ふろむ播州山麓

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古代中国の球技 <古代球技と大化の改新 6>

2009-11-22 | Weblog
唐代では打毬といえばふつう、ポロを指す。ポロはペルシャに発祥し、東西に伝播した馬打球です。七世紀のはじめころ、西域から唐、あるいは隋に伝来した競技。唐の球技には歩打毬・騎打毬(馬打球)・驢打毬(ロバ打球)、そして踏毬(とうきく)すなわちフットボールの別があったようです。打毬競技は寒食の日に、いちばん盛んに行なわれたという。
 寒食とは、冬至から105日目にあたる日。この日には煮炊きをしないで、冷たいものを食べる。晋の介子推が山で焼け死んだ日を、後の世のひとたちが悲しんで、この日は火を用いないという。
 この行事は本来、太陽がもっとも弱る冬至に想いをいたし、家々の竈の火を消す。そして新しく、神聖な火種を翌日に起こす。太陽再生を願う、火改めの風習であろうといわれています。また大地を棒と球で叩き打ち、その豊穣の力を揺るがし目覚めさせるとも考えられます。
 また『人勝』の710年正月7日の項に、唐の中宋皇帝が打毬を観る記事があるそうです。これが正月人日・七日の年中行事として定着したものであるかどうか、専門家の意見はわかれています。

 向達氏(1957)と羅香林氏(1955)の研究によれば、馬打毬の源流はペルシアのポロであり、これが西はコンスタンチノープルへ、東はトルキスタンからチベット・インド・唐・高麗、そしてわが国ヤマトあるいは日本国へ伝来した。
 馬打毬と、中国固有の蹴鞠とは別のもの。両氏は蹴球を歩打足【足易】(テキ:足偏に易・蹴るの意味・ほだそくてき)とし、打毬は馬に乗って杖撃するものであるとする。かつ打毬が中国に伝わったのは、唐の太宗のときであるという。その証拠に封演『封氏聞見記』の打毬の条に「太宗かつて安福門に御して、侍臣にいった。西蕃(チベット)人は好んで打毬をなすと聞く。このごろまた習わせて、一度これを観んとす。さきごろ昇仙楼、群蕃街裏で打毬あり。朕をして見せしめんと欲す」。これはポロ・ポーロの馬打球です。
 また後の『金史』では「毬を撃つ。おのおの習うところの馬に乗り、鞠杖を持ち、杖の長さ数尺、その端は弓張り月のごとし。その衆を分かち二隊となし、ともに争って一毬を撃つ。まず毬場の南に雙桓を立て、板を置き、下に一穴を開いて門をつくり、網を加えて袋とし、よく奪いて鞠するをえて、撃ちて網袋に入れる者を勝ちとする。あるいはいう。両端に二門を対立させて、互いに相排撃し、おのおの門より出すをもって、勝ちとなす。毬は小さきこと拳のごとし。軽籾木をもってそのなかを空しくし、これを朱にす」

 唐以前にも、中国には実は打球・蹴球があった。古くから行われていた「歩打球」と、フットボール型の「蹴球」と、唐代から大流行したポロ「馬打球」と、この三者を区別しないがために、古代球技の解釈に混乱が起きたようです。
 唐より数百年も前の『史記』によると、漢代・衛青伝には「【踏】鞠(とうきく)す」(【踏】トウ:正しくは足偏の右に日、その下に羽。踏の正字。以下[踏]と記します)
 また衛青伝の索隠に引く蹴鞠(しゅうきく)書域説篇には「杖を以て打つ」。これは打球に違いないはずです。ただ「杖毬」とは記されていないようですが。唐代の正義の解釈によると、衛青の記したルールは「蹴鞠書に域説篇あり。すなわちいま(唐代)の打毬なり」。これは歩打球と思います。

 古くは『史記』蘇秦伝に「踏鞠せざる者なし」。紀元前の戦国期には、ボールを蹴っていた。激しく走行するフットボールです。
 『漢書』東方朔伝には、「郡国の狗馬・蹴鞠・剣客…蹴鞠の会を観…上、おおいにこれを歓楽す」。同書芸文誌・兵家条には蹴鞠流行を反映して、「蹴鞠二十五篇」が記載されているそうです。これも「ケマリ」ではなく、激しいスポーツ・フットボールでしょう。馬術と剣術に並んでの兵家の記述です。
 『西京雑記』に、「成帝、蹴鞠を好む。群臣、蹴鞠をもって体を労するは至尊のよろしくするところに非ずと為す」。体を労するとは、疾走と考えるべきです。これも激しいフットボールのはずです。
 『十節録』では、伝説上の王「黄帝」は宿敵だった蚩尤(しゆう)を倒し、「蚩尤が頭を取りて之を毬とし、眼を取りて之を射る」。『別録』では、「蹴鞠は黄帝のつくるところ、もと兵勢なり」。球を蹴って走り回るフットボールは、二千年以上前から軍事教練のひとつでした。

 六世紀の『荊楚歳時記』では「又た打毬・秋【遷】の戯を為す」。「蹴鞠」の語は中国に古くからありますが、ここでは明らかに「打毬」と記されています。
 また[秋遷](シュウセン)はブランコのことです。正確には【遷】は革偏に遷の字。ブランコも「打毬」も、これが文献上初記載です。シュウセンと日本の蚩尤のことは、次回に書こうと思っています。
 さて、騎乗打球・ポロは唐代にはじまるスポーツですが、歩打球と歩蹴球は、その数百年、あるいは千年ほどの昔から、中国では盛んだったのです。
 唐においても歩打球と歩蹴球は、馬打球盛況のなか、決して衰退はしておりません。
 蹴球(蹴鞠)表記ばかりですが以下、参考まで。王維『王右丞集』では「蹴鞠屡々過ぐ飛鳥の上、秋【遷】(ブランコ)競い出づ垂楊のうち」。李白『李太白集』には「鶏を闘わす金宮の裏、蹴鞠す遥台のほとり」。白楽天『白氏文集』で、「蹴鞠塵起らず、発火雨あらたに晴る」

 今後は、ポロ型騎乗打球を「馬打球」、棒を使う歩行打球を「歩打球」、杖を使わないフットボール型を「歩蹴球」、また本来の蹴鞠(けまり)を「ケマリ」とよびます。四者を言葉で区別しないと、混乱が起きてしまうからです。
<2009年11月22日 南浦邦仁> [187]
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