無意識日記
宇多田光 word:i_
 



でも『忘却』の歌詞でいちばん衝撃的、というか気になったのは『出口はどこだ 入り口ばっか』だ。次に『深い森を走った』というLegendary Classの名詞、いやそれじゃnounだ、超名作詞が横たわっているのでそれが総て回収してしまい結局は何も問題にならないのだが、初めて聴いた時は「え!?」となったのよ。

常々ヒカルは「間口は広く、出口は狭く」と言ってきた。Pop Musicは色んな入り方が出来るように設えられているのが理想で、しかし、最終的にその種々の支流を本流に落とし込むのが"最終目的"だった筈だ。

なのにここでは、ひとつはある筈の出口を見失っている。「これはなんだ。」と思った訳だ。

いやいや、この『忘却』での歌詞はあクマでこの歌でのストーリーを歌ったもので、普段の「Pop Musicに対する心構え」についての歌詞ではないのだから、無理矢理結び付ける方がおかしいだろう、私も最初はそう思った。

しかし、この逆を考えるべきではないのか。ヒカルは、この歌詞を聴かれた時に、件の「Pop Musicに対する心構え」を想起する馬鹿(つまり例えば私)が存在するかもしれないと考えなかったのか。それが気になった。ヒカルは、結局どうしたいのか。復帰への根源的な問いはここに尽きる。

勿論、史上最高の日本語作詞家であるからには、前段に答えを述べている。『明るい場所へ続く道が明るいとは限らない』と。だから深い森を走るのだと。確かにそれでいい。それでいいのだが、その瞬間のヒカルは「自分の音楽をPopにする意義」を見失っていたとしか、結局の所考えられない。『Fantome』のモチベーションは、どこにあったのだろう? 『出口はどこだ』という問いに対する答は、未だに得られていない、のかもしれない。少なくとも私には見えない。

もしそれを指して『忘却』と言っているのなら、これはとんでもなくパワフルだ。どうなるか。普通忘却というと過去の記憶を葬り去る事、或いはしまってある場所の記憶を忘れる事だ。場所が異なるだけで何か有ったものがなくなっているのには変わりはないのだが、ヒカルの場合は「未来の記憶」「未来の思い出」というものがある。

『Passion』の時のヒカルが鮮烈な事を言った。「今の22歳の私には、2歳の私も12歳の私も、32歳の私も42歳の私も居る。」と。衝撃だった。過去の自分が今の自分を助けてくれる感覚はわかる。寧ろ、22歳の私のはたらきは、21歳までの私の積み重ねた層が厚さをなして機能し合う事で生成される。そこまでは理解可能だった。が、未来の私まで助けてくれるという発想はなかった。そんなヒカルには『未来の記憶』があるとしか思えない。

すわ。『忘却』の対象が、その『未来の記憶』だったら、どうなるだろう。確かに、今の私は『明るい場所へ続く道が明るいとは限らないんだ』と歌い、出口を見失っている。元々は、"未来の記憶"があって、それに向かって今の私は動けばよかったのに、なんだろう、敢えて『一寸先は闇なら二寸先は明るい』未来を作ろうとしているようにみえる。なぜか。

『深い森を走』る為である。

この強い強い歌詞に対しては、抗うだけ無駄である。巧緻に長けたヒカルは、狭い出口を見据え、様々な入り口を用意し、その狭さに人々を落とし込む手腕をもっていた。その枠組みを捨ててでも、『深い森を走った』の歌詞に、そう、殉じたのだ。

偉大な歌への敬意、である。歌詞に強い強い一言があるなら、それに従わねばならない。ヒカルが歌った『深い森を走った』はとてつもなく強い。最優先事項である。その為の『忘却』だった、とすればこの歌は果てしない物語を背負う。いやぁ、いいねぇ。

しかし、これでもヒカルの歌詞パートの前半分を総括したに過ぎない。まだあと半分ある。怖い夢とはまさにこの歌そのものだろう。


なお『言葉なんか忘れさせて』と『目を閉じたまま踊らせて』を合わせると『ぼくはくま』の『あるけないけどおどれるよ しゃべれないけどうたえるよ』になる。やはりこの歌は依然最高傑作なのかもしれない。何て強さだ。

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