ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

貸本という文化インフラ (2) 上村松園の貸本屋

2013-12-08 | Weblog
電子雑誌「Lapiz」12月号が発売になりました。知名度はまだ低いようですが、内容はかなりのハイレベルだと思います。MAGASTOREマガストアの扱いで300円。今号では図書館特集も読み応えがありそうです。「椋鳩十と島尾敏夫」、「武雄市図書館」、「貸本という文化インフラ」。実は「貸本という文化インフラ」をわたしが執筆担当しました。編集長の了解を得て、連続5回にわたって転載します。今日は2回目。季刊e誌「Lapiz」をぜひご購読ください。以下本文。


 さて次に明治時代をみてみましょう。美人画で知られる上村松園は明治8年(1875)に京都の四条奈良物町で生まれ育ちました。父を早くに亡くし、ささやかな葉茶屋を営む母と姉と、女ばかり三人の家族でした。ちなみに葉茶屋とはお茶の葉を売る小売店で、芸妓や舞妓と遊興するお茶屋とは、まったく異なります。
 ところで四条河原町の少し北に本屋がありました。松園が愛した書肆「菊屋」です。幕末に中岡慎太郎が下宿し、坂本龍馬が愛したこの本屋の少年が峯吉。彼は龍馬と慎太郎の子分格で、ふたりが河原町通の近江屋で殺害された夜も、凶行の寸前まで峯吉は同席していました。慶応3年11月15日(1867)、奇しくも龍馬は満32歳の誕生日です。
 風邪をひいていた龍馬はシャモ鍋を食べたいと、峯吉を近所の鶏肉屋に向かわせます。『坂本龍馬関係文書第二』によると、「龍馬は峯吉を顧みて『腹が減った、峯、軍鶏を買ふて来よ』といへり。慎太郎も『俺も減った一処に喰はう。』」そして軍鶏肉を携えた峯吉が、近江屋に戻るまでのわずか半時間ほどの間の奇襲でした。
 上村松園はその後の菊屋と、若主人の峯吉のことを記しています。松園が小学校に入学した明治15年のころ、菊屋は貸本屋「菊安」と呼ばれていました。鹿野峯吉は安兵衛に改名したため菊屋の安です。またまた長い引用ですが、ここに登場する「本屋の息子」が峯吉で、当時30歳代なかばでした。表記は現代語に変更しています。

 母は読み本が好きで、河原町四条上ルの貸本屋からむかしの小説の本をかりては読んでおられたが、私はその本の中の絵をみるのが好きで、よく一冊の本を親子で見あったものでした。
 馬琴の著書など多くてーー里見八犬伝とか水滸伝とか弓張月とかの本が来ていましたが、その中でも北斎の挿絵がすきで、同じ絵を一日中眺めていたり、それを模写したりしたものでーー小学校へ入って間もないころのことですから、随分とませていた訳です。
 字体も大きく、和綴じの本で、挿絵もなかなか鮮明でしたからお手本には上々でした。
 北斎の絵は非常に動きのある力強い絵で、子供心にも、
『上手な絵やなあ』
 と思って愛好していたものです。
 貸本屋というのは大抵一週間か十日ほどで次の本と取り替えてくるものですが、その貸本屋はいたってのん気で、一度に二三十冊持って来るのですが、一ヶ月経っても三ヶ月しても取りに来ません。
 四ヶ月目に来たかと思うと、新しい本をもって来て、
『この本は面白いえ』
 と言って置いて行き、前の本を持って帰るのを忘れるという気楽とんぼでした。
 廻りに来るのは、そこの本屋の息子ですが、浄瑠璃にたいへん凝って、しまいには仕事を放り出して、そればかりうなっている始末でした。
 息子の呑気さに輪をかけたように、その貸本屋の老夫婦ものんびりとしたいい人達でした。
 いつでも店先で、ぼんやりと外を眺めていましたが、時折り私が借りた本を返しに行くと、
『えらいすまんな』
 と、いって、色刷りの絵をくれたりしました。<上村松園談『青眉抄』六合書院>
<2013年12月8日 南浦邦仁>
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