母の施設入所のことばかり考えている私であるが、気分転換に天理時報紙を読んだ。
天理時報は天理教の発行している新聞だ。
私は、信仰しているのではないが、今は亡き叔母(母の妹)が信仰していたので、その影響で、今でも新聞だけは購読している。
今日読んだ天理時報の裏表紙には、宗教紙とは思えないほどの文学的高度な記事があった。
それが、タイトルにした「和歌と初恋」である。
少し引用してみる。
『古今和歌集』の
木のまより漏りくる月のかげ見れば心づくしの秋はきにけり
こんな歌を読むと、ああ、作者はきっと恋をしていたんだろうなと思う。それも初恋、はじめて人を好きになったときの切ない気持ち。恋わずらいってやつだ。「心づくし」とは物思いのこと。でも、言葉の正確な意味は知らなくても、直感的に通じるものがある。31字の歌を通して、千年以上も昔の誰かさんと現代の私たちの気持ちが通い合うという不思議。
うちしめりあやめぞかおるほととぎす啼くやさつきの雨の夕ぐれ
こちらは、さらに時代が新しくなって、『新古今和歌集』に収められた歌。作者は藤原良経(よしつね)、摂政太政大臣にまでなった偉い人らしい。でも歌は全然偉そうにしていない。理屈っぽくないというか、難しい言葉をつかわずに、こんな高級な境地が表現できるんだ、と感心させられる。感受性の豊かな人だったのだろう。匂い、音、空気・・・・五感や肌に触れるものをこまやかに、心地よい調べにのせて詠んでいて、しかも窮屈な感じがしない。
この歌にも、やはり恋の気分が感じられる。ここからは少しこじつけめいてくる。恋をすると、たとえば感覚のきめが細かくなる。漏れ来る月の光が、いつもとは違って見えたり、色づく木の葉の一枚一枚が、高感度カメラで撮影したみたいに鮮明に見えたりする。感情も豊かになる。あるいは不安定になる。動きやすくなる。雨のなかに花が香っただけで心がざわつく。鳥の鳴き声に涙がこぼれそうになる。そういう繊細な感覚や感情を表現することに、和歌は長けている。短歌という器、形式が呼び出すものなのかもしれない。
う~ん、なかなかの名文だ。この文章を書いたのは、作家、
片山恭一氏。
かくまでの文章書ける人はたれ作家片山恭一なりき biko
『
世界の中心で、愛を叫ぶ』を書いた作家なのだそう。
この新聞には、盲聾の東大教授、福島智さんのエッセー集『ことばは光り』の紹介もあった。
盲聾の福島智氏難聴のわれの光りと仰ぐ人なり biko
また人生相談欄には、「軽度難聴で仕事の電話対応が怖い」という相談も載っていた。
聴覚障害という障害は、軽度だから問題が少ないとかでは決してない。
その段階段階に応じた悩みが発生するのが聴覚障害という障害の特徴かもしれない。
私も若い頃、銀行勤めしたが、何が恐ろしいといって電話応対に勝るものはなかった。
聞き間違って、相手が不快そうな声になると、命が縮んだものだった。
難聴は何級からが困るとかなくてそれぞれ困るが違ふ biko