扇子と手拭い

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右朝が生きていたら、落語界の地図は変わっていた

2016-11-16 22:49:42 | 落語
立川談四楼がツイッターで、つぶやいた。
▼五街道雲助師に紫綬褒章。このニュースには驚いたが、当人も驚いたらしい。でもじわじわ納得の受章だね。マスコミを始めとする他の仕事に色目を使わず、人情噺や怪談噺に打ち込んできた。それをちゃんと見届け評価する人がいたということだろう。何しろ若き日に三遊亭円朝になると宣言した人だからね。

▼右朝が生きていたら。落語家は詮無い話をする。博覧強記にしてオールラウンダー、落語界の地図は変わっていただろうという話だ。談志が立川流を作る時、志ん朝師の弟子であることを承知で誘った逸話はあまり知られてないが、実力を示す一端だろう。もしかすると雲助師の受章も少し遅れたかもしれない。

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 「右朝」と聞いてピンと来る人は、余程の落語通だ。おそらく1000人いて、数人しか
「古今亭右朝」を知らないだろう。談四楼が「右朝が生きていたら、落語界の地図は変わっていただろう」というぐらいの逸材だ。

 昭和の名人、志ん朝が「自分の後を継ぐのは右朝のほかにない」言うほど惚れ込んだ男だ。とにかく「うまい」、の一言だ。歯切れが良くて、聴いていて、実に心地いい。

 ところが肺癌に侵され、2001年4月29日、この世を去った。52歳だった。同じ年の10月1日に師匠、志ん朝が後を追った。

8回目を迎えたつくも寄席

2016-11-16 01:39:42 | 落語
落語アーカイブ 2014年3月

▼「満室」の表示に力む
 早いもので「つくも寄席」も今回で8回目を迎えた。いつものように昼席、夜席の二部構成。3人で計8席を披露した。春分の日の21日は土曜日を挟んだ3連休の初日とあって、ホテルの入り口には「満室」の表示があった。この日の泊り客は96室でざっと300人と聞き、肩に少し力が入った。

 東京駅前から私たちの宿、サンライズ九十九里まで普段はバスで1時間半だが、この日は行き帰りとも2時間かかった。東京周辺の高速道路が、行楽の車でごった返していたのである。

▼快諾はサンライズのみ
 バスは30分遅れでサンライズ正面に到着。いつものように支配人が出迎えてくれた。支配人との付き合いも4年になる。20カ所を超えるホテル、旅館に無料落語会を売り込み、快諾してくれたのはサンライズただ1か所だった。

 落語の稽古を付けてもらった桂文治(当時、平治)師匠が、「落語上達の早道は、高座に上がること」と言った。そう言われても、名もない者に出演依頼など来るわけがない。

▼至れり尽くせりの協力
 「来ないなら、こちらから売り込むしかない」と、片っ端から伊豆や箱根、房総のホテル、旅館に電話攻勢をかけた。1か所に1時間以上かけて説明に努めた。そこで出会ったのがサンライズの支配人だった。「分かりました。ウチでやってください」。「つくも寄席」の誕生である。

 1泊2日のホテル代を払っただけの私たちに、支配人は立派なカンファレンスルームを無料で提供してくれた。その後、高座用の座布団、金屏風まで用意してくれた。ポスターや掲示用の案内も整えてくれた。至れり尽くせりの協力に感謝するのみだ。そんなことから、「つくも寄席」には格別な思い入れがある。

▼豪華な食事に満腹
 昼席は家族連れが多かったので急きょ、演目を変更。あたくしが「時そば」で開口一番を務めた。次いでAが「親の顔」を、Bが「太鼓腹」。あたくしの「宿屋の富」でひとまず幕を閉じた。夕食は午後6時からホテル2階のレストランでとった。

 貝のこのわたの「先付け」に始まり、マグロ、カンパチ、甘エビの「造り」、「焼肴」、「紙鍋」、ローストポーク、ぶぐ天揚げなど「天ぷら盛り合わせ」と、最後の「水菓子」(デザート)に至るまで次から次へと続いた。11品のフルコース。われわれだけが特別なのではない。

 周りの家族連れやグループ客も「荒波コース」はみんな同じ料理である。マグロの刺身は厚さ約1・5センチ。料理が“売り”というだけあって、流石である。3人とも食べきれず、申し訳ないが残してしまった。

▼盛り上がった打ち上げ
 夜席はあたくしが「粗忽長屋」を、Aが「初音の鼓」、そしてBが「うどん屋」を披露。最後にあたくしの「蛙茶番」でお開きとなった。時計の針は午後9時18分を指していた。小さな子供連れは早めに帰ったが、大人の客は最後まで熱心に聴いてくれた。

 夕食では夜席があるので飲まなかった。部屋に戻り、自動販売機の缶ビールで細やかな打ち上げをした。話が盛り上がり、3人が床に就いたのは午前1時を過ぎていた。