11月下旬、東京学芸大学附属世田谷小学校www.setagaya-es.u-gakugei.ac.jp(東京・世田谷区)の2年2組。 総合学習の授業「たんけん」で子どもたちは、航空地図で学校を見て川に関心を持ち、「呑川緑道」の地下に水が流れていることを発見してきた。
「キョってなあに?」との記者の質問に、ある子が「漢字のほうが意味わかるかも」とつぶやくと、先生が辞書を引いて黒板に書いた。「さんずいに意味がある!」「水専用の道!」「すいろ!」次々に声があがる。 「知りたい」というエンジンに火がついた子どもたちは実に積極的だ。このクラスは、共通の問いが生まれると「学習問題」と呼び、ノートに赤い印をつけるルールがある。ネットや本で調べたり、両親と探検したりした情報が持ち寄られ、次の時間には別の「はてな?」に発展していく。 「子どもたちが今後、世の中で出会うことがみんな面白く見えてくれば大成功」と語る担任の鈴木聡教諭(43)は、同小14年目のベテラン。同小の総合研究部長でもある。駆け出し時代は、指導案通りに授業ができると達成感を感じた時期もあったが、経験を積んだ今、「指導案からずれる瞬間こそ教師の勝負どころ」との思いが強まり、総合学習の面白さが増したという。 同小は20年前、低学年で教科の垣根を外し、総合的に学ぶ自由度の高いカリキュラムを導入した。担任と子どもの話し合いで学習を計画し、時間割を変える。低学年こそ、生活に根ざした総合的な学習が必要と考えた挑戦的な取り組みだったが、実践を経て徐々に変化。総合学習のよさは認めつつ、低学年でも「計算や漢字の基礎など、最低限の知識の確認は必要」との方向性は定まりつつある。 ただ、鈴木教諭は「総合の授業力はすべての教科に通じる」と考えている。子どものつぶやき、ノートの変化を見逃さない注意深さ、臨機応変さが鍛えられるからだ。
同小は、教員養成大学から年間約130人の実習生を受け入れる「養成所」の役割も持つ。若い先生には総合は重荷になりがちだが、藤田
副校長(55)は「子どもと一緒に山を乗り越える喜びが味わえるからこそ、教師も挑戦しがいがある」と話す。子どもたちと作る一期一会の真剣勝負が、先生の力も育んでいる。(片山圭子、写真も)
◎学芸大付属世田谷小の総合学習のテーマ例
▽「あみものにちょうせん」(1年)▽「ミュージカルをつくろう」(1、2年)▽「木の家をつくろう」「クラスの映画づくり」(4年)▽「お米作りに挑戦」「土器を作ろう」(5年)▽「アライグマを育てる」(5、6年)』12月11日讀賣新聞
教科書中心の知識詰め込み教育だけでは、二歩かの子供達に本当の学力向上は望めないのでは無いでしょうか。総合学習で、学校の身近に有るものを生きた教材として学ぶことは大切で、今問題に夏とて入る理解力や思考力の向上基礎になると思います。教科の垣根を越えても総ての教科は関連性が有ります。いろいろな体験学習を通じて生活通じて学習し社会性をコドモタチが身に付ける基礎になると思います。日本の子供達は、体験学習を世界各国のコドモタチと比べ軽視されていると思います。子供達のなぜだろうと言う疑問や不思議さ興味の目を摘み取ることなく自ら発見し、学ぶ姿勢が身に付けは自学自習の習慣が身に付き、学習意欲も向上すると思います。先生も子供達を教えながら学ぶことは、学び舎の1番の基本原則と思います。
暗渠・あんきょ
暗渠(あんきょ)とは、地中に埋設された河川や水路のことであり、開渠に相対する概念である。目的により、いくつかに分類することができる。
都市部における暗渠
都市部においては、敷地の有効利用の目的からか、かつての小川や水路に蓋がけをして暗渠とし、その上を道路や遊歩道へ転用している例がしばしば見られる。川がないのに欄干(らんかん)が残っている場所があるが、これは地下に暗渠がある証拠である。
もともとの川幅の狭さや強度の関係もあり、多くは車両通行禁止の遊歩道などに転用している。幅が比較的広い川を暗渠にしたケースでは、自動車が通行可能になっていることもある。
川を蓋がけして作られた経緯から、路面が沿道の宅地よりも若干低くなっていることがある。
都市部における暗渠化は、戦前より例はあったとはいえ、特に高度経済成長期以降、都市化・宅地化の進行に合わせて一斉に進められたが、その多くは地域住民の強い要請を踏まえたものであった。背景には、宅地化の進行に対して下水道の整備がまったく追いついていなかったという当時の事情がある。行き場を失った大量の生活排水により、かつての小川はドブと化し、猛烈な悪臭を放つようになっていた。堪えかねた住民たちは暗渠化を願い、行政に働きかけることも多かったのである。
また、特に東京の場合は、東京オリンピックの開催に合わせて、都市の体面を整える目的で暗渠化された“ドブ川”が少なくなかった。
なお、地下に水道管を埋設するために直線的に整備された、いわゆる「水道道路」もまた、暗渠の一種である。
排水を目的とした暗渠
速乾性が求められる競技場、農地などに利用することが困難な湿地、地すべり地などの崩壊地などさまざまな場所で、滞水を防ぐ目的で施工される。
この場合の素材は、有孔管(上部に集水用の穴が開いているポリ塩化ビニルなどのパイプ)、素焼きの土管などのパイプ類などが用いられるほか、粗朶や砂利、玉石の埋め込みなども行われる。集められた水は敷地外の水路や側溝・下水道などに導かれ排水される。
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2010年12月12日15時36分
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公立小学校の警備員配置などのため、大阪府が市町村に支出していた「学校安全対策交付金」(約5億円)が今年度で打ち切られることを受け、学校の安全をどう確保するか、各自治体が頭を悩ませている。羽曳野市議会は10日の総務文教委員会で、不審者の早期発見に備えて校門に立つ「安全管理員」の配置を市が継続するよう求める約2万人分の請願を全員一致で採択した。 請願は市PTA連絡協議会が有権者の2割を超える1万9879人分の署名を添えて提出。正副議長と正副委員長を除く16人全員が紹介議員に名を連ねた。この日の委員会では、議員から「府が(交付金を)切ったとしても市が独自で続けるべきだ」「(安全管理員が)地域と学校のハブになっている」など、人的配置の必要性を訴える声が相次いだ。請願は22日の本会議で採択される見通しだ。 2005年2月に寝屋川市の小学校で教職員3人が殺傷される事件が起きたことを受け、府は05年度、小学校の校門に配置する警備員などの人件費補助(上限1校80万円)を始め、09年度からは使途を防犯カメラの設置などにも広げた交付金制度に移行した。しかし、橋下知事は今年6月、「学校の安全は基礎自治体でやっていただければならない」と制度の打ち切りを表明した。 これを受け、羽曳野市教委は安全管理員の配置を同じように続けるのは厳しいと判断。今年5月から配置時間を短縮し、全市立小学校14校に防犯カメラの設置を進めていた。 請願を提出した市PTA連絡協議会の役員の1人は「カメラは事件後に犯罪者を確認するもので予防にならない。のど元過ぎたら終わりか、と保護者の不安は大きい。住民も登校時の見守りなどをしているが、行政の一定の支援は必要だ」と話す。 一方、市教委の高崎政勝教育次長は、来年度の方針は未定としたうえで「限られた財源の中で、人的配置を含め地域や教職員と一体的に取り組んでいきたい」と話している。』アサヒコム
学校の安全神話が消えた日本です。防犯カメラでは死角が有り子供達の安全は守れないと思います。 橋下知事は今年6月、「学校の安全は基礎自治体でやっていただければならない」と制度の打ち切りを表明したが、子供達や教職員の安全を守る為に安全管理員は必要です。今後登下校の時の先生による校区の通学路巡回も必要となりますね。地元自治会やPTAの防犯協力も不可欠と思います。何とか無駄を仕分けして、子供達と教職員安全確保の予算を捻出して欲しいと思います。羽曳野市:羽曳野市議会www.city.habikino.osaka.jp/hp/menu000003200/hpg000003164.htm)は10日の総務文教委員会で、不審者の早期発見に備えて校門に立つ「安全管理員」の配置を市が継続するよう求める約2万人分の請願を全員一致で採択したのですから、いままでどおり公立小学校の警備員配置をして欲しいと思います。
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海軍中将 大田 実 | |
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1891年4月7日 - 1945年6月13日 | |
生誕地 | 千葉県長生郡長柄町 |
死没地 | 沖縄県那覇市小禄 |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1913年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍中将 |
指揮 | 沖縄戦 |
部隊 | 沖縄方面根拠地隊 |
賞罰 | 勲二等功一級 |
大田 実(おおた みのる、1891年(明治24年)4月7日 - 1945年(昭和20年)6月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身。
略歴
旧制千葉県立千葉中学校より海軍兵学校41期入校。入校時成績順位は120名中第53位、卒業時成績順位は118名中第64位。
海軍における陸戦研究の第1人者として海軍陸戦隊指揮官を精勤した。
太平洋戦争最後の激戦であった沖縄戦の際に於ける海軍側代表として沖縄根拠地隊司令官であり米軍上陸時に約1万人の部隊を率いて沖縄本島小禄半島での陸戦を指揮したが米軍の攻撃を受けて司令部が孤立し那覇小禄地区豊見城にあった海軍壕内にて拳銃で自決。死後海軍中将に特別昇進する。
穏やかで包容力に富み、小事に拘泥せず責任感の極めて強い人物で、いかなる状況に遭遇しても一言の不満も漏らさず人を誹謗するような言行動は絶えてなかったといわれる。
陸軍の首里から摩文仁への撤退に際して、海軍司令部は作戦会議に呼ばれず、直前の5月24日ごろ(異説あり)になって初めて知らされたとされる。いったんは完全撤退と受け止め、重火器を破壊して南部への撤退を始めるが、後に「第32軍司令部の撤退を支援せよ」との命令を勘違いしたことがわかり、5月28日には再び小禄へ引き返した。6月2日に改めて「摩文仁へ撤退せよ」との命令が出されるが、大田は今度は従わなかった。命令を意図的に無視したのか、米軍に退路を断たれて撤退できなかったのかは不明である。
自決する直前の6月6日に海軍次官宛てに発信した電報は余りにも有名である。当時の訣別電報の常套句だった「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」などの言葉はなく、ひたすらに沖縄県民の敢闘の様子を訴えている。
海軍次官宛の電報
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
- 文中の□部分は不明
電報の現代語訳
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。
その他
- 辞世の句
- 大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり
- 11人の子供がおり、長男大田英雄は社会科教師で平和運動家。湾岸戦争後の自衛隊ペルシャ湾派遣の際の指揮官である落合畯一等海佐(当時)は3男。大田豊一等海佐は4男。3女板垣愛子はパーフェクト リバティー教団(PL)の教校長。
- 大田は長男を軍人にしたいと願い、いずれ海軍大将になってほしいとの願いから「英雄」と名づけた。一方、三男には農業をして家を守ってほしいと「畯」(たおさ)と名づけた。しかし2人は戦後、まったく別の道を歩むことになった。
- 娘の一人は後年、アメリカ人と結婚し渡米したが、沖縄戦で米軍を苦しめた日本軍幹部の娘というので、パンも売ってくれないなど、酷いいじめに遭った。後年、小渕恵三首相が「大変でしたね」と慰めると、彼女は「父の苦労に比べたら、たいしたことはありません」と泣き崩れたという。(東京新聞2000年7月24日)
- 最後の沖縄県令であった島田叡とは沖縄戦の最中でも密接な連絡を取り合い、大田と島田は「肝胆相照らす」仲であったと言う。大田が最後に残した電文中にある「県知事より報告せらるべきも」「本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども」の冒頭文は、既に沖縄県の組織自体に通信能力が無く、民間人の苦労を伝えるのに最も相応しいのは「県民に関して、殆ど顧みるに暇なかりき」と言った自分達では無く最後まで彼ら県民と共にあった島田達であるが、大田が行政官である島田に代わって県民の姿を伝えたものである。(参考文献:文藝春秋2009年1月号 梯久美子 『昭和の遺書53通』)
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『 国の重要文化財「日本橋」(東京都中央区)で、補修工事のため取り外されていた「道路元標」が12日、橋の中央にあった元の位置に埋め込まれた。 道路元標は道路の起終点を示す。明治時代に全国各地に設置されたが、現行法上の設置義務はない。日本橋の道路元標は約50センチ四方の青銅製のプレート。東海道など五街道や国道7路線の起点で、象徴的存在として知られる。 日本橋が石造りの2連アーチ橋に架け替えられてから、来年で100年。名橋「日本橋」保存会 www.nihonbashi-meikyou.jp/2009.html)会長の中村胤夫さん(74)は「これを機に、江戸時代から続くこの地域のにぎわいを取り戻し、人や物、情報が交流する起点として、世界の懸け橋にしていきたい」と話した。』(2010/12/12-14:43)時事通信
日本の長い歴史と伝統文化に支えられた地名は改名したりすべきではないと思います。地名や橋の名前は大切にすべきです。大阪市内などは、歴史と伝統の有る名前を変えたのは間違いです。日本の伝統の文化を継承し、地元の町興しと地域の活性化を目指すことは、若い人達の日本人としての誇りと自信を取り戻すことです。地域に根差した四季の行事や祭り、地域、町衆の伝統文化を皆で守り育て、継承することが今の日本では大切と思います。伝統ある江戸文化を江戸っ子の心意気で、地元保存会の皆が発信して不景気を吹き飛ばして下さい。