ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 杉山伸也著 「グローバル経済史入門」 岩波新書(2014年11月)

2016年03月16日 | 書評
18世紀から20世紀の経済史におけるグローバルな物・金・人・情報の移動 第8回

第2部 ヨーロッパの時代ー19世紀 (その3)

アジアの近代化を、中国・日本・タイについて見てゆこう。その時代のアジア情勢については、吉沢誠一郎著「清朝と近代世界 19世紀ーシリーズ中国近現代史1」(岩波新書 2010年)に詳しいので参考になる。アヘン戦争の背景となるイギリスの3角貿易関係を下に図示する。19世紀は凶暴なヨーローパ列強国が科学技術を背景に優越した軍事力を行使して、経済市場支配を求めて世界中を侵略しそして植民地化してゆく世紀である。この時期のアジアで国家的独立を維持できたのは、中国、日本、タイ、ペルシャ(イラン)であった。下の図は表の交易と裏の交易を示す。表の交易とは中国の茶を英国が東インド会社を使って買い付ける流れである。東インド会社は毛織物の輸出との差額を銀で支払っている。東インド会社はロンドンに茶を送って決済手形を得る。裏の取引とはイギリス地域貿易商人がインドから仕入れたアヘンを密輸業者を通じて中国に売り、中国から銀を受け取る。地域貿易業者はこの銀を東インド会社に持って決済手形をえてロンドンに送る。こうして表の取引と裏の取引において、銀と決済手形は循環しているのである。
1820年代にはインド・中国間貿易はアヘン輸出によってインドの輸出超過となり、中国から大量の銀が流出した。アヘン吸引人口の急増と銀流出に苦慮した清朝政府は林則徐をしてアヘン取り締まりを強化した。イギリスの武力行使によってアヘン戦争(1840-42年)が始まった。圧倒的なイギリスの軍事力の前に屈服した世院長は南京条約を結んで、南部海岸の五港を開港した。さらにアメリカとフランスと不平等条約を結ばざるを得なかった。近代ヨーロッパ的国際法による「条約体制」に中国は呻吟した。イギリスは1956年フランスと共同で広州を占領し「アロー号戦争(第2次アヘン戦争)」を起し、1958年天津条約、1860年に北京条約を結び、アヘン貿易を合法化し、香港、上海の開港場にはイギリスの銀行が設立された。中国から東南アジアへの出稼ぎ民は「苦力」、「華僑」と呼ばれ、開港場で貿易を牛耳ったのは「買弁」(ネットワークを持つコンプラドール)と呼ばれ、中国の商業経済体制も発展した。列強の前で清朝の威信が低下し、キリスト教徒による太平天国の乱(1851-64年)が起きたが、清朝洋務派の曽国藩、李鴻章らの漢人官僚らが乱を平定し、洋務派による近代化政策が行われた。第1期は1860-70年代の軍備の近代化であり、「官督商弁」(官営企業)であった。しかし1884-65年のベトナムにおける清仏戦争に敗北したが、これを契機に海軍を中心とする軍備の増強と製鉄業の振興を図った。清朝の支配が弱まると群雄割拠の軍閥化が進み、洋務派の近代的国家形成は進まなかった。フランスは1850年以降インドシナの進出し、ベトナム三省を割譲させ、63年にはカンボジアを保護国化した。83年にはベトナムを保護国化した。中国は1871年に日本の明治維新政府と「日清修好条約」という不平等条約を結んだ。1876年日本は朝鮮と「日朝修好条約」を結び三港を開港させ、朝鮮対する日本の進出を許した。朝鮮における日本と中国の対立は1894年「東学党の乱」を契機にして日清戦争となった。日本に破れた清朝は95年に「下関条約」によって、朝鮮の自主独立承認と、遼東半島・台湾の日本への割譲、四港の開港などを認めた。日本は賠償金によって日清戦争の戦費を賄い、金準備にあてて金本位制を確立し、先進国入りを果たした。中国の近代化政策は1998年「戊戌政変」で康有為が変法運動という体制改革を行ったが短期で失敗し、1900年「義和団事件」という排外主義的傾向が強まった。清朝は西洋と日本の8か国に宣戦布告をしたがあっさり敗北し、北京条約を結ばされた。民間では孫文らが三民主義(民族・民権・民主)を主唱し、1911年「辛亥革命」によって清朝は滅亡した。

(つづく)


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