神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

テレビをつけると、「高知」「高知」という文字が躍っていたが

2016年06月27日 15時08分41秒 | ニュース
太平洋に面して心意気こそ高いが、実際はこれっといった産業もなく、自慢できるのは長寿くらいかと思っているところへ、今日はテレビ画面に「高知」「高知」と高知が踊る。

いったいなんだっと思って画面に目をやると何のことはない。高知東生というタレント、だった?人が覚醒剤で捕まったという芸能ニュースであった。

彼の奥さんは高島礼子という売れっ子女優さんらしいが、彼はそれと比較すると格違いというくらい売れていない男優であった、と思う。

が、夫婦仲というものは見た目や収入の多寡によって決まるものではないと思うから、彼には人にはわからぬ美点があるのだろうと想像していた。

かてて加えて、最近小耳に挟んだニュースでは、奥さんの高島礼子さんのお父様かを介護するため、俳優業を廃業したとも。

へ~今時りっぱな心がけだと感心したりしていた。

が、このニュースである。

がっかりである。

高知さん、貧乏県ではあっても、誇り高い県民性の高知を冠して芸名にするくらいなら、もっと誇れることで「高知」の名を出してください。

こんな恥ずかしいことで、テレビ画面に「高知」「高知」という文字を踊らされると高知県出身の私は顔から火が出ます。

聞くところによると、高知さんは芸名の名前の「東急」は東急電鉄からクレームがついて「東生」と換えられた経緯があるというじゃありませんか。

いっそのこと、芸名の姓の部分も、「高知」を取り下げていただけませんでしょうか?

一高知県出身者からのお願いでございます。

  ふるさとの”高知”冠する人のゐてその人のため”高知”穢れる  biko

ランタナとパンダスミレ

2016年06月27日 09時10分57秒 | 精神医療
鬱病、そしてその後の精神薬による副作用、後遺症、離脱症状の地獄にいた頃に、それまで世話をしていたお花は全部枯らしてしまった。

いや、枯らす前に能勢町の我が家の物置のある山に持っていったから、放棄したのだった。

それからは、季節ごとのお花を植えていなかった。

が、今年の3月に生協に入ってから、注文書でお花の苗、野菜の苗も注文できるようになったので、ぼちぼち注文をしている。

上の写真はオレンジランタナ。

鬱病になる前は、和歌山から苗を取り寄せて、赤、オレンジ、黄色、白と様々なランタナを植えて楽しんでいた。

が、先月注文したのは、オレンジ色だけ。

下の写真は、パンダスミレというスミレ。

また小さいが、これからどんどん大きくなって、雨の日を楽しませてくれるだろう。



鬱病になる前は、毎年梅雨時になると、雨に合う紫色や白いロべりアを植えて楽しんだものであった。

↓こちらは、鬱病の間ほったらかしにしていたゼラニウム。


駐車場の車の後ろに置いてあるプランターの手前にピンク、向こう側に赤い花が勝手に咲いてくれる。

普段は車に隠れているが、夫が車で出かけている間だけ眺めることができる(笑)。

今こうして心の平安を取り戻して、いかに心の健康を保つことが大事かということを知った。

  ランタナもパンダスミレも夏のはな夏には夏の花を楽しむ  biko

  忘れゐしプランターより初夏(はつなつ)に思ひ出してと咲くゼラニウム  biko

善意であっても、そうは受け止めてもらえないことは世の中に多い

2016年06月27日 04時51分50秒 | 私の意見
善意で発したものであっても、そう受け止めてもらえないことは世の中には多い。

いや、それだけではなく、悪意は微塵もなかったことが悪意あったかのように思われてしまうこともある。

そういうふうに誤解されることはこの世に多い。だから、いちいち気に病むことはない。

それより気をつけるべきことは、人の好意に疑いの目を向けたりしないで、素直に受け取ること。

悪意があるのではないかとか、どういう下心があるのかとか考えないことだ。

それは、そういうふうに思われる体験をして、悲しい思いをして、初めて分かることだ。

人から誤解を受けることも、悪いばかりではない。

誤解された人の辛さ、悲しさを理解してあげることができるようになるから、

人生には、無駄はひとつもないと思う。

  この世には誤解は五万とあることの誤解されても誤解はすまじ  biko

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ブログの楽しみは、自分の身辺のことを書くことにもあるが、それ以上に人との交流にある。私のようなな聴覚障害者には特に・・・。

が、その交流も、しばしば誤解という弊害に塞がれるときがある。そういうときは、また新たな道を探すのだ。気持ちを切り替えて新たな道を歩いていれば、元の道の弊害もいつのまにやら消えているかもしれない。