教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

書き込んだ文字、壁に投影 「未来の教室」モデルルーム

2010年12月09日 14時56分56秒 | 受験・学校

2010年12月6日19時8分

写真:生徒が手元の端末に書き込んだ文字が、壁面に投影され、授業が進む=大阪市中央区の内田洋行生徒が手元の端末に書き込んだ文字が、壁面に投影され、授業が進む=大阪市中央区の内田洋行

<script language="JavaScript" type="text/javascript"></script><script src="http://imp.asahi.com/bservers/AAMALL/acc_random=81951850/pageid=17791566/AAMB1/SITE=KYOUIKU/AREA=RECT2/AAMSZ=300X250/OENCJP=EUC"></script><script></script><script></script>

 「内田洋行www.uchida.co.jp/6日、大阪市中央区の大阪支店内に電子黒板やビデオカメラなどを設置したモデルルーム「フューチャークラスルーム」を開設した。小中学校の教室より一回り大きい125平方メートル。児童・生徒がパソコンやタブレットPCを使って電子教科書に書き込んだ文字が壁面に投影できる。日本の小・中・高校にある電子黒板は1校平均1.5台にとどまっており、同社は「使いやすさを体感してもらい、導入に弾みをつけたい」と話す。教員、学生らの利用は無料だが申し込みが必要。問い合わせは同社(0120・077・266)。 」アサヒコム)

電子教科書時代の教室風景の先取りです。児童・生徒がパソコンやタブレットPCを使って電子教科書に書き込んだ文字が壁面に投影出来る。今の黒板に、先生が板書する時代はやがて無くなり、資料等のブリントの配布もなくなるのでしょうね。教える先生は電子教科書の虎の巻を持つことになるのでしょうか。電子教科書時代になれば、子供達もランドセルや鞄に教科書や副教材や練習帳といろいろと持って登校しないで済みます。主要5教科の授業方法もこれからは変わって行くでしょうね。内田洋行は大阪支店内に電子黒板やビデオカメラなどを設置したモデルルーム「フューチャークラスルーム」は、未来の学校の教室の姿と思います。子供達は、パソコンの操作は得意なので、電子教科書にもすぐに慣れると思います。学校の先生方が、新しい電子機器を使いこなすのが大変では有りませんか。小学校から大學まで、紙の教科書に変わり電子教科書が普及する時代に入ったと思います。電子出版の登場は、学校の教室にも革命的変革を起こして行くと言えます。

                                                                              URLhttp://www18.ocn.ne.jp/~abc8181

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カタツムリ左巻き存在の謎解明 天敵ヘビが進化手助け

2010年12月09日 13時39分12秒 | 学問
 もともと殻が右巻きだったカタツムリで左巻きに進化した種が存在するのは、カタツムリを餌とするヘビが手助けしたとみられることが、東北大学大学院生命科学研究科ww.lifesci.tohoku.ac.jp)の細将貴研究員(進化生物学)らのグループの研究で分かった。カタツムリの体は殻の巻き方が異なると、交尾しにくい構造。通常、突然変異の左巻きが子孫を残せる可能性は低いが、天敵の被害に遭いにくいという利点が交尾の難点を補う形で進化につながったという。
 カタツムリは数多くの種が存在するが、左巻きは少ない。右巻きを保ったまま多様化してきたと考えられ、少数派の左巻きの進化は謎だった。 細研究員らは2007年、カタツムリを食べるセダカヘビの口の構造と捕食行動を調査。セダカヘビは右側に多くの歯を持ち、左巻きよりも右巻きのカタツムリの方を効率よく殻から中身を引き出して食べていることを突き止めた。 調査結果に基づき、左巻きのカタツムリはセダカヘビに襲われても生き残る可能性が高く、進化が促されたと予測。ほぼすべての種のカタツムリの分布と大きさを調べ、左巻きの属の割合を検証した。 セダカヘビが生息する東南アジアなどでは、殻が2センチを超える57属のうち約20%が左巻きだった。一方、セダカヘビが生息しない北米などでは、殻が2センチ以上の141属のうち左巻きは約1%にとどまり、仮説が裏付けられた。
 日本周辺でも沖縄県の石垣島や西表島、台湾など、左巻きが多い地域とセダカヘビの生息域はほぼ一致。系統を解析したところ、右巻きから何度も分化して進化していることも判明した。 細研究員は「天敵の存在が種を分化させるという、生き物の進化を考える上で興味深い結果となった。セダカヘビがいなくても左巻きが確認された地域もある。今後、セダカヘビが生息した時期と左巻きの分布も調べる必要がある」と話している。研究成果は8日、英科学誌ネイチャー・コミュニケーションズの電子版で発表した。 最終更新:12月9日(木)6時12分河北新報社
もともと殻が右巻きだったカタツムリで左巻きに進化した種が存在するのは、カタツムリを餌とするヘビが手助けしたとみられることが、東北大大学院生命科学研究科の細将貴研究員(進化生物学)らのグループの研究で、生物学的に突き止められました。天敵のセダカヘビから身を守り、生き残り子孫を残す為の左巻きカタツムリの進化で生息している地域の自然環境に順応し生き抜いて来たカタツムリの智恵と進化に人間も、学ぶべきところが有るのでは無いでしょうか。カタツムリの左巻き科学的に仮説が裏付けられ、人間が自然に学ぶ大切さ分かったように思います。デンデンむしむしのタツムリにも生物学上の意味があったと言う研究調査です。

カタツムリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミスジマイマイ
Euhadra peliomphala
ウィキクォート蝸牛に関する引用句集があります。

カタツムリ(蝸牛)は、陸に棲む巻貝の通称。特にその中でも有肺類のうちの殻が細長くないものを言う場合が多い。

<script type="text/javascript"></script>

概要

「カタツムリ」という語は日常語であって特定の分類群を指してはおらず、生物学的な分類では多くの科にまたがるため厳密な定義はない。陸貝(陸に生息する腹足類)のうち、殻のないものを大雑把に「ナメクジ」、殻を持つものを「カタツムリ」「デンデンムシ」などと呼ぶ。一般にカタツムリは蓋をもたず触角の先に目を持つ有肺類の陸貝で、中でも球型や饅頭型の殻を持つものを指すことが多く、殻に蓋をもつヤマタニシ類や細長い殻をもつキセルガイなどがカタツムリとは呼ばれることは少ない。しかし前述のとおり厳密な定義がないため、殻をもつ陸貝をすべてカタツムリと呼んでも間違いとは言えない。日本で一般にカタツムリと呼ばれるものとしてはオナジマイマイ科ニッポンマイマイ科の種類が代表的なものである。

乾燥に弱く、移動能力が小さく、また、長距離の移動や山脈や水域を越えるのも難しいため、地域ごとに種分化が起こりやすい。種類は北より南の地方で多い傾向があるのは他の動物群と同様である。日本列島に限っても、広い分布域をもっているのは畑地や人家周辺にも見られるウスカワマイマイや、外来種オナジマイマイなどごくわずかな種で[1][2]、それ以外のカタツムリは地域ごとに異なる種が生息しており、関東と関西では多くの種類が入れ替わっている[3]。また島などでは特に種分化が起こりやすく、南西諸島小笠原諸島では島ごとに固有種が進化していることも多い[1][4]。このような種分化は地球規模ではさらに顕著で、大陸間ではのレベルで大きく異なるのが普通である。

形態

軟体動物のうち陸に棲むものは腹足類のみであるが、それらは多様な環境に適応して形態や生態が分化している。中にはナメクジのように貝殻が退化したものや、キセルガイ科やオカチョウジガイ科のような細長い殻をもつものもある。大きさは日本産では1mm前後のものから数cmまでで、殻径60mmを超える四国産のアワマイマイ Euhadra awaensis が最大の在来現生種である[1]。アフリカなどにはメノウアフリカマイマイのように殻が20cm以上、伸びた時の体長が40cm近い種類もある。

陸生貝類のうち、ヤマキサゴ科やヤマタニシ科は殻を塞ぐ蓋をもち、これらは一般にカタツムリと呼ばれる有肺類とは起源が異なる。

カタツムリの体の模式図:1 殻、2 肝臓、3 肺、4 肛門、5 呼吸孔、6 眼、7 後触角、8 脳神経節、9 唾液腺導管、10 口、11 食道、12 唾液腺、13 生殖孔、14 陰茎、15 膣、16 粘液腺、17 輸卵管、18 矢嚢、19 腹足、20 胃、21 腎臓、22 外套膜、23心臓、24 輸精管
紅白の軟体をもつ Indrella ampulla (マラッカベッコウマイマイ科:バンガロール産)。2枚の丸襟のように見えるのは外套膜の伸長部で、その合わせ目の部分が呼吸孔。

体は軟体部とも呼ばれ、殻軸筋(かくじくきん)と呼ばれる筋肉で殻内の殻軸部に付着している。この筋肉を収縮させることで体を殻内に引き込むことができる。殻と体は別物ではなく、殻は、体の器官の一つであり、中に内臓もある。よって、カタツムリが殻から出たらナメクジになるということはなく、殻が大きく破損したり、無理に取ったりした場合には、死んでしまうこともある。これは他の巻貝も同じである。

一般にカタツムリと呼ばれる有肺類では頭部に触角が大小2対あり、大触角(後触角)の先端には眼がある。これに対しヤマタニシなどの前鰓類の陸貝では触角は1対しかなく、先がとがっており、眼はその根元にあるなどの違いがある。

全てのカタツムリは軟体部が湿った状態でなければ生きていけない。また暑さ寒さによっても活動に支障が出る。このような時にはカタツムリは物陰に潜み、殻の中に軟体を引っ込めて、殻口に粘液の膜を張る。この膜は専門用語で「エピフラム」(epiphram)と呼ばれるもので、乾燥するとセロファン障子紙のような質感の膜になり、軟体を乾燥から守る。またエピフラムには微小な穴も開いていて、窒息しないようになっている[5]

触角のある頭部下面には口があり、口内の上には顎板(がくばん:jaw)が、底部にはおろし金状の歯舌(しぜつ:radula)があり、後者で餌を磨り取って食べる。ガラス面を這うカタツムリの口を観察すると赤味を帯びた小さいものが見え隠れすることがあるが、これが顎板で、さらによく見ると顎板の動きと呼応して透明の歯舌の運動も見られる。口は食道から胃へとつながり、奥の方でUターンして殻口近くで肛門となる。

カタツムリは他の有肺類と同様に雌雄同体で、触角の後方側面(右巻きでは右側、左巻きでは左側)に生殖孔と呼ばれる生殖器の開口部があるが、普段は閉じていて目立たない。生殖孔は一つであるが、そのすぐ内部では雌雄の二つの生殖器の開口部に分かれている。生殖行動時には内部から陰茎が反転翻出し相互に生殖孔に挿入して交尾が行われる。生殖器の構造は分類上きわめて重要な部分と考えられており、新種記載の際にはその構造を図示記載するのが通例である。同定する際にも解剖してその構造を調べなければならない場合も多く、古い時代に殻の特徴のみで分類されたものが、後に生殖器の構造からまったくの別科であったと判明したものもある。

殻の巻き方 カタツムリには右巻き(右旋:dextral)と左巻き(左旋:sinistral)があり、上から見て、渦の中心からどちら回りに殻が成長するかで決められる。実際に区別をするには、殻頂を上にして殻の口を自分の方に向けたとき、殻の口が右にあれば右巻き、左にあれば左巻きとするのが簡単である。日本産のものでは種ごとに巻きの方向が遺伝的に決まっており、大部分の種は右巻きであるが、ヒダリマキマイマイなど少数の左巻き種がおり、キセルガイ科のように科全体が左巻きのものもいる。

巻きの方向を決めるのは一つの遺伝子によるとされ、この遺伝子が欠如もしくは機能しない場合、その種本来の巻き方向とは逆に巻いた逆旋回個体となるという。実際に逆旋個体が発見されることもあるが、きわめて稀な例である。通常、逆旋個体は体の構造も逆で、交尾孔も右旋個体は右側、左旋個体は左側に開く。多くのカタツムリでは対面しながらすれ違う位置で交尾孔のある側を相互に合わせるため、巻き方が逆であると交尾が困難となり種分化がおこる場合もあると考えられている。外国にはポリネシアマイマイマレーマイマイのように同一種内で右巻きと左巻きの両方が普通に出現する種類もある。このような両旋型の種の交尾は、他方の殻の上にもう一方の個体が乗るマウンティング形式であるため巻き方の違う個体同士でも交尾が可能であるという。

殻皮

カドバリコマイマイ科の Trochulus 属の一種。ドイツヴータッハ渓谷産。殻皮に毛をもつ種は色々な科に見られるが、その意味はよく分かっていない。

カタツムリの表面にはキチン質で構成された殻皮(かくひ)と呼ばれる薄膜があり、石灰質で出来た殻の表面を覆っている。殻皮はカタツムリに限らず貝類のほとんどの種類に存在し、石灰質の殻本体を腐食から保護するのが基本的な役目であるが、カタツムリではそれに加え汚れが付き難くする役目、彩色することにより殻を背景にとけ込ませる保護色の役目なども合わせもつとされる。

殻皮の表面には細かい凹凸や規則正しい微細なディンプルが無数に存在し、接着面積を少なくすることによって、殻皮に付着したゴミや汚れなどを雨で洗い落とす効果があり、その結果カタツムリは殻表をいつも美しく清潔に保っているとされ、この構造にヒントを得た防汚効果のある建物の外壁なども開発されている[6]。またフィリピンのタニシマイマイ類などには、二重構造の殻皮をもつことで日照時と降雨時の色や模様が変化し、鳥などの外敵から見つかり難くする効果を得ているとされる種類も知られている。

さらに殻皮が一部が変化して毛状になっている種類も世界中の色々な科に見られるが、その機能についてはよく分かっていない。欧州の Trochulus 属のカタツムリでは、水分の多い環境に棲む種に特に毛が発達する傾向が見られることから、濡れた殻が他物に吸着するのを防ぐためのものではないかとの説も出されている[7]。日本産ではシワクチマイマイ類ビロウドマイマイ類などが多数の毛に覆われた殻をもつ。またオナジマイマイ科のオオケマイマイなどの殻の周囲にも殻皮が伸びた毛が見られるほか、ヤマタニシ科のヤマトガイ類も長い毛を持つものが多いが、これらは老成すると脱落している場合も多い。

殻の形 殻高が低い(=殻高より殻径の方が大きい)ものが一般的になじみがあるが、陸産貝類にはキセルガイ科(左巻き)やキセルモドキ科、オカチョウジガイ科(ともに右巻き)など細長い殻をもつものもある。カタツムリと呼ばれるものの中にも、オナジマイマイ科の

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谷垣氏に大連立打診=「国家国民のため」-読売・渡辺会長

2010年12月09日 12時51分20秒 | 国際・政治

 『自民党の谷垣禎一総裁は8日午後、党本部で渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長と会談した。これに関し同党幹部は、渡辺氏が「国家国民のためだ」として、民主、自民両党の大連立を谷垣氏に打診したことを明らかにした。谷垣氏は同日、記者団に対し、渡辺氏との会談についての言及は避けた。』 (2010/12/09-00:10)時事通信

「国家国民」と言っても戦前のような大政翼賛会の政治になれば、少数政党や野党の意見を聞かず、国民不在の政治で一党独裁体制になれば日本の議会制民主主義の崩壊で日本国民の望む政治形態ではないと思います。国民の目線に立った国民の為の政治が、今の望まれているのでは有りませんか。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは1940年(昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在していた公事結社。国粋主義的勢力から社会主義的勢力までをも取り込んだ左右合同の組織である。

<script type="text/javascript"></script>

経緯

大政翼賛会の発足

内閣総理大臣をつとめた近衛文麿公爵を中心として、国家体制の刷新を求める革新派を総結集させて新党を結成する構想は比較的早い段階から検討されていた。1938年国家総動員法衆議院内の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれた際には有馬頼寧農林大臣伯爵)・大谷尊由拓務大臣らが近衛を党首とした新党をつくって解散総選挙をおこなうことを検討したが、「近衛新党」に党を切り崩されることを恐れた政友会民政党が一転して同法に賛成して法案が成立したために新党の必要性が薄くなったことにより一旦この計画は白紙に戻ることになった。

近衛の総理辞任後、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、国際情勢の緊迫化にともなって日本も強力な指導体制を形成する必要があるとする新体制運動が盛り上がり、その盟主として名門の出であり人気も名声も高い近衛に対する期待の声が高まった。既成政党側でも近衛に対抗するよりもみずから新体制に率先して参加することで有利な立場を占めるべきだという意見が高まった。民政党総裁町田忠治と政友会正統派の鳩山一郎が秘かに協議して両党が合同する「反近衛新党」構想を画策したものの、民政党では永井柳太郎が解党論を唱え、政友会正統派の総裁久原房之助米内内閣倒閣に参加して近衛首相再登板を公言したために合同構想は失敗に終わり、民政党・政友会両派(正統派・革新派)ともに一気に解党へと向かうことになった。

近衛も第3次近衛内閣成立後にこの期待に応えるべく新体制の担い手となる一国一党組織の構想に着手する。なお、その際、近衛のブレーンであった後藤隆之助が主宰し、近衛も参加していた政策研究団体昭和研究会東亜協同体論新体制運動促進などをうたっていた。

構想の結果として大政翼賛会が発足し国民動員体制の中核組織となる。総裁は内閣総理大臣。中央本部事務局の下に下部組織として道府県支部、大都市支部、市区町村支部、町内会、部落会などが設置される。

1940年、すでに結社を禁止されていた勤労国民党右翼政党の東方会を除くすべての政党が自発的に解散し大政翼賛会に合流していた。昭和研究会も大政翼賛会に発展的に解消するという名目によって1940年11月に解散した。もっとも、議院内の会派は旧来のまま存続し、また大政翼賛会自体は公事結社であるため政治活動はおこなえず、関連団体である翼賛議員同盟などが政治活動をおこなった。これは、「バスに乗り遅れるな」という言い回しで知られるが、解散した各政党や内務省等も大政翼賛会内における主導権を握るため協力的な姿勢をとったものの、団体内は一枚岩ではなく、一国一党論者の目指したものとは大きく異なっていた。

このように、大政翼賛会を中心に太平洋戦争大東亜戦争)下での軍部の方針を追認しささえる体制を翼賛体制という。1942年4月30日に実施された第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、466人(定員と同数)の候補者を推薦し、全議席の81.8%にあたる381人が当選した。

1942年6月23日には大日本産業報国会農業報国連盟商業報国会日本海運報国団大日本婦人会大日本青少年団の6団体を傘下に統合した。その後、1945年3月に組織の一部が翼賛政治会を改組した大日本政治会と統合され、6月に本土決戦に備えた国民義勇隊結成により解散となったが、これが政府首脳と軍部による強引な統廃合であったため、これに反発をいだいた翼賛政治会の一部が護国同志会などを結成して軍部と結んだ大日本政治会に対抗するなど混乱を来たし、収拾がつかないまま日本は終戦をむかえることとなった。

なお、現代では、大政翼賛会のような組織は存在しないが、国会などにおいては野党与党の独裁的手法を揶揄する言葉として使用することが時折見受けられる。

性質

大政翼賛会の幹部たち(右端の人物は有馬頼寧)

大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは1940年(昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在していた公事結社。国粋主義的勢力から社会主義的勢力までをも取り込んだ左右合同の組織である。

<script type="text/javascript"></script>

経緯

大政翼賛会の発足

内閣総理大臣をつとめた近衛文麿公爵を中心として、国家体制の刷新を求める革新派を総結集させて新党を結成する構想は比較的早い段階から検討されていた。1938年国家総動員法衆議院内の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれた際には有馬頼寧農林大臣伯爵)・大谷尊由拓務大臣らが近衛を党首とした新党をつくって解散総選挙をおこなうことを検討したが、「近衛新党」に党を切り崩されることを恐れた政友会民政党が一転して同法に賛成して法案が成立したために新党の必要性が薄くなったことにより一旦この計画は白紙に戻ることになった。

近衛の総理辞任後、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、国際情勢の緊迫化にともなって日本も強力な指導体制を形成する必要があるとする新体制運動が盛り上がり、その盟主として名門の出であり人気も名声も高い近衛に対する期待の声が高まった。既成政党側でも近衛に対抗するよりもみずから新体制に率先して参加することで有利な立場を占めるべきだという意見が高まった。民政党総裁町田忠治と政友会正統派の鳩山一郎が秘かに協議して両党が合同する「反近衛新党」構想を画策したものの、民政党では永井柳太郎が解党論を唱え、政友会正統派の総裁久原房之助米内内閣倒閣に参加して近衛首相再登板を公言したために合同構想は失敗に終わり、民政党・政友会両派(正統派・革新派)ともに一気に解党へと向かうことになった。

近衛も第3次近衛内閣成立後にこの期待に応えるべく新体制の担い手となる一国一党組織の構想に着手する。なお、その際、近衛のブレーンであった後藤隆之助が主宰し、近衛も参加していた政策研究団体昭和研究会東亜協同体論新体制運動促進などをうたっていた。

構想の結果として大政翼賛会が発足し国民動員体制の中核組織となる。総裁は内閣総理大臣。中央本部事務局の下に下部組織として道府県支部、大都市支部、市区町村支部、町内会、部落会などが設置される。

1940年、すでに結社を禁止されていた勤労国民党右翼政党の東方会を除くすべての政党が自発的に解散し大政翼賛会に合流していた。昭和研究会も大政翼賛会に発展的に解消するという名目によって1940年11月に解散した。もっとも、議院内の会派は旧来のまま存続し、また大政翼賛会自体は公事結社であるため政治活動はおこなえず、関連団体である翼賛議員同盟などが政治活動をおこなった。これは、「バスに乗り遅れるな」という言い回しで知られるが、解散した各政党や内務省等も大政翼賛会内における主導権を握るため協力的な姿勢をとったものの、団体内は一枚岩ではなく、一国一党論者の目指したものとは大きく異なっていた。

このように、大政翼賛会を中心に太平洋戦争大東亜戦争)下での軍部の方針を追認しささえる体制を翼賛体制という。1942年4月30日に実施された第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、466人(定員と同数)の候補者を推薦し、全議席の81.8%にあたる381人が当選した。

1942年6月23日には大日本産業報国会農業報国連盟商業報国会日本海運報国団大日本婦人会大日本青少年団の6団体を傘下に統合した。その後、1945年3月に組織の一部が翼賛政治会を改組した大日本政治会と統合され、6月に本土決戦に備えた国民義勇隊結成により解散となったが、これが政府首脳と軍部による強引な統廃合であったため、これに反発をいだいた翼賛政治会の一部が護国同志会などを結成して軍部と結んだ大日本政治会に対抗するなど混乱を来たし、収拾がつかないまま日本は終戦をむかえることとなった。

なお、現代では、大政翼賛会のような組織は存在しないが、国会などにおいては野党与党の独裁的手法を揶揄する言葉として使用することが時折見受けられる。

性質

大政翼賛会の幹部たち(右端の人物は有馬頼寧)

大政翼賛会は政党か否かという疑問はその誕生時から存在した。「一国一党(あるいは組織)の強力な政治体制を目指す」という主張は、ナチスファシスト党(あるいは公言はされなかったがソビエト連邦共産党)を理想の形態と考える勢力からしばしば語られたが、これに対しては、「大日本帝国憲法は天皇親政を旨とするものであって、首相を指導者とした一国一党組織は国体に反する」とする立場(いわゆる「観念右翼」)からの「幕政論批判」が存在した。

この対立は設立過程では充分に解消されず、大政翼賛会の発会式(1940年10月12日)では、政治組織であれば当然あるべき綱領・宣言の類は首相であり翼賛会総裁の近衛文麿の口からは発表されなかった。

その後も「大政翼賛会違憲論」はおさまらず、1941年(昭和16年)1月に開かれた第76帝国議会および2月6日貴族院予算総会において、近衛が現状の大政翼賛会に憲法上の問題がある事を事実上認めた。続いて、もともと政治結社としての大政翼賛会には反対していた内務大臣平沼騏一郎(元首相)も治安警察法上の政事結社ではなく公事結社であると宣言した[1]。この認定にともなって政治活動が禁じられる。

同年4月1日に革新派の反対を抑えて翼賛会の改革案が提示され、直後に政治団体化を目指していた近衛側近の有馬頼寧伯爵が事務総長を辞任するなど、やがて次第にその性格は政府の施策に側面から協力していく補完的・行政組織的なものに縮退していった。そして、総裁を首相が、道府県支部長を道府県知事がそれぞれ兼任することとなった。

上記の点から、戦後の漠然としたイメージとは異なり、大政翼賛会の実態はナチスのような独裁政党とはまったくかけ離れた組織であった。

歴代総裁

  1. 近衛文麿
  2. 東條英機
  3. 小磯国昭
  4. 鈴木貫太郎]

歴代副総裁

  1. 柳川平助:1941年3月28日 - 1941年10月22日
  2. 安藤紀三郎:1941年10月22日 - 1943年4月20日
  3. 後藤文夫:1943年4月21日 - 1944年7月22日
  4. 緒方竹虎:1944年7月22日 - 1945年6月13日

歴代事務総長

  1. 有馬頼寧:1940年10月12日 - 1941年3月27日
  2. 石渡荘太郎:1941年3月29日 - 1941年10月22日
  3. 横山助成:1941年10月28日 - 1942年6月15日
  4. 後藤文夫:1942年6月15日 - 1943年6月2日
  5. 丸山鶴吉:1943年6月2日 - 1944年2月25日
  6. (取扱)後藤文夫:1944年2月25日 - 1944年3月18日
  7. 小畑忠良:1944年3月18日 - 1944年7月22日
  8. 安藤狂四郎:1944年7月22日 - 1945年6月13日

大政翼賛会は政党か否かという疑問はその誕生時から存在した。「一国一党(あるいは組織)の強力な政治体制を目指す」という主張は、ナチスファシスト党(あるいは公言はされなかったがソビエト連邦共産党)を理想の形態と考える勢力からしばしば語られたが、これに対しては、「大日本帝国憲法は天皇親政を旨とするものであって、首相を指導者とした一国一党組織は国体に反する」とする立場(いわゆる「観念右翼」)からの「幕政論批判」が存在した。

この対立は設立過程では充分に解消されず、大政翼賛会の発会式(1940年10月12日)では、政治組織であれば当然あるべき綱領・宣言の類は首相であり翼賛会総裁の近衛文麿の口からは発表されなかった。

その後も「大政翼賛会違憲論」はおさまらず、1941年(昭和16年)1月に開かれた第76帝国議会および2月6日貴族院予算総会において、近衛が現状の大政翼賛会に憲法上の問題がある事を事実上認めた。続いて、もともと政治結社としての大政翼賛会には反対していた内務大臣平沼騏一郎(元首相)も治安警察法上の政事結社ではなく公事結社であると宣言した[1]。この認定にともなって政治活動が禁じられる。

同年4月1日に革新派の反対を抑えて翼賛会の改革案が提示され、直後に政治団体化を目指していた近衛側近の有馬頼寧伯爵が事務総長を辞任するなど、やがて次第にその性格は政府の施策に側面から協力していく補完的・行政組織的なものに縮退していった。そして、総裁を首相が、道府県支部長を道府県知事がそれぞれ兼任することとなった。

上記の点から、戦後の漠然としたイメージとは異なり、大政翼賛会の実態はナチスのような独裁政党とはまったくかけ離れた組織であった。

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「子供のように怒るな」=平和賞で中国批判―ハベル氏

2010年12月09日 11時54分17秒 | 国際・政治

 【香港時事】8日付の香港紙リンゴ日報によると、チェコのハベル前大統領はこのほど、中国政府が獄中の民主活動家、劉暁波氏のノーベル平和賞受賞に強く反発していることについて「子供のように怒るのではなく、改めて劉氏の受賞について理性的に考えてみるべきだ」と批判した。プラハで同紙のインタビューに応じた。  チェコスロバキアが社会主義体制だった1977年、人権尊重などを求める「憲章77」を発表して投獄されたハベル氏は、劉氏らが2008年に発表した「08憲章」と「憲章77」は「兄弟のようなものだ」と指摘した。 また、「中国のような独裁国家も真の繁栄を望むのなら、遅かれ早かれ自由化しなければならない」と語った。 [時事通信社] 2010年12月8日(水)18:03

「ウィキリークス」の機密暴露によりますと中国の外務省側は、北朝鮮を「駄々っ子」言ったそうですが。最近の覇権主義による中国の外交政策も同じでは有りませんか。他国の立場も考えない自己中心的なゴンタ坊主です。社会主義国は、なぜ人民の基本的人権と表現の自由を弾圧し続けて来たのか。軍部独裁と党中心の労働貴族を生んだのは、独裁的な帝国主義国家と思いますが。労働者の権利を本当に守って来たのだろうか。中国政府が獄中の民主活動家、劉暁波氏のノーベル平和賞受賞に強く反発しているのは、大陸人として心が狭く国家として中国の品格、国際的な中国の信用と信頼を損なうものです。『チェコスロバキアが社会主義体制だった1977年、人権尊重などを求める「憲章77」を発表して投獄されたハベル氏はチェコのハベル前大統領の、「中国のような独裁国家も真の繁栄を望むのなら、遅かれ早かれ自由化しなければならない」 』と語ったのは、世界的な時代の潮流で中国が民主化されれば、アジア諸国も緊張が緩和されて平和的共存の時代が来るのではないでしょうか。中国と北朝鮮の民主化が、アジア諸国のキーワードです。

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小説や新聞読む生徒、読解力で高得点…学力調査

2010年12月09日 11時14分50秒 | 受験・学校

 『7日に結果が発表された2009年の国際学力調査(PISA)に伴う生徒への質問調査から、小説や新聞を読む生徒の読解力得点が高いことがわかった。 PISAの得点は、OECD加盟国平均が500点になるよう調整している。日本の読解力の得点は、「小説を読まない」グループが平均501点だったが、「読む」グループは47点高い同548点。同様に「新聞を読まない」グループ同506点に対し、「読む」は25点高い同531点で、いずれも「読む」生徒の得点がかなり高かった。 また、「趣味で読書はしない」生徒の割合は44・2%で、00年から10・8ポイント減と改善した。OECD平均(37・4%)と比べると依然高いが、00年で比較可能な国・地域の中では最大の減少率だった』。2010年12月8日(水)10:22

小説や新聞を読む生徒は、読解力が高い、日本語の読解力、国語力の基礎が、大切と言うことでは無いでしょうか。分かり難い語句や表現、難しい漢字は、辞書で調べれば良いですし、無味乾燥な漢字の練習帳で勉強するより有意義と思います。文章を読むことや文章を読む習慣の付いている生徒は読解力が身に付いていて、国語力が英語学ぶことにおいても基礎力になるのでは有りませんか。他の教科を学ぶ基礎学力にもなると思います。今の国際化時代だからこそ日本語が、正しく読め、話せ、書けること我大切です。母国語の日本語教育、国語の教育の大切さ今こそ見直すべきでは有りませんか。小学校から日本語の文章力をつける為作文を取り入れて、先生の添削指導に力を入れるべきです。

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