無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『花束を君に』もまた、『SAKURAドロップス』の息がかかった作品だ。最初のメロディーが終わり、『約束をした』と告げた直後に差し挟まれ吐き出される吐息に反応した誰しもが、そのまま『SAKURAドロップス』を思い出した事だろう。当然ながら、故意であると思われる。

『SAKURAドロップス』『桜流し』『花束を君に』で桜3部作なのだろうか。花束として桜を贈るかといわれたらまた違うかもしれないが、例の桜並木プロジェクトのお陰でこの曲は容易に桜の花と結び付くようになった。また解禁が4月4日という花盛りな季節な事も拍車を掛けた。来年以降、この曲は『SAKURAドロップス』と共に春の定番曲となる事だろう。

ただ、そうやって花と桜のイメージが先行する『花束を君に』だが、メインのモチーフは寧ろ『Letters』との対照であるように思える。

『花束を君に贈ろう 愛しい人 愛しい人
 どんな言葉並べても 真実にはならないから
 今日は贈ろう 涙色の花束を君に』

『Letters』は手紙、書き言葉、文字の事だ。鮮烈な『いつも置き手紙』は、比喩なのか実話なのか。もし母の事を歌った歌なら本当に置き手紙がモチーフになっているのかもしれない。

それを、『花束を君に』は真正面から否定しにかかっているようにみえる。言葉じゃ伝わらないから花束を贈る事で気持ちを伝えよう、と。

これは、根本的なジレンマだ。何故なら、ヒカルは歌っているからだ。歌う以上、言葉は途切れない。本当に花束にしか思いを託せないのなら、実際に花束を贈るとか、花束の絵を描くとか、他の方法をとらなければならない。しかしヒカルは歌い、それを録音した。即ちこの歌は真実ではない。

ここに虚空の木霊が聞こえる。この歌は嘘である。

何が嘘か。それを解釈する所からが個々の楽しみなので、私がここで敢えて一旦筆を置くのも一興かもしれない。その間に、何が嘘かを考えてみて欲しい。とは言っても、私が今後「正解」めいたものを書くかというとわからないが。ずっと黙ったままかもね。

ヒントは散りばめられている。ヒカルにとって「嘘」とは何か。『Never Let Go』は歌う。『真実は最高の嘘で隠して』と。『嘘みたいなI Love You』に出てくる『嘘の咲かない草原』とはどんな風景なのか。そして『In My Room』である。

『ウソもホントウも口を閉じれば同じ』
『ウソもホントウも君がいるなら同じ』
『ウソもホントウも君がいないなら同じ』

17年前から既に種は蒔かれている。長年のリスナーは、その時の重みを感じられる。少し手を止めて耳を澄まして、この歌から流れ出でてくる真実を、自らの心の内に探しに行ってみましょうぞ。

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『真夏の通り雨』のラストの部分、『ずっと止まない止まない雨に ずっと癒えない癒えない渇き』。ここを聴いた時にやはりSAKURAドロップスの『好きで好きでどうしようもない それとこれとは関係ない』を思い出した人も多いだろう。

ともに楽曲の最終盤で、同じく一定のフレーズを何度も繰り返している事から連想がはたらくのだが、何より、その淡々とした、まるで念仏を唱えるかのような歌い方(とエフェクト)が特徴的なのが共通している。しかも、両方とも、本来ならば声高に叫びたいような内容を、だ。

『好きで好きでどうしようもない』という、行き場のない程の激情。『ずっと止まない止まない雨』に示される終わりのない悲しみ。主人公は、叫びたくて叫びたくて仕方のない感情を、押し殺すよりも突き放す。特に、『真夏の通り雨』では、土砂降りの雨を前に茫然と立ち尽くすような効果を齎している。『立ち尽くす見送り人の影』そのままの情景が描写されている。

有り体にいえば、不気味だ。いっそ泣き叫んでくれた方が安心する。精神を病んだかのような諦念。焦点の合わない両眼。虚ろな表情。出口を見失い、しかしさまよってすらいない。そんな情景を描くのに、この抑揚を抑えた歌唱はうってつけである。その境地に来てしまった事自体は、また別の話だが。

終始この歌い方、ならまだわかる。パイセンの場合、ソウルフルで抑揚の大きい歌唱を披露した挙げ句だから余計に効果的なのだ。しかもそれをエンディングに持ってきて無限ループフェイドアウトにするものだからその「救いようの無さ」は半端では収まらない。最大限の慟哭の表現である。

『好きで好きで』『止まない止まない』『癒えない癒えない』と、同じ言葉を直接二回繰り返している所も効果的だ。それが更に何度も繰り返される。リピートの二重構造。『SAKURAドロップス』の方では『どうしようもない』と『関係ない』がしっかり韻を踏んでいる。『真夏の通り雨』の『雨に』と『渇き』もそうだ。二節の冒頭もそれぞれ『ずっと』が重なっている。徹底して、繰り返し、繰り返し。ここまでして印象に残らない訳が無い。

手法は似通っているが、どん底に叩き落とすという意味で、『真夏の通り雨』は昔に較べてパワーアップしている。歌唱力が上がり、更に抑揚の振り幅が増した事も拍車を掛けている。聴き比べれば、その成長の度合いは実感できると思うが如何だろうか。

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