止めてあったダンプに車で突っ込んで亡くなっていた。その彼が寂しがって会って話したがっているという。それから、「先祖で行方不明で亡くなった方がいらっしゃるでしょ?」と。これもまさしく、何代か前にそういう先祖がいて、祖母から話を聞いて気になっていた先祖だった。そのほかにも、あれこれと心中を貫かれるような話が出て、それらが、ひとつの物語のように繋がっていった。戸惑いから、これは冗談話ではないと思い至った。

実は私は、子どもの頃から不思議な体験があり、そういう話を聞いても余り驚かないのだ。妹の事故を予知したり、誰だか知らない声が聞こえたり、自分も霊媒体質があるのか、そういう事がたまにある。ゆえに、かえって用心深いところがあり、心眼を問うのだ。また、長年の雑誌記者経験から、言われるままを鵜呑みにはしない。Nさんへの眼差しもそうだった。しかし、このときは違った。ちょっと明かせない個人情報も多々あったのだ。とにかく驚くばかりだった。これは本物だぞ、というのが私の実感だった。約4時間にわたって、私の個人相談が続いたのである。
(つづく)


宮古島のシャーマン1

2009年05月14日 20時58分14秒 | 宮古島のシャーマン
宮古島は沖縄本島から南西へ約300キロ離れた離島だ。飛行機から眺めると、平たい皿を伏せたような感じの珊瑚礁の島である。ダイビングの好きな人なら馴染みのある島だろう。島民は約5万5千人。中心市街地は宮古島市(旧平良市)で、ちょっとした賑わいがあるが、港前の観光ホテルを除けば、ビルらしい高い建物は少ない。

街の中心地に、ガジュマルの大木が茂った場所があり、コンクリート製の鳥居が立っている。島の創世神、クイツノ(男神)・クイタマ(女神)を祀る「漲水(はりみず)御嶽(うたき)」と呼ばれる島の重要な聖地である。その中央にコンクリート造りの瀟洒なお社があるが、本土の神社の様相とは異なり、中には畳一枚ほどの四角い香炉台が置かれている。時折、その前に座って一心不乱に拝む女の姿がみられ、線香の煙がもくもくと立ちこめている。島内の村々にも大小さまざまな御嶽があり、部外者の立ち入りを禁ずる聖地も多い。

その御嶽が、島でカンカカリャと呼ばれるシャーマンたちの拝みの場だ。カンカカリャというのは、大和言葉に直せば、「神がかる人」といった意味である。多くは女性だが、生まれ持っての能力が備わった人が、ある時期がくると神がかる。だが、カンカカリャになるには前段階がある。ある日、いきなり高熱が出て動けない状態となったり、また、夢遊病者のようにもなって、平常の自由を奪われるという。その度合いや期間は人により異なるが、数ヶ月から数年も続く。民俗学では、これを巫女病(ふびょう)というが、その苦しさは想像を絶するといわれる。それがカンカカリャとなる扉で、「神の道を開く」と表現される。神の道を開き、カンカカリャとなり、神の使いとして生きるようになるのだ。

いつの時代からカンカカリャが誕生したのか、歴史には記録がない。島に人が住み始めたときからと考えるのが妥当だろう。幾たびとなく研究者らも訪れ、民俗学や宗教学の研究をしている。学術的には原始宗教とされるが、実際を知ると宗教と呼ぶには違和感を覚える。島の村内になくてはならない存在だが、宗教団体のような組織化された何かがあるわけではない。島内の祭りは、司(つかさ)と呼ばれる祭主と神女(しんにょ)らがおこない、カンカカリャの役とは一線を画している。

では、カンカカリャの役とは、なにか。筆者が12年前に出会った50代女性のカンカカリャNさんの言葉を借りれば、「神との通信役」だという。自宅の祭壇や御嶽に座して、神の声を聞き、それを伝える役目である。なにを伝えるのか。聞くべきことがある、縁のある人へ、その人がその時点で最も必要とされる話だ。それが、ほんの二言三言で終わる場合もあれば、延々と数時間にわたることもある。そして、それを初めて聞く者は、大方の場合、なぜ、それがわかるのだろうかと不思議な気持ちになるところから、体験が始まるのだ。
(つづく)