歌の名前と人の名前、どちらが有名かというのは大きなテーマだ。昔「唯一、宇多田ヒカルという名前の大きさを越えて生き残る歌があるとすれば『ぼくはくま』ではないか」と書いた事があるか、これを例にとれば「『ぼくはくま』の名は「宇多田ヒカル」という名より大きい」という言い方になる。
卑近な風にいえば、歌は知ってるんだけど誰が歌ってるかわからない、みたいな状況だ。「プライベート・アイズ」という歌は知ってるけどホール&オーツって誰?みたいな。彼らはそうでもないけれど、世に言う一発屋、ワン・ヒット・ワンダーの皆さんは大体そんな…と思ったけど、日本の場合大事マンブラザーズバンドの「それが大事」みたいに、一発屋ネタって人名と曲名が大抵セットだね。まぁ兎に角そんな話だ。
ヒカルも、宇多田ヒカルという名より有名な名曲をまた書けるようになれればそれは凄い事になるだろう。何しろ、名曲を生み出し続ければ更にヒカルの名が轟いて歌の名前より有名になってしまうのだから。差しつ差されつ抜きつ抜かれつ。そうやって有名になった自分の名前より更に、となれれば永遠に成長を続けられる。今から日本でそれをやるのは至難の業だが、ライバルの居ない今の状況だとそれ位の目標を置いてちょうどいいのではないか。
2010年に『Goodbye Happiness』を発表した時、私はこの曲を「最後のJpopソング」と言って絶賛した(余談だが、勿論Jpopの象徴的であるZARDの名曲「Goodbye Loneliness」を念頭に置いて、ね)。しかしそれとともに「ヒカルが熟れ落ちる直前まで来ている」という話もした。つまり、ソングライターとしてのピークをこれから過ぎていく予感を、この曲から感じ取ったのだ。(だから人間活動に移るには絶妙のタイミングだったと今でも思う)
後日、ヒカルはこの曲について「Aメロにうまく歌詞を載せられなかった」と珍しく口にする。まさにその部分が、私が「熟れ落ちる寸前」と思った根拠だったのだ。作曲家が熟れ落ち始めると、曲の魅力的な部分は最高に魅力的(『Goodbye Happiness』でいえばSynergy Chorusやサビのメロディーや中間部のヴォーカル・ソロや…って楽曲の大半やな)になるのだが、一方で楽曲を細部まで完璧に整えられなくなっていく。まさに実が熟して甘さが最高潮になる一方でそろそろ腐り始めるように…。(また余談。それと対比して細部までガチガチにコントロールできているが甘さはまだそこまで行っていない、即ち"青い果実"の代表例といえば『traveling』ですね。あれはまさに"完全無欠な"ポップ・ソングでせう。)
…と、当時は「作曲者であるヒカルの立場に立った」見解を書いた。しかし今振り返ってみると、歌の側から見る視点が欠けていた気がしてきたのだ。つまり、『Goodbye Happiness』という歌の側からみれば、「宇多田ヒカルという音楽家は私を完璧に捉えるだけの"器"ではなかった」という事だ。たかが曲が何を尊大な、という気がするが、そう言って貰った方が作曲者としては、傷つくけれど"腑に落ちる"のではないか。『traveling』クラスならヒカルの力量を持ってすれば完璧に捉えられたが、『Goodbye Happiness』クラスだと、熟れ落ちる寸前の最高潮になった瞬間に手は届いたけれど全てを掴み取るまではいかなかった、と。
つまり、有名無名とはまた別の次元で『Goodbye Happiness』の名は宇多田ヒカルという名前より"デカい"のだ。今、7年前を振り返って、そう捉え直した方がいいのではないかと考えている。
というのも…って随分長くなったな。続きはまた次回だな。…あれ? もしかして来週になっちゃうかな。…暫し待たれよ。
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