ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 三浦祐之著 「風土記の世界」 (岩波新書2016年4月)

2017年07月25日 | 書評
8世紀初め編纂された地理志(奈良時代の国状調査) 第2回

序(その2)

 現在遺された風土記には、欠損はあるもののほぼ全容がわかる五ヶ国と、後世の文献に引用されて散逸を免れた風土記の断片群(逸文)とがある。その内容や構成、趣がバラバラなところが風土記の面白さである。713年に官命(官符)は機内七道に向けて発せられた。官符が出た時点で存在した諸国とは六一か国と三島である。現在まとまった形で遺る風土記は、常陸、出雲、播磨、豊後、備前の五か国である。逸文には古風土記の残簡とするには疑わしいものも多く、確かなところはおよそ30-40か国ではないだろうか。五か国の風土記は別の章にその内容を述べるが、五か国の風土記と逸文の概略をまとめておこう。
① 常陸国風土記: 常陸国風土記は「常陸国の国司の解 古老の相伝ふる旧聞を申す事」という標題から始まっている。5ヶ国の風土記の中の模範解答であろうか。巻頭に常陸国の全体を紹介する「総記」が書かれ、後は新治郡から反時計回りに筑波、信太、、茨城、行方、鹿島、那賀、久慈、多珂という順で記述される。筑波の北にある白壁(今の真壁)、南の河内(今の水海道)が省略されている。ただ途中にいくつも「以下略す」という書き込みががあり、かなり地誌的な部分が省略された写本(ほとんどが江戸時代の写本である)しか残っていなかった。その代わり物語的な性格が強い読み物が残った。撰録者は国守が責任者であるが、国司層が各地の豪族からのヒアリングあるいは提出文書を整理し執筆したようである。執筆場所は国府で行われた。「郡里制」の行政組織は715年に「郡郷制」が施行された。常陸国の行政府の表記は「里」制で統一されているので、風土記の提出は713年から717年あたりと推測される。その当時の常陸国守は708年に任命された安部狛朝臣秋麿か714年に任命された石川朝臣難波麻呂のどちらかでるという。撰録者に異論があって、鹿島に縁が深い中臣氏(藤原家)の藤原宇合が719年に常陸国守に任命されている。常陸国風土記は見事な漢文を駆使しており、遣唐使から帰ったばかりの宇合が精査した可能性が高い。そして歌人高橋朝臣虫麻呂が常陸国に同行したかもしれない。ここで問題は日本書紀が成立する720年以前か後かということである。安部狛朝臣秋麿か石川朝臣難波麻呂が撰録したとすると日本書記以前にできたことになる。律令制の正史日本書記の前にできたからこそ、「倭武天皇」という表現が通ったのであると著者は考えた。
② 出雲国風土記: 出雲国風土記はその成立と撰録者がはっきりと記された唯一の作品である。出雲の国はヤマト王権との関係が密接なため、かなり神経を使って政治的な潤色が施された神話的・宗教的に特別な性格を持たされている。従って何回も中央との往復(駆け引き)があったため、編纂命令から提出に20年もかかっている。巻末に「733年(天平5年)2月30日勘へ造る ・・・国造にして大領を帯びたる・・出雲臣広嶋」という記載がある。直接筆を執ったのは神宅臣金太理で724年「出雲の国造神賀詞」の作者でもある。広嶋は責任者である。郡ごとの撰録者が明示されている。これらのことから出雲国風土記の成立ははっきりしている。中央政府の命令である官符は朝廷の出先機関である国庁(国守)に向けて出されたもので、撰録は中央から派遣された国司レベルで行われはずである。それが、出雲国風土記では郡司層が記録し、国造が責任者になっていることが問題であろう。それは後で検討するとして、全体は巻頭に総記をおき、国府のある意宇群から反時計回りに、嶋根、秋鹿、楯縫、出雲、神戸、飯石、仁多、大原の順に記事を述べて巻末を記すという体裁が整っている。省略や脱落もなく完全な形で遺っている。内容は土地の肥沃度を除いて他の4項目が記されている。地誌的な記載が主である。また出雲の国風土記は、ほかの風土記と違って天皇が登場する伝承を一つも伝えていない。同じようにヤマト(大和、倭)という言葉もない。出雲風土記はあたかも出雲の独自の視線で書かれているようである。「国引き詞章」は、八束水臣津野命が鎮座した「意宇の森」を定点として、島根半島を西から東に引き寄せる構造を持つ。それは出雲国が王権的な国として存在し、ヤマトを中心とした律令国家の視点は見いだせない。その2重性の中に出雲国が存在するのである。しかしヤマト政権に完全に背を向けていられるかというと、古事記に記された出雲神話が出雲国風土記には語られていないことがあげられる。そのその古事記は国家の歴史書ではなかったのであろう。とはいえ出雲国風土記にも郡の並べ方に日本書記的な「七道」の律令国家の論理は現れている。
③ 播磨国風土記: 播磨国風土記は平安時代末頃に書き写された写本が伝えられる。巻頭の明石郡が欠落し、時計回りに賀古、印南、飾磨、揖保、讃容、宍禾、神前、託賀、賀毛、美嚢の順である。西端の赤穂郡はない。巻末や奥付はなく、成立年や撰録者もわからない。播磨風土記の記事が郡里制に基づいているので、常陸国風土記と同じく713-717年の間に位置づけられる。他の文献にもその期の国守の名は分からない。民間伝承として語られる地名起源話が多く採録され、ヤマトの天皇ではホムチワケ(応神天皇)の伝承が多い、笑い話のような滑稽譚が存在すること、出雲神話の神(オホムナジ)がしばしば登場する子t、土地の肥沃度の記述が細かいことなどの特徴を持っている。
④ 豊後国風土記・肥前国風土記: 西海道の風土記として豊後国(大分県)風土記と肥前国(佐賀県と長崎県)風土記が遺されている。いずれも抄出本で完全ではない。西海道の風土記である豊後国風土記と肥前国風土記を「甲類風土記」と呼ぶ「郷里」制に基づいて記述されており日本書紀の引用が散見されるので、成立は720年以降である。共通の表記が見られるので、大宰府で最終的な撰録がなされたようである。筑紫国(九州全体を指す)風土記を「乙類風土記」と呼ぶ。甲乙どちらが古いかは諸説紛々で判別できない。日本書紀の九州関係の記事にはオキナガシタラシヒメ(神功皇后)やオホタラシヒコ(景行天皇)の遠征に関わる記事が日本書紀時のものか、共通の祖伝が存在するのかよくわからないところである。
⑤ 逸文風土記: 後世の文献に引用されて遺った諸国の風土記の記事を「逸文風土記」と呼ぶ。713年の官命によってできた風土記の記事もあるが、それとは別の時代に書かれた記事も風土記と言って拾われたりするので、判断の難しい資料が多い。例えば「浦島子」という伝記小説(丹後国風土記逸文)や、天女系伝承(近江子国風土記逸文、丹後国風土記逸文)など、文学史的な興味は尽きない。常陸国風土記に「常陸国の国司の解 古老の相伝ふる旧聞を申す事」と始まる。

報告すべき内容は
①郡や郷の名前を付ける、
②特産品の目録を作成する、
③土地の肥沃度を記録する、
④山川原野の名前の由来を記す、
⑤古老が相伝する旧聞遺事を載せる 
の5項目である。現存風土記が最も重きを置いているのが「古老相伝旧聞異事」である。国家や王権に隷従する「語り部」や、共同体から外れた「ホカヒビト」(乞食者)まど専門的な語りの集団に対して、村落共同体の伝承の担い手が「古老」である。共同体に相伝される「旧聞異事」を律令国家が要求したのは、諸国を地方都市て律令国家に組み込もうとしたからである。諸国がそれらを「解」として報告することは服従の証であった。今日でいう「東京と地方」の関係である。共同体の外、外と接する存在、疎まれる存在である。疎外と搾取、外部化である。古代における語りは「ホカヒビト」という専門家集団であった。古事記の序にある稗田阿礼は王権の語り部である。天皇家とは別に存在した各地の王権がヤマトに服従していった歴史と関わって伝承された。その次第を諸国の語り部が、天皇の即位儀礼の中で語った。「出雲の国造神賀詞」がその例である。王権の維持装置である語り部は同時に呪力(シャーマン性)を帯びる。

(つづく)

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文芸散歩 三浦祐之著 「風土記の世界」 (岩波新書2016年4月)

2017年07月24日 | 書評
8世紀初め編纂された地理志(奈良時代の国状調査) 第1回

序(その1)

 古事記、日本書紀、万葉集と並んで日本の古代を知る貴重な書物でありながら、「風土記」は系統的な史書や歌集と違って、あまり言及されることが少ないようである。風土記はそれぞれの国で編まれて中央律令政府に提出された書物であるが、今は5か国の風土記と後世の書物に引用されて伝わる「逸文」が遺るに過ぎない。記録されているのは、土地で語られた神話や土地の言われ、天皇たちの巡行、土地の動植物、耕作地の肥沃状態などである。雑多でストーリー性に乏しいことから、退屈で体系的に理解できないなど不満が多い書物であるが、それなりに面白い表現もあって興味は尽きないと著者三浦氏は言われる。「風土記」とは8世紀初頭に地方の国々が中央律令政府に提出した報告文書で、正式には「解」と呼ばれる。「読日本紀」によると、平城京へ遷都が行われて3年目の713年(和銅6年)に中央律令政府(奈良王朝)が風土記の撰録の命令を出した。報告すべき内容は①郡や郷の名前を付ける、②特産品の目録を作成する、③土地の肥沃度を記録する、④山川原野の名前の由来を記す、⑤古老が相伝する旧聞遺事を載せる の5項目であった。この命令には「風土記」という名はない。本来は律令政府が下級官庁に出す通達は「符」、地方が中央へ提出する報告書は「解」と呼ばれる。常陸国風土記の冒頭には「常陸国司解」と書かれている。権力簒奪に明け暮れた飛鳥王朝(ヤマト王権)以来、7世紀初頭推古天皇(聖徳太子摂政)の斑鳩王朝が初めて歴史意識を持って律令国家に整備されてゆく過程で、日本書紀や風土記は必要不可欠のことであった。当時の東アジア情勢は中国大陸で隋という強大な王朝が生まれ、唐に受け継がれ、新羅が朝鮮半島を統一した。島国の豪族連合から、唐に倣った中央集権的な統治機構を持つ国家に生まれ変わるため、それに必要な法整備を輸入した。当時の日本はある意味で周辺国家の国際色豊かな国であり、ネイティブな中国人や朝鮮人が活躍していた時代である。現実的な法整備の他に、イデーとしての史書、経済としての貨幣、政治中心としての都と地方、それを繋ぐ官僚機構、意思伝達のための言語(漢字)が次々に導入された。律令国家への整備において、法と史は車の両輪のように企画されてゆく。刑罰(律)を伴う強制力を持つ法(令)がまず機能しなければならいが、自分が国家に所属し国家によって守られているという幻想(宗教・共感など)を抱くことで国家は安泰となる。それは国家の歴史である。689年律を持たない飛鳥浄御原令を受けついで、大宝律令ができたのは701年であった。こうして名実ともに律令国家が成立した。その後大宝律令を補う形で養老律令の選定作業が718年から行われ、藤原不比等の死後722年に完成した。律令編纂事業と並行して行われたのが720年に騒擾された正史「日本書紀」である。続日本紀にはこの正史を「日本紀」と呼び系図が存在したらしい。お手本の中国では「漢書」以降の正史は、紀(本紀)・志・列伝の3部からなり、署名は「・・書」とよぶ紀伝体の形式が一般的である。正史を簡略化した歴史書を「・・紀」と呼ぶが、日本「書紀」という書名はない。従って何らかの理由で志・列伝を欠いたまま編纂事業が中断して本紀のみが残された簡略形式となって、「日本書紀」という呼び方が定着したと思われる。後代の書は紀を受け継いでいるので、「続日本紀」、「日本後紀」、「続日本後紀」と継続された。では志や列伝は編纂されなかったのだろうか。古くは推古天皇の時代に「憲法17条」が604年、「本紀」が620年に編まれたとされるが、事実かどうかは別にしてこの頃に歴史書の編纂が始まったようだ。古代律令国家の起源が聖徳太子にあり、それが645年乙巳の変を経て中大兄皇子(天智天皇)に受け継がれたという歴史認識が存在した様だ。つぎに672年壬申の乱をへて大海人皇子(天武天皇)に律令国家体制は引き継がれた。日本書紀によると681年天武天皇は帝紀及び上古の諸事を編纂を命じた。自らの帝位を正統化するためである。その成果が大宝律令と日本書紀であった。そこに古代国家は完成した。日本書紀は紀しか存在しないのだから未完の史書である。列伝は全く存在しなかったのかというと、その痕跡となる材料は存在したというべきであろう。「十八の氏の祖の墓記」、「懐風藻」、「日本武尊」、聖徳太子の伝「上宮正徳法王帝説」、藤氏家伝の「大織冠伝」、神仙小説「浦島子伝」などは列伝を思わせる。「列伝」は皇子や臣下の事蹟の集積である。「志」は王朝の治世の記録である。史や列伝が縦軸の時間だとすると、志は横軸の空間であろう。例えば「漢書」は十志からなる。律暦、礼楽、刑法、食貨、郊祀、天文、五行、地理、芸文であった。地方に関する地誌的な記録の収集作業は日本書紀にも見られる。諸国に向けて発せられた史籍の編纂命令は間違いなく「志」の一部として「日本書」地理志が目的であった。しかし何らかの事情で日本書の構想がとん挫し、上申された「解」のいくつかは「風土記」という名前を与えられて後世に残ることになった。いまひとつ「記紀」という形で残っている「日本書紀」と「古事記」のペアーの謎は深まるばかりである。正史は「日本書紀」で、中国の臣下の形をとる隷属国家日本の表の歴史書は中国へ差し出されたという説がある。それに対して712年に編まれた「古事記」は天武天皇の内なる歴史書で実はこうだったという歴史書であるという。二書は矛盾しており、真偽のほどは分らないが、本書の著者三浦氏も何も言っていない。謎のままである。

(つづく)
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読書ノート 本間 龍著 「原発プロパガンダ」 〈岩波新書2016年4月)

2017年07月23日 | 書評
電力会社と政府による原発推進宣伝の国民洗脳テクニックの数々 第9回 最終回

5) 2013年以降の原発プロパガンダ (その2)

 3.11事故以来、政府は「安全・安心」を言い出した。原発は決して安全でないことが分かったので、頼るべきは国民の非常にあいまいな「安心」意識に訴えようとするものです。安全対策や安全でるという基準などを曖昧なままにして、どうぞ安心してくださいという矛盾した訴求であり、もともと本質的に合理的ではない論理です。論理より情緒をターゲットにしたようです。ですからその広告内容も、およそ根拠のないことを平気で言います。福島県内のKFB福島放送で放映されている「なすびのギモン」では、汚染土の仮置き場で「4メートル離れれば、周辺空間と同じになります」と言いながら、線量グラフは0.5μシーベルより下がっていません。除染対象地区の多くが0.23μシーベルトを基準にしていることを忘れたかのようです。何とか今の福島は大丈夫ですというイメージを植え付けようとしています。「ダイジョウブだから大丈夫」という論理を超えた説得です。まるで宗教です。2014年8月17日に、朝日・読売・産経・日経の全国紙と福島の福島民報と民友に掲載された「放射線についての正しい知識を」という政府広告が1頁全面で掲載された。東大病院放射線科の中川恵一教授が「福島では小児甲状腺がんはない」とか「放射線に慎重になりすぎると発がんリスクを高める」という持論?を述べている。この広告費用は約1億円で取り扱い窓口は博報堂であった。この政府広告は前の年に発生した「美味しんぼ」の鼻血表現騒動を受けて内閣府予算で作られた。驚くような医者の非常識が露見された。子供の甲状腺がんが増えつつあることを無視し、気にするとがんになるというあきれた逆襲をする。医者の片隅にも置けない御用学者で、大体東大はこのような御用学者の養成場なのだろう。現在政府は、事故の深刻さを伝える報道や発言を「風評だ」と言って退け、「事故による健康被害はおきていない」ことを信用させようと躍起になっている。2014年度の政府広報予算は65億円と前年度44億円を大幅に上回った。事故前の各省庁の広報予算は総額350億円で政府広報予算は90億円であったが、民主党政権時代に大幅にカットされ、それが今また復活している。福島県を中心に実施されている「放射線被ばくリスクコミュニケーション」事業は、2015年度に7億8100万円を計上した。環境省を中心として各地でリスクコミュニケーションのセミナーを実施している。2015年3月千葉県で行われた環境省主催の「放射線の健康影響に関する住民セミナー」では、①身の回りの放射線と自己由来の被曝、②福島第1原発事故後の健康リスクを考えるという内容であった。環境省の「放射線健康不安の軽減に資する人材育成事業と住民参加型プログラムの開発」から出る資金で運営されている。このプログラムは原子力ムラの原子力コンサルタント会社が作成した。論点はもともと自然界にも放射線はあるし、医用放射線被ばくもあり、福島原発事故はそんなに心配することではないと強調するものだ。この考えには積算被曝線量が足し算で増加するという点を無視し、かつ放射線リスクは閾値がないという国際学説も無視している。リスクを否定するリスク論はそもそもあり得ない。まるでリスクコミュニケーションを知らない人がやっているようだ。2013年に「日本原子力産業協会」に広告代理店である博報堂とADKが相次いで加盟したことは重要である。電通はもともと加盟していたが博報堂も原子力ムラの一員になったのだ。一方福島県庁と福島民報は同会を脱退した。復興予算に電通は深く食い込んでいる。2012年度の環境省からの電通の受注額は40億円近いし、2013年度「風評被害対策」には各省から45もの事業に予算がつけられた。だが原発事故による被害を風評だと言って切り捨てる姿勢は、事故の本質を隠ぺいする意図が見え見えで、原発再稼働を狙う安倍政権の世論誘導策である。その再稼働世論形成に読売新聞は一役買っており、2014年7月5日に掲載された10段広告では同社特別編集委員の橋本五郎氏とタレント春香クリスティーンの対談型で「エネルギーベストミクスを考えよう」、阻止T2015円6月14日には橋本五郎氏と電事連の八木誠氏による「何故原子力が必要なのか」と題した15段広告を掲載した。さらに2016年2月28日にはカラー版15段広告「資源なき経済大国、日本のエネルギー」と題して、評論家勝間加代子氏、元知事増田寛也氏、タレント優木まゆみ氏を交え読売新聞橋本五郎氏が司会する形の対談形式となっていた。全国版の1面広告の広告費は5000万円近い。原発再稼働をめざす電力会社は2015年になって一斉に「安全PR」に力を入れた。東電を除く九州電力、関西電力、東北電力、中部電力らはメディアへの出稿を始め、仲でも中部電力は突出しており、2015年12月21日静岡新聞にカラー版15段広告「私は、浜岡原子力発電所で働いています」を掲載した。さらに勝間田加代子氏らを使った[女性エネルギー考」7段広告シリーズを展開している。恐らく静岡新聞の広告掲載料は1回500万円、シリーズものを入れると合計7回で約3500万円となる。年間約1億円の広告掲載料を中部電力から得ていることにある。中部電力は、静岡新聞以外の原発広告量もいれると年間で約2億円をこえる。さらの中部電力は電力自由化のための企業イメージ広告『中部電力はじめる部」の制作・掲載・放映料を含めると、年間広告費は4億円を超えるだろうとされる。広告の説得力(効果)はどうしてもその出稿回数に比例するので、中部電力としても、まだまだ中途半端な広告出費である。メディアを黙らすか、自粛させるにはとうてい少ないと言わざるを得ないが、それでも地方ローカル紙静岡新聞の2014年の売り上げが239億円(利益10億円)にとっては大切なお客様となる。現在のプロパガンダの中心が「風評被害の撲滅」とか「震災からの復興」では、政府が主体となったリスクコミュニケーションとなり、受益者も曖昧でいまいち力が入らないというのが実情である。反対に原発プロパガンダに対するリテラシーはどうあるべきを考えると、第1には目の前の二ユースを軽々と信用しないで、自分の頭で考えることが重要だる。第2にプロパガンダ媒体以外に、ウエブ、ツイッターなどを活用して独立系メディアの情報を知ることである。第3に大事なことは、原子力ムラがスポンサーしている広告に虚偽をみつけたら、掲載メディアに抗議の声を届けることだという。資金を持っている政府は大企業は凄まじい量のPRで国民意識を麻痺させようとする。それに抗う第1歩は、個人の意識をしっかり持つことである。

(完)
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読書ノート 本間 龍著 「原発プロパガンダ」 〈岩波新書2016年4月)

2017年07月22日 | 書評
電力会社と政府による原発推進宣伝の国民洗脳テクニックの数々  第8回

5) 2013年以降の原発プロパガンダ(その1)

 2011年3.11の事故当時、事故の全容が判明せず、それまで原子力ムラの呪縛下にあったテレビメディアは、なかなか東電批判には踏み切れなかった。事故当日の夜には原子炉内で燃料棒のメルトダウン、原子炉壁のメルトスルーはおきていたが。政府保安院と東電は5月末まで、メルトダウンを認めなかったが、広告費の呪縛が解けた多くのメディアは、東電福島第1原発で起きている現況について一斉に報道を始めた。3月19日から6月25にTまでの雑誌の取り扱い頁数は「週刊現代」が614頁、週刊ポストは180頁であった。また2011年3月から2012年3月末までの原発関連著作の発行数では、講談社が67冊、小学館が13冊、文芸春秋が21冊、集英社が24冊、宝島社が41冊、光文社が9冊であった。原発プロパガンダの中心であった東電は事実上の国有化となり、原発はすべて停止させられた。電力会社は軒並み赤字となった。そしてあからさまな原発広告は姿を消した。のど元過ぎればの言葉通り、民主党政権が選挙で大敗し自民党安部政権が誕生した2012年9月から原子力ムラは息を吹き返した。そして事故後最初の原発広告の再開が、2013年3月24日に電事連と日本原燃が青森県のローカル紙東奥日報に掲載した30段広告(見開き全面広告)であった。原発プロパガンダの表看板神津カンナが話を聞く体裁で原発翼賛広告であった。「失敗こそ成功のカギ」とか「国家の自立にはなくてはない技術」というコピー文句には事故の反省が全くなかった。2014年1月から「週刊新潮」に不定期に掲載された電事連の広告は「原発が停止すると、割高な原油を購入しなければならず、国富のマイナス」という新しいロジックだが、逆に原油安が進行し電力会社は事故後はじめて黒字となったという皮肉な結果であった。このシリーズ広告は4回あり登場した著名人は、デーモン閣下、手島竜一(外交評論家)、舞の海、宮家邦彦(外交評論家)であった。タレントの発言は本人の考えではなく、コピーライターの書いたシナリオである。タレントは高額のギャラで出演するのだが、欄外に「提供:電気事業連合会」とあるので広告と分かるのだが、一見座談会風に作られている記事のように装っている「騙しのテクニック」が使われている。この広告費用はカラー版でゆうに1000万円を超えている。外交評論家の口を借りる態で、「複雑な問題に簡単に白黒をつけることに違和感を感じる」と反原発世論に対して説教をしている。3.11事故の前と後では広告の訴求点がどう変化したかを見てゆこう。事故前では
①原発は絶対安全、
②原発はクリーンエネルギー、③原発は日本のエネルギーんの1/3という3本柱が必ず盛り込まれていた。2000年以降はプルサーマルの宣伝に
④原発は再生可能エネルギーが追加されていた。
3.11後は電通や博報堂は次のスローガンを考えた。
①原発は日本のベースロード電源、
②化石燃料に頼る発電は炭酸ガスを排出する(環境に優しい)、
③経済発展にはエネルギーベストミックスが必要(原油輸入は国富の流出)
というフレーズに変えた。青森県の六か所村再処理工場を運営する日本原燃と、福井県の高速増殖炉もんじゅを経営する原子力研究開発機構(文部省系)には共通の悩みがある。それは巨額の投資を行いながら事故・故障で一度もまともに動いていないことである。六か所村は今まで2兆円以上の建設費を投入してなお19兆円の費用が掛かると試算している有様である。核燃料はワンパスが一番経済的で、再生事業は成り立たないと欧米では結論をだしているにもかかわらず、日本では止めないのである。だからプルトニウム核抑止力という軍事利用の疑いを世界中から持たれているのである。そういう事実を隠すかのように、青森県では広報活動が盛んである。青森県のテレビ3局とラジオ2局で提供番組を持っている。福井県では2015年2月8日に福井新聞の15段(片面全紙)広告を出した。「ガンの原因は生活習慣」といった根拠薄弱な主張、理屈を超えた安全性強調がそれである。ところが「もんじゅ」は1995年のナトリウム漏れ事故以来一度も運転していないばかりか、2013年に「無期限運転停止処分」を受け、運営者である日本原研機構の解体を勧告されていたのである。この厚顔破廉恥さにあきれ入るばかりである。3.11事故以来メディアも広告受け入れに慎重になり、原発の安全性を謳う広告がほぼ不可能になった。そこで原子力ムラは原発事故の矮小化と、「事故で放出された放射線の危険性は小さく、健康への心配はない」という「安心神話」の流布に切り替えた。高線量被曝は原爆と同様に死亡につながるが、低線量被曝は直ちに影響が出るというわけではなく一定時間が経ってガン発生につながることを無視して、影響はないと居直ったのである。福島県を中心に「復興対策費」から「健康不安軽減対策」や「風評被害対策」という予算が付くようになった。2014年9月福島県は中間貯蔵施設」の受け入れを決めた。県内で発生した汚染土や焼却灰を最長30年間保管する施設で、1兆1000億円の建設費が見込まれている。建設業者がにわかに色づき始めた。他の県ではそれらは「指定廃棄物」として最終処分場を建設しなければならない。2014年8月環境省が電通に委託して7億円で広告を作成したが、住民が「指定廃棄物は原子力施設で発生した放射性廃棄物ではありません」といった詭弁(原発の事故で漏れた放射性物質によって汚染された廃棄物であるにも関わらず)を弄したことに対して「国はウソを言っている」と反発し、9月環境省に修正をせまった。2012年ー2013年の環境省の廃棄物情報の広報に使われた広告費はすべて電通が受注し、合計41億円であった。

(つづく)

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読書ノート 本間 龍著 「原発プロパガンダ」 〈岩波新書2016年4月)

2017年07月21日 | 書評
電力会社と政府による原発推進宣伝の国民洗脳テクニックの数々  第7回

4) 2000-2011年の原発プロパガンダ

 2000年代の原発稼働は北海道の泊原発のみであったが、全国紙、テレビでの宣伝活動は切れ目なく続いていた。それは2002年に東電トラブル隠し発覚により、それまで原発翼賛一色だった福島県民の姿勢を変えた。2000年代の原発PRの特徴は、NUMO(原子力発電環境整備機構)の参加があげられる。それまで先送りしてきた放射性廃棄物の処分場問題がいよいよ喫緊の問題として電力会社に迫ってきたのである。それまで原発プロパガンダの2本柱であった東電と電事連にくわえて、NUMOが加わり、3本柱によるPR体制が確立した。NUMOは全国数十か所でシンポジウムを実施し、地方紙に広告を出稿していたが、処分場に手を挙げた自治体は存在しなかった。NUMOの活動費は年間40億円であるが、電力9社が電気料金から負担している。テレビキー局のニュース番組の多くを東電、電事通、NUMOが提供していたんは、番組提供すれば原発に批判的なニュースが流れないようにするためであった。また2000年代はプルサーマル計画の実施に当たり、その周知のための出稿量も増加した。例えば2009年の広告掲載段数は4364段、2010年は3731段と過去最大であった。東電の普及開発関係費は常時年間200億円を下回ることはなかった。1997年の京都議定書採択以降推進派は環境保護という名目で「原発はクリーンエネルギー」というコピーを大いに活用した。クリーンエネルギーという命題は炭酸ガスを出さない発電法という点だけでは正しいが、原発工事による山や海の環境破壊、排出される大気と海水中の放射性物質、そして使用済み高レベル核燃料廃棄物処分などの問題、作業者への被曝問題、最後に事故による人的健康被害、避難問題など膨大な影響を与える発電法であり、クリーンという言い方は虚偽広告に当たる。2008年JARO(日本広告審査機構)h「発電時に炭酸ガスを出さないだけを捉えてグリーンと表現すべきでない」とくぎを刺したので、それ以降では「クリーンエネルギー」表現は減った。2002年8月29日東電のトラブル隠しがアメリカから内部告発され、2003年4月より5月15日まで東電の17基の原発は運転を休止した。信用失墜をカバーするため2004年から東電の宣伝費は増加し2005年度は293億円と過去最高となった。電事連は2000年代の民放テレビ局の対報道番組の担当シフトを徹底させ、夕方のニュース番組お数多くスポンサーして原発に対するネガティヴ報道を牽制した。報道番組はスポンサー集めが難しいので、電力会社がスポンサーを引き受けてくれ事はテレビ局にとってうれしいことで年間スポンサー料も数億から数十億円になった。日本のテレビ局と新聞社は資本が?がっているので、経営レベルにおける自粛体制は新聞社にも及ぶことになった。テレビで流された原発関連CMには、実に多くのタレントや著名人が起用された。作家佐高信氏が著した「原発文化人50人切り」に登場した文化人は膨大な数であるが、なかでも2006年4月―2011年3月までの新聞記事度は経済評論家勝間和代氏が断トツ1位、つづいて星野仙一氏、草野仁氏、玉木宏氏、北村晴男氏、岡江久美子氏、渡瀬恒彦氏らの順であった。3.11事故が起きても彼ら著名人は心の痛みは感じないのだろうか。最終核廃棄物処分場整備を行うNUMOは2000年から2011年までの12年間で総額478億円を使いながら、成果はゼロつまり処分場候補地は見つからなかった。2000年代の原発広告の特徴は、広告主と雑誌社が協力して広告紙面を作る「タイアップ広告」である。豪華なカラー版印刷で著名人との対談形式でおこなうので、読者にとって一見して記事か広告か判別がつきにくい。原子力ムラはこの「記事か広告かわかりにくい」形式を活用した。2010年度にこの原発広告を掲載した新聞社は読売新聞が10回、産経新聞が5回、日経新聞が3回。毎日新聞が2回であった。また原発広告を掲載した雑誌社は、潮が24回、婦人公論が20回、文芸春秋が12回、週刊新潮が11回、週刊ダイヤモンドが11回、週刊東洋経済が9回などであった。国民の原子力アレルギーは次第に深刻となり、もはや新規の原発建設は青森県大間原発以降は、建設計画や予知買収さえままならぬ状況になっていた。そこで原子力ムラは「原子力ルネッサンス」というキャッチフレーズで新規巻き返しを狙ったが、2011年3月11日東日本大震災と東電福島第1原発の事故によって新局面を迎えることになった。事件直後からメディアの元締めであった電通は報道管制を画策したが、情報統制を諦め社内東電チームを解散した。原発プロパガンダに手を染めていたメディアや企業・団体はいっせいに証拠隠滅に走り、HP上の記事や広告を削除した。大手新聞社や雑誌社の過去広告事例集からも原発広告は削除された。

(つづく)
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