ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

貸本という文化インフラ (1) 幕末のリテラシー

2013-12-01 | Weblog
 電子雑誌「Lapiz」ラピス12月号が発売になりました。知名度はまだ低いようですが、内容はかなりのハイレベルだと思います。MAGASTOREマガストアの扱いで300円。今号では図書館特集も読み応えがありそうです。「椋鳩十と島尾敏夫」、「武雄市図書館」、「貸本という文化インフラ」。
 実は「貸本という文化インフラ」をわたしが執筆担当しました。編集長の了解を得て、連続5回にわたって転載します。これを機会にぜひ季刊e誌「Lapiz」をご購読ください。

 江戸時代末期、やっと開国した日本にはたくさんの欧米人が訪れました。秘境であった極東の異文化に接した彼らは、驚異の眼で日本人の特異性を記しました。なかでも識字率の高さに愕然としたひとが数多い。
 トロイ遺跡の発掘、『古代への情熱』で有名なシュリーマンは、慶応元年(1865)に日本を訪れました。彼は江戸や八王子でみた寺子屋の盛況ぶりに驚いています。そして次のように記しました。「日本の教育は、ヨーロッパの最も文明化された国民と同じくらいよく普及している」。さらには「自国語を読み書きできない男女はいない」
 正教会のニコライは文久元年(1861)に函館にやって来ました。そしてロシア領事館付司祭として明治2年まで8年間滞在しました。彼は次のように記しています。少し長いですが引用します。
 

 街角に娘が二人立ちどまって、一冊の本の中の絵を見ている。一人が、いま買ったばかりのものを仲良しの友だちに自慢して見せているのだ。その本というのが、ある歴史小説なのだ。もっとも、この国では本をわざわざ買い求めるまでもない。実に多くの貸本屋があって、信じ難い程の安い料金で本は借りて読めるのである。しかも、こちらからその貸本屋へ足を運ぶ必要がない。なぜなら、本は毎日、どんな横町、どんな狭い小路奥までも、配達されるからである! 試みにそうした貸本屋を覗いてみるがよい。そこに諸君が見るのは、ほとんど歴史的戦記小説ばかりである。(それが長きにわたった内乱肛争の時代によって養われた、民衆の嗜好なのである。)しかも、手垢に汚れぬまっさらの本などは見当たらない。それどころか、本はどれも手摺れしてぼろぼろになっており、ページによっては何が書いてあるのか読みとれないほどなのだ。日本の民衆が如何に本を読むかの明白なる証拠である。
 読み書きができて本を読む人間の数においては、日本はヨーロッパ西部諸国のどの国にも退けを取らない。(ロシアについては言うも愚かだ!)日本の本は、最も幼稚な本でさえ、半分は漢字で書かれているのに、それでなおかつそうなのである。漢字の読み方を一通り覚えるだけでも、三、四年はたちまち経ってしまうというのに! それなのに日本人は、文字を習うに真に熱心である。この国を愚鈍と言うことができるだろうか? <中村健之介訳『ニコライの見た幕末日本』講談社学術文庫>

 幕末の日本では、各地でたくさんの庶民が読み書きをこなしていたことは明らかです。寺子屋や貸本屋がリテラシーを高めたといえます。このような文化的に成熟した高度な社会は、18世紀末ころから全国で形成され出したと歴史学者は考察しています。
<2013年12月1日 続く>
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