おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その3。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-07 21:00:43 | 日光千人同心街道

                        「足袋蔵」。
                     奥にも連なっています。




(10:34)交差点の角には「旧忍貯金銀行」。
 市中心部に位置する鉄筋コンクリート造2階建ての本格的銀行建築です。忍貯金銀行の店舗として昭和9年(1934)に竣工しましたが、戦時中に行田足袋元売販売株式会社が建物を買収しました。戦後足袋会館(足袋組合の会館)となり、昭和44年(1969)から武蔵野銀行行田支店となっています。県内でも数少ない戦前の銀行建築であり、足袋産業とも深く関わる行田を代表する近代化遺産です。

高札場跡」碑。

 この付近には「旧 牧野本店店舗」や「足袋博物館」がありますが、省略。

交差点を右折して街道を進みます。

 随所に城下町らしく工夫された解説板やブロンズ像が信号機器などを隠すように設置されています。
 


忍城新城下町「浮き城のまち・行田」
 忍城御三階櫓の復元を機に、行田の市街地では城下町の香りのするまちづくりが進められてきました。
 浮き城の径、街路灯、御影石の歩道、あきんど館の建設、電線地中化、モニュメントの設置と新城下町の風情が現れました。
 忍城の城下町として栄えたこの通りは、16世紀にはもう市が立ち、にぎわいを見せていました。徳川家康をはじめとする多くの大名、文人、商人がここを行き交っていたのです。
 どうぞ皆様も楽しみながらこの街をそぞろ歩いてください。

「埼玉県信用金庫」付近が「忍宿本陣跡」。

その先に「旧山田清兵衛商店」。

                       
 十万石の本店として知られるこの黒漆喰塗りの重厚な店蔵は、元は呉服商山田清兵衛商店の店舗として明治16年(1883)に棟上げされたものです。行田では珍しい江戸様式の店蔵で、昭和27年(1952)に青柳合資会社の足袋蔵となり、昭和44年(1969)から十万石の店舗となりました。昭和53年(1978)に改修が行われ、外壁にナマコ壁が設けられています。行田を代表する店舗と言えます。       

落ち着いた街並み。景観がよく保たれています。

        
国宝金錯銘鉄剣と古代蓮のロマン
 関東最大の古墳群「さきたま風土記の丘」は日本最大の円墳である丸墓山古墳をはじめ9基が現存しています。
 特に稲荷山古墳から出土した国宝金錯銘鉄剣(古墳群内の県立さきたま資料館に展示)は、金で115文字が刻まれ、神秘的な輝きを放っています。

 2千年の時を経て自然発芽、開花した古代蓮(行田蓮)。「古代蓮の里」では7月から8月には濃いピンク色をした大きな花が古代のロマンを感じさせてくれます。


知将石田三成の水攻めにも屈せぬ 天下の浮き城
 天正18年(1590)、石田三成は軍勢2万3千を率い忍城を取り囲んだ。丸墓山の陣を張り、水攻めが良策であるとして、1週間で28キロもの水攻めの堤を完成させ、利根川・荒川から水をひいた。
 しかしながら、水攻めを行ってもなかなか落城せず、三成は、水の中に浮き上がって見える城を見て、「忍城は浮き城か」となげく。
 現在でも「石田堤」として一部が残っている。

           
 (10:47)宿場のはずれ付近にある「大長寺」の門前には芭蕉の句碑。
 
大長寺の芭蕉句碑
 この句碑は、元は桜町の小沼の池付近にあったもので「忍名所図会(おしめいしょずえ)」にも記述が見られます。区画整理の際に、ここに移されたと伝えられています。
 碑表には「古池や蛙飛こむ水の音 芭蕉翁」と句が刻まれ、碑裏には「多少庵秋瓜謹書」とあります。・・・
(「」HPより)
 なお、行田市内には芭蕉句碑が7つあるそうです。

 「日光千人同心街道」は「大長寺」の手前を左に入って行きますが、「大長寺」からそのまま「国道125号線」を進んでしまい、おかしいなと気がついて戻ります。
 約20分のロスタイム。



100㍍ほど先、右手に「行田馬車鉄道発着所跡」碑。

(11:13)その先のT字路を右に曲がると、「忍城長野口御門跡」碑。
 長野口は忍城の城下町行田の東北隅に位置し、長野口御門が設けられて、忍城の北東の守りの拠点になっていました。・・・
 その当時、長野口がある下町は愛宕神社の門前町として市が立ち、忍城開城後には遠く京都の宮津からも商人が訪れていました。忍川には船着場が設けられ、城下町行田の玄関口として人の行き来が盛んであったようです。
 江戸時代の享保13年(1728)に見沼用水が開削されるとやがて船運が盛んになり、長野口は船着場として繁栄していきます。そして幕末には、長野口には番所や高札場が設けられるほどの賑わいをみせるようになりました。
 しかしながら明治維新後に長野口御門は取り壊され、船運も鉄道の発達とともに衰退して、かつての賑わいは失われてしまいました。

                   
 
「忍川」河畔に「船着き場跡」碑。

ここで、小休止。

カラフルな秩父鉄道の電車が左手に。



1880年代のようす。街道の他は主要道なし。宿場の東北に枡形や船着き場が見える。


2010年代のようす。市街地開発が進んだが、旧道の道筋は残っている。中央に見えるのが秩父鉄道「行田市」駅。


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