ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

椿山荘の石

2011-10-29 | Weblog
 東京の椿山荘(ちんざんそう)庭園に若冲の五百羅漢石像が十九体、いまもあります。なぜ江戸・東京に若冲下絵の像があるのか。このことは当ブログで書いたことがあります。「若冲五百羅漢№6」2008年12月14日<若冲連載25>
 結論をいえば、若冲五百羅漢で知られ、彼の墓がある伏見深草の石峰寺から流出した一部です。明治初期、国内の多数の寺は廃仏毀釈の大混乱のなか、たくさんの寺宝を手放したのです。若冲が晩年、精魂をつくした石峰寺も同様でした。寺の収入が絶え、上知令で寺所有地も大半が新政府に没収されてしまいました。
 石峰寺観音堂は解体され、格天井を飾ったたくさんの若冲画、そして千個をこえた石造物も過半が流出してしまったのです。現在では想像するのが困難ですが、それほど日本国中の寺を襲った廃仏毀釈の嵐はすさまじかったのです。

 石峰寺から出た若冲羅漢は明治期にその一部、十九体が藤田財閥の藤田伝三郎に渡ります。彼はまず大阪網島の屋敷庭に据えました。そして後に東京の藤田邸、椿山荘に移る。
 伝三郎の長子、藤田平太郎の妻・富子はつぎのように記しています。椿山荘には一休禅師建立という開山堂があったが、「堂のまはりは熊笹の丘で、石の羅漢佛十数体を點點と配置してある。この石の石佛は若冲の下畫と稱し、古くより大阪網島の庭園にあったのを移したのである」。富子が結婚したのは明治34年である。それよりだいぶ前から網島にあったのであろう。
 深草石峰寺を出た羅漢たちは、大阪網島を経由して東京椿山荘に安住の地をみつけたのです。若冲は未来にまさか江戸に羅漢たちが移住するとは、おそらく考えもしなかったことでしょう。ちなみに広大な椿山荘は、山縣有朋が藤田に譲った自慢の屋敷庭園です。

 京都新聞10月26日朝刊が椿山荘のことを伝えました。特集記事は車石・車道(くるまいし・くるまみち)の紹介ですが、椿山荘に鎮座する大石鉢のことも記しています。石造大水鉢「量救水」(りょうぐすい)です。この鉢はもともと旧東海道、日ノ岡峠にあったのです。旧街道の車石車道のすぐ脇、峠の南面です。
 この石鉢は、東山から湧き出るささやかな水を溜めるための水鉢だったのです。直径99センチ、高さ56センチ。かなりの重さでしょうね。そして大鉢を日ノ岡に据えたのは、木食正禅上人でした。それがいつのころからか、椿山荘の庭に四個の車石とともに並んで置かれているのです。
 かつて大津港から三条大橋まで、荷牛車通行のため旧東海道には車石がわだち幅で敷き詰められていました。距離は約12キロ、全路敷設完成は1805年。車石の総数は6万個ともいいます。しかし鉄道の開通のため車道は不用となり、明治期に車石は道路から撤去されてしまいました。
 新聞記事によると、木食上人は1736年に難所だった旧東海道、三条大橋の東方、都ホテルに近い日ノ岡峠の改修に取り組んだ。また峠にあった不衛生な井戸を改良し、快適に使えるように設置した水鉢と伝わる。上部に木食正禅の刻字がある。東京に移った係累は明らかでないが、現在の藤田観光が所有する椿山荘(東京都文京区)の庭園に、旧東海道に敷かれた車石4個とともに保存されている。
 京都の「車石・車道研究会」の調査によると、大石鉢の内側には28文字の梵字が彫られていることが判明した。研究会は「水鉢の内側に梵字を施すのは珍しく、街道関連の史跡としてさらに研究したい」
 久保孝同会副会長は「旅人が手を洗い、のどを潤した時、水面に梵字を見て真言を唱えたのであろう。今後の調査で木食上人の信仰の在り方や井戸水の浄化に苦慮したことが明らかになりそうだ」
 なおこの真言は、光明真言、正確には不空大潅頂真言だそうです。大日如来や阿弥陀如来などの五智如来に光明の放ちを祈る真言。潅頂と光に感じるものが何かある気がします。それと光明真言は全24梵字ともいいます。少し気になる字数です。

 明治上半期、廃仏毀釈の嵐のなか、寺からはたくさんの仏像、美術品や石造物などが流失しました。東京だけではありません。海外にも舶来ならず舶行しました。
 それにしても椿山荘に、このようにさまざまな石造物が集まるとは驚きです。藤田伝三郎の嗜好が選ばせたのでしょうか。こんど東京に行けば、椿山荘の庭園を散策してみよう。何か新しい発見が待っている予感がします。
<2011年10月29日 南浦>
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