◆硫黄島の戦いの司令官・栗林忠道中将の素顔とは?
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硫黄島の戦いの司令官・栗林忠道中将の素顔とは?
硫黄島に向けて艦砲射撃する米戦艦「ニューヨーク」(画像は、Wikipediaより)。
今から70年前の大東亜戦争の末期、東京都の硫黄島(いおうとう)では、日本軍2万1千人が玉砕しました。現在も、戦死者の半数である1万柱以上の遺骨が見つかっておらず、静かに眠り続けています。
硫黄島の戦いは、日本軍が地下に張り巡らせた坑道を使った持久戦により、「5日間で攻略できる」との米軍の予測を裏切り、約1カ月間続きました。その激戦を示すように、米軍はたった3日の戦闘だけで、連合軍がドイツ軍と戦ったノルマンディー上陸作戦の戦死傷者数を上回る被害を受けています。
この戦いを指揮したのが、栗林忠道(くりばやし・ただみち)中将です。栗林中将は、どのような人物だったのでしょうか。
知米派エリート軍人
栗林中将は1891年、現在の長野県長野市に生まれました。陸軍大学校を卒業した後、アメリカやカナダの駐在武官として勤務。当時の陸軍エリートは、ドイツやフランスに留学することが多かったため、栗林中将は数少ない知米派でした。アメリカでは、軍事を研究したほか、ハーバード大学やミシガン大学で聴講したり、当時、GMの最新車であった「シボレー」を乗り回したと言います。
これらを通じ、アメリカの国力を知った栗林中将は当初、対米戦争に批判的でした。しかし、アメリカから事実上の最後通牒であった「ハル・ノート」を受け、日本は対米戦争の開戦を決定。栗林中将は軍人として、それに従い、大東亜戦争の末期には、硫黄島守備隊の司令官として戦い、大いにアメリカを苦しめたのです。
「皆決死の覚悟です」
また、栗林中将の人柄が偲ばれるものとしては、家族に宛てた何枚もの手紙がのこっています。そのうち、遺言とも言える最後の手紙には、次のように書かれています。
「若し私の居る島が敵に取られたとしたら、日本内地は毎日毎夜のように空襲されるでしょうから、私達の責任は実に重大です。それで皆決死の覚悟です。私も今度こそは必死です。十中九分九厘迄(まで)は生還は期せられないと思います(中略)
最後に子供達に申しますがよく母の言付(いいつけ)を守り、父なき後母を中心によく母を助け相はげまして元気に暮らして行く様に。特に太郎には生まれ変わった様に強い逞(たくま)しい青年となって母や妹達から信頼される様になる事を偏(ひと)えに祈ります。洋子は割合しっかりしているから安心しています。お母ちゃんは気が弱い所があるから可哀想に思います。たこちゃん(※娘)は可愛がって上げる年月が短かった事が残念です。どうか身体を丈夫にして大きくなってください。では左様なら」
文面からは、自らの命と引き換えに米軍の本土爆撃と上陸を阻止する意思が、ひしひしと伝わってきます。また、家族を思いやる言葉には、栗林中将の子煩悩ぶりがよく表れています。
素晴らしい軍人であった栗林中将をはじめ、日本を守り抜こうとした英霊の名誉を回復しなければなりません。それが、300万の英霊に対する供養にもつながるのです。(山本慧)
【関連書籍】
幸福の科学出版 『沖縄戦の司令官・牛島満中将の霊言』 大川隆法著
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幸福の科学出版 『パラオ諸島ペリリュー島守備隊長 中川州男大佐の霊言』 大川隆法著
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