『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

五十路の不覚

2010年06月27日 10時33分13秒 | 航海日誌
久しぶりに深酒をして、深夜の路傍を自転車押して歩いていた。前に大丈夫だと自信過剰で乗ってひっくり返り、以来、酒を飲んだら乗らないと決めていたから少々の道のりがあってもエイコラと自転車を押す。けれどもなぜか後ろタイヤがパンクしており、ガクンガクンと真っ直ぐ進まない。と、弾んだ拍子に前のめりにつっぷして、歩道にランデブー。痛いではないか。鼻の下をもろに打ち、歯が折れていないのが幸いだが、くちびる腫れてアカカカカ。飲んだら乗るなだが、自転車の場合は、飲んだら押すなである。五十路の深夜の不覚は恥を通り越していと情けなし。こんなツラじゃ、稽古も行けぬ。でも、明日から北アルプスなんです。お山に笑ってもらいましょか。

2010年06月24日 23時59分23秒 | 航海日誌
あなたはどの道をゆくのか。
私は私の道をゆきます。
それはどんな道か。
知りません。
では知らない道をどうしてゆくことがかなうのか。
道とは私そのもののことなれば首が据わった足を道という。われ頭足ぞな。胴の話は、これ堂々めぐりと申す。

呆れ果てた禅師は竜安寺の縁側でごろんと昼寝した。とかなんとか。


最近思うこと

2010年06月23日 23時30分43秒 | 航海日誌
なぜ生きているのか、死んだらどこへいくのか・・・といったことに殆ど捕らわれないで、今、こうして息をして何かできることの良さを味わえる有り難さを生きているのだと思う。その意識の中にさまざまな感情を発露させて、やっぱ有り難いとつくづく感心するのである。

その感覚は、どこか他人事のようでもあり、外から眺めているような雰囲気もある。客観視などといった抽象化された概念でもない。どちらかといえば皮膚感覚に近いものである。薄皮をぺろんと剥がせば何もないくらいの希薄さだが、確かに生きているとはそういうことなんだろうなと感じる。

だから、有り難しなのだ。これは想像の域を超えた何かとんでもない現象の最中にいるのだ。


只今、執筆中!

2010年06月19日 13時47分01秒 | 航海日誌
            400mに達した東京ツリー


近未来小説「ドリーマー」をガンガン書いていて、今15章まで辿り着きました。書く(キーボードを打つ)のが追いつかないほどの展開で、自分で書いていて手に汗もんです。来月には完成か。その後は出版社に持ち込んで、本にしてもらう営業努力ですな。本が売れない現況で、さあ、出るか!? 物語中の主人公たちにも影ながら動いてもらいましょう。ドリーマーなら、それが出来るって? まだ読んでない方にはわからないか。ネット予約も開始しますんで皆さまヨロシクです(笑)

日本人は凄い

2010年06月15日 14時12分40秒 | 航海日誌
「はやぶさ」が小惑星イトカワまでの35億キロの宇宙の旅から地球に帰ってきましたね。直径40センチのカプセルを切り離し、自身は成層圏突入で燃え尽きていく映像がニュースで流れ、まるで花火のよう。あれぞまさしく有終の美というものですな。

月以外の星で探査機が、その組成物を採取したのは人類初。しかも度々のトラブルを克服して帰還したのです。そのシステムを構築し、成功させたプロジェクトチームは凄い。まだ、カプセルに何が採取されているか伝わっていませんが、日本の技術力の素晴らしさが証明されたビッグニュースと思います。日本は技術立国だとして世界に注目され、日本人はそれを誇りに思っていい。

天然資源の乏しい我が国は、やはり人が財産です。JAXAの研究者だけでなく、機器開発に携わった人々にも注目したい。今後、日本はさらに技術力を発揮し、世界に求められる国として発展することでしょう。それを実感させる「はやぶさ」の快挙でした。日本人って、凄い! もう間もなく、世界が驚く新技術が発表されると思いますよ。さて、それは何か。まだ内緒・・・(過去記事で何度か書いている、あの技術)


夢道

2010年06月13日 15時08分39秒 | 航海日誌
夢道(ゆめみち) 遊田玉彦

先年結婚した合気道仲間に捧ぐ、超短編として

これといって行くあてもなく、路地から路地をふたりは歩いていた。大二郎が前を行き、晴美が半歩うしろについている。歩けば妙案が浮かぶかもしれぬと、晴美が表に誘い出していた。

諦め切れない。いま辞めれば、この五年の月日がすべて水の泡となってしまうのだ。
なんでやねん・・・
大二郎がうつむき、言葉を吐いた。そのうしろから、そっと肩に手をやり、晴美が言った。
「そんなん、あんたらしくないんちゃう」
「そや」
「お師匠はんが言うてはったわ、どんなもんも、一度は通る道やて」
「わかっとるわい」
「そ、なら、辞めたらええ」
止めてくれると思っていたのが逆のことを言われ、大二郎はたじろいだ。が、表情を悟られまいと、ぷいと前を向いた。
古家が並ぶ狭い路地に立ち止まっていたふたりが、ゆっくり歩きだす。
先の角を折れると大屋根をそびえ立たせた寺があり、山門を過ぎてもしばらく土壁が続いている。壁の割れ目から茎を伸ばしたタンポポが花を咲かせているのを見つけた晴美がその場にしゃがんで、つぶやいた。
「夢いうの、ふた通りあるんやわ」
「なにが」
「絵に描いた餅がひとつ。そいから、絵に描かんで突く餅がひとつ」
「なんや、わいの夢は餅かいな」
「うちなら、ふっくらした餅食べたいわ」
小花に目を向けたまま晴美が言うと、寺から夕刻の鐘が鳴り出した。
大二郎の背筋がピシッと伸び、同時に頭の奥で声が響いた。
――好きな道を歩めよ
祖父の声のような気がして、ハッとした。今朝方、無言で立つ祖父の夢をみていた。
「・・・突いたる」
「思い切りやったらええねんよ」
「おまえも餅つきの拍子、上手に取ってくれ」
そう言って、大二郎がカラカラと笑った。
ふたりの背越しに大八車が走り抜け、一陣の風を巻き上げた。風に押されるようにして、また歩きだす。半年前から暮らし始めた長屋まで、もう、さほどの距離ではない。日輪がふたりの背を赤く染めている。


星の夢

2010年06月11日 14時24分39秒 | 航海日誌
           探査機「はやぶさ」JAXA資料画像より

7年間の宇宙の旅から探査機「はやぶさ」が間もなく地球に戻ってくるそうですね。ミッションは、小惑星イトカワ(直径500m)に着陸して、砂石を採取するというもの。これは人類初の試みでした。ところが、小惑星着陸時に機体が傾くという事故が起こり、それでも離陸を果たして、地球帰還の途に着きました。

何億キロもの長い宇宙の旅です。惑星間旅行といっても人間は乗ってません。コンピューターが探査機をコントロールしながら、複雑なシステムを動かし、自律で惑星間を進んでいます。そこでまたもやトラブル発生。推進動力は人類初の動力「イオン・エンジン」で、これが止まってしまい、太陽電池パネルが制御できなくなって太陽に向けて充電できず、やがてエネルギー切れ。宇宙で行方不明となり、地球の管制基地JAXAで見守る人々は万事休す。

宇宙の迷い子となった「はやぶさ」は何処へ? 広大無辺の宇宙で消えた探査機が見つかった例はない。それでも毎日モニターで探し続けました。二ヶ月後、奇跡的な発見がありました。-50で凍り付いた「はやぶさ」がいました。しかし、どうやって蘇らせることができるのか。4つあるイオン・エンジンの噴射口はどれも機能しない。そのエンジンを開発したエンジニアが、万が一の予備システムを仕掛けていました。地上実験もしていなかった裏技。それを試すしか、残された方法はなかった。すると・・・一機のエンジンが動いた。またもやの奇跡でした。

「あきらめない」それが奇跡に繋がったと言います。何度も、もうダメだとなってあきらめていたら、チーム全員の熱意が冷めていっただろうと、プロジェクトリーダーは語っています。奇跡は、奇跡的であって、的の中にはチームの知恵と熱意でもっての前進があったのでした。最後は精神力です。それが宇宙にいる「はやぶさ」に伝わった。すごいと思います。

その「はやぶさ」が地球に帰ってきて、軌道に乗っています。明後日6月13日、オーストラリアの砂漠地に、小惑星の星のカケラをカプセルに詰めて落とし、探査機本体は大気圏で燃え尽きて消えるそうです。人類初の小惑星探査を果たした「はやぶさ」は、すでに人格をもっているかのようにさえ感じる人々も多い。いつまでも忘れないと5歳の少女が手紙に書き、JAXAに送ったそうです。きっと「はやぶさ」も、それに応えて、カプセルの中に「星の夢」を詰めているはずです。何億キロの彼方から届けた地球人へのプレゼントです。


近未来小説

2010年06月09日 09時12分49秒 | 航海日誌
以前、お伝えした私の小説「ドリーマー」は現在、13章となり、いよいよ大詰めを迎えました。主人公の洋介がマインドコントロール下にあり、これからどうなるのか。書いている私自身がハラハラもの(笑)。書く先がまだない、進行中の小説は、筆者自身が最初の読み手です。

この小説は、私たちが望まない社会とはどんなものなのか、また、なぜそうなっていくのか、それは社会の実相を知らない「無知」からもたらせられるのだということをテーマにしています。が、そこはエンターテインメント小説ですから、予測できないストーリー展開で引き付けられる内容と自負しています。書いている筆者がおもしろいのですから、読者もきっとおもしろいと思います。乞うご期待! なのですが、まだ版元が決まったわけではないので、書店に並ぶ予定は未定。某文学賞を狙っていますので、もしも受賞すれば本屋さんに山積みか。その節は、ぜひお手に取ってみてください。


あすなろ物語

2010年06月06日 18時27分29秒 | 航海日誌
今度こそは明日こそは、と悩み、今日を生きているという現状が、誰にもあるものです。どんなことにも100%の完璧はありませんから、ジャッジする自分が、失敗度合いを決めて、こんなんじゃダメだとなります。

これを、あすなろ物語と申します。明るい夢や希望を明日に託すのは素晴らしいことですが、それと、あすなろ物語は違うようです。明日こそは、今日よりマシになるだろう、か、と悩んでいる状態ですね。で、またまた明日なろ物語の続きを演じるのですから、明日になれば、また明日となったで、やれやれ(笑)

そのあすなろ物語をやめて、今日なる物語にすれはどうなるでしょう。今日なっている物語。今、生きているということは肉体を持たない長い魂の旅の道程の中で「稀なること」と知れば、すでに幸福の最中にいるのだとなります。しかし・・・そうは思えないのが人間。思えるのも人間。そこにほんとうの自由が潜んでいます。今日なっている物語とは、今、生きている状態そのものすべて。生きていることの有り難や感覚のことです。


人生という道

2010年06月05日 19時47分40秒 | 航海日誌
道という文字について考えてみたい。まず、しんにょうに、首を据えているこの字体。しんにょうには、行ったり来たりの足の意味が含まれている。そこに首が乗っているのだから、人が歩いている情景だろう。どんな道を歩くか。これはみな人それぞれ。思い思いの道を大いに歩こう。

さて、大いにどう歩くか。物理学者の寺田寅彦先生は、「科学者の頭」という随筆で、「科学者は頭がよくなければならない」という反面で、「頭が悪くなくてはならない」とも書いている。たいていの人が、そんなもんだろうと思い気にも留めないようなことにも簡単に理解を示さず、よくわからないがどういうことかといった頭の悪さが必要だというのだ。

なるほど。小生の頭の良さはしょぼいもんだが、悪さは結構なものと思うから、半分救われたような気分だ。これはまあ、生まれ持ってのものだろうから、その頭を足に乗せて、思う存分、道なり、歩いていきたい。


新首相・菅直人さんへ

2010年06月04日 20時03分52秒 | 航海日誌
菅直人さんが首相に決定。そこで私が思うのは、菅家(すがけ)である。菅さんが直系かどうか知らないが、菅家は菅原道真の系統である。道真さんといえば、藤原氏の陰謀(といわれる)で左大臣の職を追われ、九州太宰府へ左遷された。当時の唯一の官道、山陽道を従者たちとトボトボ歩き、安芸国・石内(宮島の手前の地)で休んだと伝承が残っている。仏法を役職とする従者の六部が背負っていた仏像が、ここの地に下りると申したとかどうとか。道真さんが、では六部よ、ここに仏さまと一緒に残りなさいといい、その子孫が今も石内には住んでいる。これは私の田舎の話である。

さて、菅さんは今後どうなるか。菅原道真さんの道を辿るか。多勢に無勢を乗り越えて、成果をみせてください。われら末裔も天神さま祈っておこう。


旧鳩山邸

2010年06月03日 16時31分12秒 | 航海日誌
今日の昼間のこと。所要で目白を自転車で走っていると、道向こうが音羽の森で、木々がこんもり青々だ。トトロが棲んでいそうな大きな森。あれ、どこかで見たような門があって、そこは旧鳩山邸だった。年配のご婦人方がぞろぞろ。今、話題の見学ツアーらしい。

「ツアーは1ヶ月前に予約していたのに、お辞めになるなんて残念だわ」というご婦人の声は、今朝のニュースで映った旧鳩山邸でのインタビュー。たまたま通りかかったのだが、本当に見学者が大勢いた。

鳩山首相は幼少のころ、その音羽の森のお屋敷で育った。トトロの森にも見え、東京離れをしていて自然景観が素晴らしい。そこでさぞや純真無垢な心を育んだのだろうと想像する。それから数十年、大人になった鳩山首相は政治舞台の矢面に立ち、今、何を想うのか。太平洋の向こうから巨大な目玉を光らせる白壁妖怪どもとの闘いは、まだ終わっていない。日本流戦術は、負けて勝つ。戦後ずっとそうだったように、これからも、これに尽きる。


誰とは誰か

2010年06月02日 11時25分39秒 | 航海日誌
今日、鳩山総理が辞任表明した。普天間問題と政治と金の問題などなど、民主党支持率低下が辞任の理由。ここで政治論をぶつつもりはない。ただ、一言だけ書いておきたいことがある。

NHK報道番組で地方の人々の声として、広島の街頭で20代の女性にマイクが向けられ、そのコメントが「結局、誰が総理大臣になっても変わらない気がします」と答えていた。その言葉を、どう受け止めるか。必ず、誰かが、いつもそういう。「誰がなっても・・・」と。その意味を考えてみたい。

そう語る人間の気持ちは、「期待したのに、やっぱり、いつものとおりなんだ」だろう。「だったら、次もまた同じだろう、これまでのように」だ。これは諦めの言葉に他ならない。しかし、発言者が気がついていないことがある。「誰」とは誰なのか。誰でも総理になれるわけではない。この国でいえば、1億人に1人が総理になるのだ。国民の代表者だ。国民は国が健やかで豊かであってほしいと願い、それを代表して政治を司るのが代表者たる総理大臣だ。

つまり、1億人に1人の誰かが総理を務め、それが代表者であれば、誰とは、自分もそこに含まれていることに気がついていない。「誰がなっても」ならば、あなたがなってもということになり、日本国民は全員が無力で無能で役職を果たせないのだとなる。「誰が」などと他人事の発言を、わかったような顔をしてしゃべるのは恥ずかしいとこなのだ。

もう一言。誰がなっても、なぜ、幸せな国にならないのか。そうならないということは、誰は誰に対して戦っているのか、という見えない部分の存在が不明だ。誰は誰に対峙しているのか? 魑魅魍魎か。誰の先にいる、かもしれない、誰かを見つけてやろうとは思わないか。それが見えなければ、誰がなっても同じことだろう。だが、これは複雑で奇々怪々な国際政治論になるかもしれない。


なつかしき日々

2010年06月01日 23時14分15秒 | 航海日誌
いま生きていて、いろいろの事がある毎日が、面白くも、また面倒臭くも、辛くも、悲しくも、馬鹿馬鹿しくも、また楽しくも、繰り返し繰り返し、もううんざりだと思ってみても、どうにもこうにも、生きている。それが、ああ、なつかしいと思うときこそが、人生の有り難みを感じるときだろう。いま、そう思えれば幸きらたらん。