1945年8月15日、長く苦しかった戦争がついに終わった。66年前のことである。
「ああ、これで空襲の心配をすることもなくなった…」。しかし天皇はどうなる? 間もなく日本を占領する連合国軍、米軍はどのような振る舞いをするのか? 婦女子たちは大丈夫か? 海外在住の仲間たちは無事に引き揚げられるのか? 出征した親や夫や兄たちは、無事に帰国復員できるのだろうか? 日本刀を振りかざす侍決死隊は、全国で対米テロを続発させるのか?
生き残った日本国民の大多数は複雑な心境ながら、内地外地の焼け野原や荒涼たる大地のなかで立ちあがった。食べなければ死ぬ。家族と自分を餓死させてはならない。日本の地で「食べ、生き抜くのだ」
京都のKさん、大正14年(1925)8月20日生まれの85歳。ふたまわりほども歳の離れたわたし以上に、お元気な人生の大先達である。
66年前のお盆を、彼は知多半島古布の河和海軍航空隊基地で迎えた。本来なら特攻隊員としてコクピットで死ぬべき運命であった。しかし数奇な運命が彼の命を残した。基地の軍医が偶然、京都の同じ町内の出身者であった。Kの両親のこともよく知っていた。
「君の体調は最悪だ。しばらくの療養を経て、基地内作業に従事する必要がある」。彼は体のどこにも異常はなかったという。敗戦の近いことを確信していたKは、戦後のあたらしい仕事のための自己訓練として、食堂調理場の勤務を希望した。手に職をつけたかった。基地の作業を見渡して、唯一役に立ちそうだったのが、調理師であったという。そして敗戦後、基地での残務処理を手伝い、翌々年の昭和22年に中京区の親宅に復員した。
京都も空襲被害を受けていた。京都女子大近くの馬町や、繊維産業の西陣、右京の三菱重工工場など。死傷者も300人を超えた。
しかし幸いなことに、京の街の中心部のほとんどは被害をまぬがれた。理由は、米軍が広島、長崎につぐ原爆投下地として京都を温存していたためという。
今年の1月から、わたしは月に1度はKさんにお会いしている。いつも彼から90年近い人生の体験を聞き、そしてメモをとっている。少年時代から米寿に近い現在まで、波乱万丈の人生を歩んでこられたKさんの足跡の語りは、哲学であり貴重な現代史の証言である。なかでも日本本土が占領されていた昭和20年から27年まで、この間のお話しを聞くと、わたしが生まれたころの時代が、鮮明な自己体験のごとくに像を結ぶ。
Kさんは復員後、京都の松竹映画撮影所に勤めた。そして伊藤大輔監督傘下の伊藤組に属す。しかしいくら一所懸命やったところで、助監督になって雑用に追われるのが精いっぱいだと思った。自分には監督になる才能はない。昭和23年には映画を見切った。
そして従業員を募集していたGHQ(連合国軍総司令部)京都司令部に勤務することにした。Kの実家は錦通西洞院、蟷螂山町。祇園祭の山鉾「蟷螂山」(とうろうやま)はユニークな機械仕掛けのカマキリで有名である。自宅からGHQ司令部が置かれた大建ビルまで、歩いて10分たらずの距離である。接収されてビルごと司令部になった大建ビルはその後、丸紅ビル、そしていまでは「COCON KARASUMA」古今烏丸ビルと名をかえている。
彼のGHQでの仕事は、地階の厨房での調理が主であった。航空基地での調理師体験、海軍の洋食コックに励んだ経験がやはり役立った。そして1階のレストランと2階のPX(米人向けスーパーマーケット・購買部)も手伝った。
また府立京都植物園は接収されてDH(デペンデントハウス)、米軍将校家族用住宅地になっていた。同地敷地内のホールでのパーティ運営をKは手伝うことになり、広大な植物園跡地のDH地区に度々通った。土曜日夜には米軍家族が集まり、またあたらしく赴任した家族の歓迎会や、転出する将校の送別会、誕生日会などなど。そして暇をもてあます奥さん方数人の集まりは、毎日のように開かれた。大きなパーティは月に3度はあった。
なおこの建物は昭和館という立派な和風建築物であった。オフィシャルクラブとして将校とその家族たち専用のホールになっていた。昭和館ホール食堂は広く、みなダンスしバンドステージもあった。ジャズで有名な中沢寿士が人気で、よくステージで演奏した。バンド「スターダスターズ」のトロンボーンプレイヤーとして東京で活躍したが、京都でも美松ダンスホールで「美松ジャズ・オーケストラ」を結成し度々、京都にも来ていた。植物園ホール食堂の運営は、Kらの大建日本人チームの担当であった。
館内のバーは都ホテルが担当し、いつも詰めていたのは服部さんと久保さんだった。色黒の久保さんは少し肥満体なので、ニックネームはコロチャン。服部さんは2008年に亡くなった。バーのカウンターはU字型、馬蹄形だったが席数は15ほど。
そして1950年に勃発した朝鮮戦争。Kさんは米軍の意向を受け、滋賀県大津市、米軍基地に近い浜大津に米兵向けのキャバレーを開く。本業のかたわら兵隊相手の両替やオートバイ修理販売業、質屋や古物商など、何でも扱う万屋業も始めた。米軍の将兵たちは、何か困ると彼に相談を持ちかけた。
米軍と接点を持ちたい日本の商人たちも同様である。ホテルを京都市内で開業したいという日本人は、Kに米兵が使用するベッドを入手するように依頼した。Kが手に入れたベッドにはすべて、「故障のため廃棄」と英語で記されていた。
米軍軍属の日系2世に、通訳のジョージ上村がいた。年齢はKより少し上だったが、ふたりは実の兄弟のように親しくなった。上村は彼にいった。「日本人の名は米兵にはなじみがなく、覚えにくい。わたしたちは兄弟同然だから、君も上村を名乗り、ファーストネームはマイクにしたらいい」
Kさんのことはこれからマイクと記す。マイクは日本人からは日系2世と錯覚され、1952年の連合国軍の占領終了まで、日本人とアメリカ人、2足のわらじを履き通す。Kの日本の実名は熊井隆一である。ジョージは、クマイをマイクに並べ替えたのである。
「米軍占領期の京都」、不定期の連載を開始します。
<2011年8月12日 南浦邦仁> この連載は何度も修正加筆します。
戦後史気になるんです。(今更ですが、、)
連載読みますね!
占領期の東京のことは資料も多く、よく知られています。
ところがほかの地、なかでも京都のことは、あまり記憶されていないようです。
明日はCOCONの京都シネマに、映画「1枚のハガキ」をみに行ってきます。
そのフロアーに、かつていたGHQの将兵たちを思いながらの戦争映画鑑賞です。
薄く思います。 各地方都市でもそうかもしれませんね。
戦争映画といえば 「父と暮らせば」 「美しい夏キリシマ」
が頭に浮かびました。黒木和雄監督の戦争レクイエム3部作のうち2本。
必死に遺そうとしてるかたがたくさんいらっしゃいますよね。
この連載も頑張ってください(プレッシャー・・・ 笑 )