乞食行、托鉢のことを前回、書きました。煩悩の塵をふるい落とし、生活の基本である衣食住について、欲望を払い捨てることが頭陀。少欲知足、吾唯足知、足るを知る域に達するため、修行の道として十二の行が定められました。釈尊の十二頭陀行は、初期の原始佛教において、弟子たちだれもが実践した修行です。<十二頭陀経>によると、
[1] 人家を離れた静かな所に住する。
[2] 常に乞食(こつじき)を行ずる。施し物のみを食し、生産活動を一切なさない。
[3] 乞食するのに家の貧富を選ばず、人家が並んでいる順に回り、食を乞う。
[4] 一日に一食。乞食は午前のみ。
[5] 食べ過ぎない。
[6] 中食(ちゅうじき昼食)以降は、飲み物もとらない。
[7] ボロで作った衣を着る。
[8] ただ三衣(さんね)のみを個人所有する。
三衣は別名・乞食衣(こつじきえ)。
端切れを繋ぎ、縫い合わせたボロ衣。
「糞掃のあらき衣をもて衣服となして、三衣よりほかにまた衣服なし」<大日本国法華経験記>
ただし「三衣一鉢」ともいいます。
三衣のほかに、食物の布施を受けるための鉢ひとつと、坐具そして水濾し器、
これらをあわせた「六物」のみの私的所有が認められていました。
[9] 墓地、死体捨て場に住する。
[10] 樹下に止まる。
[11] 空地に坐す。
[12] 常に坐し、横臥しない。
釈尊が比丘・比丘尼たちに示し課した修行は、暖衣飽食そして贅沢蓄財になれた現代日本では、まず僧侶は行い得ないでしょう。あまりに現在の世間常識から逸脱した行ばかりです。
いまの日本の佛教は、「葬式佛教」と揶揄されています。しかし十二行の内の[9]、墓地に住することだけは、実践されているように思います。なぜなら、たいていの寺には、墓地が隣接しているからです。
「所領の一所も持たずして、乞食頭陀の行をして」<保元物語>
<2010年1月9日 南浦邦仁> [204]
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