ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男著 「日本の伝説」 (角川ソフィア文庫 1996年6月)

2017年12月19日 | 書評
「日本の昔話」の姉妹編、少年少女向けの伝説の宝庫 第1回


この「日本の伝説」は、昭和4年(1929年)著者55歳の作品で、最初は「日本神話伝説集」という題であったが、昭和7年(1932年)に「日本の伝説」と改められた。著者は伝説と昔話はどう違うのかということを本書の「はしがき」に書いています。「昔話は動物のごとく、伝説は植物のようなものであります。昔話は根無し草のように方々を飛び歩くが、どこへ行っても同じ姿を見かけることができます。伝説はある一つの土地に根を生やして、そうして常に成長してゆくものです」という。植物にはそれを養って大きくする力が、この国の土と水と日の光の中にあるのですともいう。「歴史は農業のようなものです」ということは、伝説は場所と時間を必須の要素として必要とする。しかし場所と時間を異にすると、各々の伝説は全く異なったものかと言えばそうではない。同じとはいえないまでも、同じような話は形を変え、対象を変え、語彙を変えて変化しながら各地に存在する。本書はテーマとして、咳のおば様(20話)、驚き清水(15話)、大師講(34話)、片目の魚(46話)、機織り御前(24話)、お箸成長(26話)、行逢阪(5話)、袂石(35話)、山の背比べ(24話)、神いくさ(23話)、お地蔵さま(37話)の12のテーマを選んで、その変形譚を10-50ほど全国から収集した構成になっている〈総計290話)。しかもその話には一応文献(資料名)が記されている。「遠野物語」のように必ずしも聞き語りに根拠を置くのではなく、資料に目を通して書いたようである。資料と言ってもいろいろのものがあり、古事記、風土記、地方の地理誌、民俗研究者の雑誌「郷土研究」、各地の国(郡)志、神社誌、名勝案内絵図、随筆などなど多岐にわたる。別に資料に重みづけはなく、こんな話もありますよという感覚で取り上げている。「日本の伝説」は翌昭和5年に刊行された「日本の昔話」とともに、少年少女に向けて書かれたものです。絵本のように読み聞かせる本というよりは、もっと高学年向けの読んで理解し比較分類する能力を持った児童向けの本で、我々にとっても伝説研究の入門書として好適である。当時の民俗学では、民間信仰研究とあわせて伝説研究を重んじてきたようだ。柳田氏の初期の研究として、「後狩詞記」(1909年)、「石神問答」(1910年)、「遠野物語」(1910年)などがあった。どちらかというと民間信仰研究を中心とした研究であるが、伝説研究にもつながるものであった。雑誌「郷土研究」(1913年―1919年)では民間信仰とともに、伝説の問題を取り上げてきた。雑誌「民族」(1925年―1929年)でも、民間信仰とともに、伝説の問題を取り上げた。雑誌「民族」の廃刊後に「日本の伝説」が刊行された。この「日本の伝説」以降の著作においても、「女性と民間伝承」(1932年)、「一つ目小僧」(1934年)、「信州随筆」(1936年)、「妹の力」(1940年)は民間信仰との関連から伝説の問題にも及んでいる。それに対して「伝説」(1940年)と「木思石語」(1942年)は伝統の本質について切り込んでいる。「民間伝承論」(1938年)、「郷土生活の研究法」(1939年)などにより日本民俗学は体制が整い、民俗学を形、言葉、心象の3つに分けて、伝説は言葉と心象の中間に置いた。戦後「日本伝説名彙」(1950年)、「十三塚講(194年)、「資料としての伝説」(1952年)を著わして、その考えを進めた。しかし研究者の関心は必ずしも伝説の分野にとどまらず、伝説に関する多くの資料の集積に比例せず新しい考え方は生まれなかったという。だから本書「日本の伝説」は、伝説とは何かについてそれほど明確に答えているわけではない。柳田氏は「昔話は動物のごとく、伝説は植物のようなもの」と巧みな対比をいうが、グリムは「昔話は詩的であり、伝説は歴史的である」という。ドイツでいうメルヘン(昔話)とザーゲ(伝説)に相当するようである。柳田氏は「木思石語」において、昔話と伝説の相違を次の3つにまとめている。
① 昔話は誰からも信用されないが、伝説はある程度まで信じられる。
② 昔話は時間場所を「昔あるところに・・・」で始めるが、伝説は何処か決まった場所と結びついている。
③ 昔話は定式化されているが、伝説は決まった型はない。

最も重要なことは、伝説は信じられていることである。特定の場所、人物と結びついて歴史上の事象として信じられてる。だから個別の伝説研究では信仰との関係の方が、言語との関係よりも重視される。伝説の一は歴史と文芸の中間に求められる。「平家物語」はその典型であろう。文芸の方へ流れるとかなりの自由度が許容され、いわゆる血沸き肉躍る式の歪曲的表現も、まるで見てきたかのような真実観を持って語られる。「日本伝説名彙」(1950年)では、事実との結びつきから6つの部門に分類されている。①木(笠松、銭かけ松、矢立て杉、箸杉,蕨、葦・・)、②石・磐(子持ち石、夜泣き石、姥石・・)、③水(弘法水、機織り淵、橋、堰、水神・・)、④塚(糠塚、千人塚、十三塚・・)、⑤坂・峠・山(行逢坂、山の背比べ、長者やしき・・)、⑥祠堂(子安地蔵、鼻取り地蔵、泥掛け地蔵、薬師、観音。、不動・・)である。実はこの分類は本書「日本の伝説」の章別けにそのまま適用できる分類法である。では次の本書の内容に少し立ち入りながら、伝説の分類を試みてみよう。
第1章「咳(関)のおば様」では、境を守る姥神が、地獄の仏教観念を受け入れて三途の川の奪衣婆というものが広く知られており、同じように境を守る道祖神というものも広く知られており、「石神問答」を始め「赤子塚」などで論じられている。とくに姥神に限るなら「女性と民間伝承」に説かれているほかに、「老女化石譚」とか「念仏水由来」が「妹の力」に収められている。第2章「驚き清水」では、水のほとりの姥神が、念仏の信仰を引きつけて、念仏池の伝説を生み出した。この問題の引用資料として「女性と民間伝承」と「妹の力」を挙げなければならない。第3章「大師講の由来」では、姥神とともに児の神が現れて様々な奇瑞を示したが、ダイシという言葉のために高僧の働きとなった。弘法大師、太子井戸などの奇特は、「女性と民間伝承」、「伝説」、「木思石語」、「神樹篇」などにも取り上げられた。また「大師講」という行事については「年中行事覚書」の「二十三夜塔」でも論じられた。第4章「片目の魚」では、神に供えるための魚が、わざと片目をつぶしておかれたという問題については、「郷土研究」第4巻の「片目の魚」に記されているが、片目の神、神主、「一つ目小僧」にも説かれている。第5章「機織り御前」では、神に供なえるための布が清らかな水のほとりで若い娘によって織られるたのが、山姥や竜宮の乙姫の仕業だとされる。山姥のことは「山の人生」、竜宮の乙姫につては「桃太郎の誕生」所収の「海神少童」に昔話の方面から述べられている。機織り淵た機織り池は「伝説」にも取り上げられた。第6章「お箸成長」から水の問題から離れることになる。神を迎え奉る為に、地面に木の枝をさすか、あるいは新しいお箸をさしたのが次第に成長すると信じられた。神の依代の木が様々な伝説を伴なうことは、「信州随筆」や「新樹篇」に示される。特に杖の成長した話は「神樹篇」にくわしい。第7章「行逢坂」では、国や村の境が、本は神が定めたと考えられていた。境のしるしに矢立ての木というものがあって、「矢立て杉の話」に取り上げられている。さらに詳しく論じたのが「矢立ての木」や「伝説と習俗」、「信州随筆:」、「木思石語」に収められている。第8章「袂石」については、神のこもる石がやはり成長すると信じられた。神の力がことさら石に現れるのは、「石神問答」と関係するのであるが、「生石伝説」に説かれてる。第9章「山の背比べ」では、山どうしが争ったという伝説が、その山をあがめる気持ちになったという。山の神秘につては「山の人生」で語られており、山の信仰については「山宮考」に説かれている。なお橋のねたみは「一つ目小僧」所収の「橋姫」に取り上げられている。第10章「神いくさ」では、神どうしが仲が悪いとうのは、他の神の信仰を退けるからである。特に日光と赤城の争いは「神を助けた話」に詳しく描かれている。第11章「伝説と児童」(「お地蔵さん」)では、地蔵に関する伝説を引きながら、興味深い伝説が子供によって引き継がれてきたとういう。地蔵信仰の研究は「郷土研究」誌上に「地蔵の苗字」、「水引き地蔵」、「子安地蔵」「黒地蔵と白地蔵」などが論じられてきた。地蔵遊びについては、「子ども風土記」に取り上げられた。さらに道祖神との関係について「石押問答」を始め「赤子塚の話」にも説かれている。やはり道祖神にふれながら姥神に戻っている。柳田氏は「日本の伝説」において、いわば民間伝承の比較を通じて、民族文化の特質を知ろうととするものである。伝説はむやみに他の地には広がらないと見ているが、細かに調べるとかなりの多くの土地に同じような伝説が伝えられている。伝説の展開(変化)をたどってゆくと、民族信仰の問題に至るのではないかという方法論が見られる。「日本の伝説」という本には、子安姥神などの問題が中心である。もっと広い立場で伝説と信仰を見てゆかなければならないことは今日的課題である。

(つづく)
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文芸散歩 柳田国男著 新版「遠野物語」 (角川ソフィア文庫 2004年5月)

2017年12月18日 | 書評
柳田国男の代表作、日本民俗学開眼の書 第3回 最終回

柳田氏は「遠野物語」を出す前々年宮崎県椎葉村をおとずれ、前年「後狩詞記」を刊行されている。従って「遠野物語」には異なった東西の二つの土地の民俗比較という観点が働いている。二つの地点で特別変わった奇習はないという事を信念として、土地の事情、歴史、生活状態を考えてゆこうという。椎葉は全くの山村で、遠野は城下町である「後狩詞記」は猪狩りの故実を記したもの、「遠野物語」は生活全般にわたっている。同じ狩りをとっても前者は団体しゅりょうであり、後者は個人狩猟である。しかし両地とも山幸の呪いにオコゼという小魚を秘持している。そして家の間取りを絵入りで比較している。山間に居をつくる椎葉の家は細長く、前面は縁側で背面は壁である。これに対して遠野の家はいずれもかぎの手型(L字型)である。地名の解釈は後年「地名の研究」となってゆく。この地のコメを食べ生活を共にした人の魂も死んでこの地を離れない死生観を持っている。明治42年の頃このような土地の人の話をまとめた書はなかった。「遠野物語」は現地の人の記したものではなく、採集記録の一つの形態であった。そこから民俗学という学問領域が誕生した。書かれていることは民俗資料である。人類学雑誌にその類型を見る程度であった。本書の題目は「遠野物語」、「遠野物語拾遺」の冒頭にに整理されているように、里の神、家の神、山の神など民間信仰の神々、天狗、山男、山女など山中の妖怪、家の盛衰、雪女、河童、猿、狼など動物譚、年中行事、昔話、歌謡などが語られる。これらの項目は後年民俗学の重要な問題となって成長し、数々の研究論文が発表された。なかでも柳田氏の興味を引いた問題として、神隠しの問題は山人外伝資料として資料が集められ「山のj人生」となってまとめられた。民俗学上、今日でも重要な問題は家の神であるオクナイサマ、オシラサマ、ザシキワラシである。いずれも岩手県に顕著に見られる神々で、三者には共通の性格が見られる。柳田氏の「大白神考」はまだこの微妙な差異については分らないとしている。オシラサマは伊能嘉矩氏が指摘したが、大正2年に研究成果を出した。ザシキワラシについては大正9年佐々木氏が「奥州のザシキワラシの話」を発表した。折口氏も「座敷小僧の話」を発表した。オクナイサマについてはオシラ神との関係性があるようだが、柳田氏は「雪国の春」でさっぱりわからないと述べている。「遠野物語」には昔話が二題採録されている。「牛方山姥」と「瓜子姫」である。語り口そのままに記録した例では一番古い話である。話の終わりはいつも「これでどんとどはれ」という言葉で結ぶ。NHKの遠野の旅館を題材にした朝の帯ドラ「どんどはれ」以来大変有名になった昔話の結び言葉であるので知らない人はいないと思う。遠野の神々の中で、山の神である天狗と山男は類似した内容を持つ。丈が高く赤ら顔で目が輝いており怪力の持ち主である。次に水の神については河童伝説が最も多い。人間の生活圏にいていろいろ悪戯をする困りものである。ただ遠野の河童の顔は赤いというが。雪国には雪女の怪談話が多いが、遠野の雪女は生活の戒め的なまじめな信仰の対象であったようだ。遠野の怪奇譚には人々の内面生活を伝えている。幽霊は人の心を打つ話になっている。動物譚は世界中の民話の主役でアニマルロアと呼ばれ、遠野では狼の活躍が目覚ましい。本編・拾遺を通じて、家の盛衰譚は地方の長者譚と変わりない。オクナイサマ、オシラサマ、ザシキワラシと一緒でれば家は栄え、いなくなれば家は衰退するという。「遠野物語」は日本民俗学開眼の書である。と同時に文学の書として読み継がれてきた。これはひとえに柳田国男氏の才能によるところが大きい。柳田氏は本書を書くに至った動機は今なお大切に受け継がれている。京大の動物学者、登山家として有名な今西錦司氏は山に入る後輩に「遠野物語」を推薦してきたという。自然を観察する目、一筋縄の合理では割り切れないときの態度を養うためであった。それが日本狼の絶滅の解明に役立ったという。群れを作らない狼の習性もある条件では集団行動に走るのである。またフランス文学者で京大人文科学研究所長であった桑原武夫氏は漢籍に埋もれた環境からフランス留学に旅立つときに持って行った本がこの「遠野物語」であったという。明治以来の普遍価値である西欧文明だけではなく、柳田氏の日本民俗学は独自の視点を養ったという。まさに柳田国男氏の「遠野物語」は「立学の書」である。

(完)
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文芸散歩 柳田国男著 新版「遠野物語」 (角川ソフィア文庫 2004年5月)

2017年12月17日 | 書評
柳田国男の代表作、日本民俗学開眼の書 第2回

柳田国男 年譜
明治8年(1875年)  誕生 兵庫県神東郡田原村辻川に生まれる。父松岡賢次氏は漢学者であった。
明治18年(1885年) 10歳 高等小学校卒業 辻川の旧家三木家に約1年預けられれる。和漢の漢籍を濫読する。
明治20年(1887年) 12歳 長兄(医師松岡鼎)が住む茨城県布川に移住。詩文集「竹馬余事」を作る。病身のため学校にはゆかず、隣家の小川家の蔵書を読む。関東と関西の違いに驚嘆したという。
明治22年(1889年) 14歳 松岡の両親と二人の弟が伴って茨城県布川に移住してくる。
明治23年(1890年) 15歳 東京下谷御徒町の次兄宅に同居。「しがらみ草紙」に短歌を発表。森鴎外を知り感化を受ける。歌を学ぶ。田山花袋等と知り合う。
明治26年(1893年) 18歳 第一高等学校に入学。寄宿舎に入る。翌年母と父が死去、1年間病気療養のため銚子で保養する。
明治30年(1897年) 22歳 「抒情詩」を田山花袋、国木田独歩らと刊行する。第一高等学校卒業、東京帝国大学法科大学政治家入学。
明治32年(1899年) 24歳 農政学を勉強する
明治33年(1900年) 25歳 東京帝国大学を卒業。卒業後農商務省農務局に勤務する。田山花袋、島崎藤村らと親交を結ぶ。
明治34年(1901年) 26歳 柳田家を嗣ぐ。父柳田直平は大審院判事、牛込区加賀町に住む。
明治35年(1902年) 27歳 法制局参事官に任官される。農政学を講義し、産業組合を説く。
明治37年(1904年) 29歳 柳田直平4女と結婚。横須賀捕獲審検所検察官となる。
明治38年(1905年) 30歳 全国農事会幹事となり、全国各地を産業組合の講演に回る。
明治41年(1908年) 33歳 宮内書記官任命、九州、四国を歩き、この旅行の見聞が翌年の「後狩詞記」の本になる。北陸奥州旅行。
明治42年(1909年) 34歳 「後狩詞記」刊 短歌集「松楓集」刊
明治43年(1910年) 35歳 内閣書紀官室記録課長任命。「石神問答」刊 「遠野物語」刊 新戸部稲造を中心として郷土会を作る。南方熊楠を知る。民俗学開眼の歳になる。
大正2年(1913年) 38歳 民俗学研究機関誌「郷土研究」発刊。以降4年間編集を行う。
大正3年(1914年) 39歳 貴族院書記官長となる。「山鳥民譚集」刊
大正8年(1919年) 44歳 貴族院書記官長辞任。 各地を旅行し、郷土研究を鼓舞する講演を行う。
大正9年(1920年) 45歳 朝日新聞社客員となる。「赤子塚の話」、「おとら狐の話」刊。東北旅行。
大正10年(1921年) 46歳 国際連盟委任統治委員会委員となりジュネーブ出張。翌年もジュネーブ出張。翌々年もイタリア、ロンドン旅行へゆく。
大正13年(1924年) 49歳 朝日新聞社ロンセル委員となり社説を書く。(昭和5年まで) 「炉端叢書解題」刊 慶応大学で民俗学を講義。
大正14年(1925年) 50歳 「海南小記」刊。早稲田大学で農民史を講義。北方文明研究会などを開き、折口信夫らを育てる。雑誌「民族」創刊、民俗学だけでなく人類科学研究に踏み込む。
昭和元年(1926年) 51歳 刊 吉右衛門会を開く、昔話研究の萌芽を為す。
昭和3年(1928年) 53歳 「雪国の春」刊 「青年と学問」刊 方言研究会設立
昭和4年(1929年) 54歳 「都市と農村」刊、 「日本神話伝説集」刊、「民謡の今と昔」刊
昭和5年(1930年) 55歳 「ことわざの話」刊、「日本昔話集」刊 「蝸牛考」刊、「民間伝承大意」講演
昭和6年(1931年) 56歳 「柳田国男集」刊 「世間話の研究」刊 「郷土研究十講」刊 「日本農民史」刊
昭和7年(1932年) 57歳 朝日新聞社論説委員辞職 「口誦文芸大意」刊 「日本の伝説」刊 「女性と民間伝承」刊 「山村語彙」刊
昭和8年(1933年) 58歳 「桃太郎の誕生」刊、「地名の話他」刊、「小さき者の声」刊 雑誌「島」を発刊する。
昭和9年(1934年) 59歳 民俗学研究者の集まり「木曜会」を自宅で開く。全国山村生活調査を開始。「日本の昔話」刊 「一つ目小僧他」刊 「民間伝承論」刊
昭和10年(1935年) 60歳 雑誌「昔話研究」発刊、「国史と民俗学」刊 「民間伝承の会」発足。「郷土生活の研究法」刊 「産育習俗語彙」刊
昭和11年(1936年) 61歳 「地名の研究」刊 「山の神とオコゼ」刊 「信州随筆」刊 「国語史・新語篇」刊 全国昔話の採集始まる。社会制度・家族制度に関する講演が続く。
昭和12年(1937年) 62歳 全国海村生活調査始まる。東北帝国大学、京都帝国大学で日本民俗学の講義を行う。「昔の国語教育」刊 「分類農村語彙」刊、「葬送習俗語彙」刊
昭和13年(1938年) 63歳 「服装習俗語彙」刊 「昔話と文学」刊 「分類漁村語彙」刊
昭和14年(1939年) 64歳 「歳時習俗語彙集」刊 「木綿以前の事」刊 「居住習俗語彙」刊 「孤猿随筆」刊 祭礼と民間伝承を講義
昭和15年(1940年) 65歳 「民謡覚書」刊 「妹の力」刊 「伝説」刊 日本方言学会創立会長就任 「野草雑記」「野鳥雑記」刊
昭和16年(1941年) 66歳 朝日文化賞受賞 「豆の葉と太陽」刊 東京帝国大学で日本の祭りを講義
昭和17年(1942年) 67歳 「子ども風土記」刊 「菅江真澄」刊 「方言覚書」刊 「全国昔話記録」刊行始まる。「日本の祭り」刊 「木思石語」刊
昭和18年(1943年) 68歳 「神道と民俗学」刊、「昔話覚書」刊 「族制語彙」刊 
昭和19年(1944年) 69歳 「雪国の民俗」刊 「火の昔」刊 
昭和20年(1945年) 70歳 「村と学童」刊 子ども雑誌に優しい民俗学を説く
昭和21年(1946年) 71歳 「笑いの本願」刊 「先祖の話」刊 枢密顧問官に任官される 靖国神社にて氏神と氏子を講演する。 「物語と語り物」刊 「新国学談義ー祭日考」刊
昭和22年(1947年) 72歳 「口承文芸史考」刊 木曜会は解消し、民俗学研究所が誕生。(枢密顧問官廃官) 「新国学談義ー山宮考」刊 芸術院会員となる。 「新国学談義ー氏神と氏子考」刊
昭和23年(1948年) 73歳 「村の姿」刊 「婚姻の話」刊 「北国紀行」刊 学士院会員となる。
昭和24年(1949年) 74歳 国立国語研究所評議員となる。「年中行事」刊 「北小浦民俗誌」刊 沖縄研究を行う。「母の手毬歌」刊
昭和25年(1950年) 75歳 「方言と昔」刊 折口信夫と西日本を講演旅行、日本離島村落の調査始める。
昭和26年(1951年) 76歳 「民俗学辞典」監修刊行 國學院大學で神道学の講座を持つ。三笠宮と新嘗研究会を開く、稲作文化研究を始める。「大白神考」刊 「島の人生」刊 文化勲章受章
昭和27年(1952年) 77歳 「海上の道」講演 「東国古道記」刊
昭和28年(1953年) 78歳 「神樹篇」刊 14回「農村青年と語る」放送、「不幸なる芸術」刊
昭和30年(1955年) 80歳 「柳田国男集」刊 「年中行事覚書」刊 「新たなる太陽」刊 この頃から未解決の問題について後進に託するようになる。
昭和31年(1956年) 81歳 「妖怪談義」刊 
昭和32年(1957年) 82歳 NHK放送文化賞受賞 民俗学研究所解散 「少年と国語」刊 「資料としての伝説」刊
昭和33年(1958年) 83歳 「炭焼日記」刊
昭和34年(1959年) 84歳 成城大学にて「舟の話」、「沖縄の話」をする。 「故郷70年」刊
昭和35年(1960年) 85歳 慶應義塾大学で「島々の話」講演
昭和36年(1961年) 86歳 仙台旅行 「海上の道」刊 日本民族の伝来を探る。
昭和37年(1962年) 87歳 「定本柳田国男集」刊行 8月8日死去

(つづく)
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文芸散歩 柳田国男著 新版「遠野物語」 (角川ソフィア文庫 2004年5月)

2017年12月16日 | 書評
柳田国男の代表作、日本民俗学開眼の書 第1回

柳田国男の代表作にして、民俗学誕生の書「遠野物語」は明治43年(1910年、著者35歳)に世に出た。そのいきさつを柳田国男は序文に書いている。「ここに掲載した話は遠野の人佐々木鏡石氏から、東京の自宅において明治42年2月ごろから毎月1回の夜聞き取り、筆記したものである。一字一句も加減せず感じたままを書いた。遠野にはこの類の話はなほ数百件あろう、われわれはより多くの話を聞かんことを切望する。同年8月に自分は遠野に遊びたり。花巻から十余里、町場は三か所あり。その他はただ青き山と原野なり」 遠野の印象を自分の目で確認し、佐々木鏡石氏から聞き書きした話を翌年にまとめて出版した。この類の話は現代の流行から外れているので、奇怪な話は憚れるのであるが、聴いた話は人に語らずには置けない魅力がある。「今昔物語」は大昔の話であり、近代のお伽話はいかにも妄誕であるが、佐々木鏡石氏から聞いた話は目前の話で現実味が異なる。それだけに存在理由は十分あると信じる。そして柳田国男氏は第2版出版(昭和10年、1935年)の覚書において、25年前の初版をただ重版するだけではおもしろくないので、内容を追加して「遠野物語の拾遺」として出す計画であったという。付録として重複しないようにし柳田氏の原稿と鈴木氏の原稿から構成したという。ただ初版の文体はそのまま保存したという。本書巻末に大藤時彦という人の解説がある。文中で柳田氏のことを先生と呼んでいるから、おそらくは弟子筋に当たる人であろう。その解説に沿って「遠野物語」の概要をまとめておこう。年譜にもあるように明治42年は法制局参事官の職に在って、九州日向国奈須の山村で行われている猪狩の故実を記した「後狩詞記」を自費刊行し、続いて明治43年「石神問答」と「遠野物語」を著わした。この年は民俗学開眼の歳になった。本書の初版序文にあるように柳田氏は明治42年は8月初めて遠野に行かれた。佐々木氏は遠野にはおられなかったが、自分の目で遠野を見られた。遠野の人佐々木鏡石氏とは明治41年から毎月一度市ヶ谷加賀町の柳田氏宅に小石川に住む佐々木氏が訪問する形で遠野の故事を聞き取ったようである。佐々木氏は晩年は仙台で民俗学研究に従ったが、昭和8年49歳で逝去された。佐々木氏から聞いた話や、土地に伝わる話を記録したものである。古くは安政のころ、新しいところでは昭和初年飛行機が飛んだ記事がある。遠野物語は談話筆記であるが、その文章は柳田氏の手になるものである。「遠野物語」は初版350部印刷し、定価50銭で販売されたが、約200部は親戚・知人に寄贈された。この本を受け取って批評紹介をした人物には、友人の田山花袋氏、島崎藤村氏、泉鏡花らがいた。いずれも好意的に評している。1933年中国の周作人はこれを正当に民俗学の書物として紹介している。周作人は文章の美を高く評した。折口信夫氏は神田の古本やでこの書を入手し、感激して「遠野物語」という長詩をかき、自ら民俗学に触発され同門に入ったという。本書には「遠野物語」(119項目)および「遠野物語拾遺」(299項目)が収録されている。柳田氏は「遠野物語」が刊行された翌年、佐々木氏への手紙の中で「広遠野物語」なる構想を打ち明けていたが、改訂版で追加するか方針が決まらないまま、昭和7年に一部を雑誌「古東太萬」に発表し、更に一冊の本になすべきか思案中に佐々木氏が「聴耳草紙」を出したので計画はとん挫した。佐々木氏は他界され、「遠野物語拾遺」は、柳田氏の編集方針に従って、柳田氏と鈴木棠三氏が集めた記事を同じ編集方針で、前作と同じ体裁でまとめたものである。ここに著者のプロフィール紹介と業績、代表書籍を示すために、本書の巻末にある年譜を抜き書きしてまとめておこう。刊行された著作は太字で示した。

(つづく)
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文芸散歩 西永良成著 「レ・ミゼラブルの世界」 (岩波新書 2017年3月)

2017年11月30日 | 書評
19世紀前半フランス大革命の動乱期、徒刑囚が偉大なる聖人として生涯を終えるまでの苦悩の物語 第8回 最終回

第5章 「哲学的な部分とユゴーの思想」

最後にこの小説の特徴である「哲学的な部分」について考え、その根底にあるユゴーの思想を見てゆこう。内容としては①貧困または社会主義、②進歩主義思想、③死刑廃止論、④宗教観である。

① 貧困または社会主義: 貧困そのものは「哲学的な部分」というよりも、登場人物の生活描写に赤裸々に描かれている。象徴的まずしさはマリユスが見たテナルディ一家のあばら家の描写である。食事がとれない事や貧乏のリアルな描写はこの小説の全体にわたってこれでもこれでもかと描かれている。19世紀前半のフランスの都会の庶民の貧しさは、同時代の「江戸末期の農民の貧しさに共通するものがある。この小説特有の貧困の代名詞となる「隠語」は解説が必要だと見たのか、強盗団パトロン・、ミネットの場面で、「隠語論」が挿入される。「隠語とは貧困を表現する言語の事である」といって、ほとんどマニアックな隠語収集にかんする彼の蘊蓄を紹介する。ユゴーは、貧困の問題を根底から考えようとすれば、「貧困の言語」、「徒刑囚になった言語」、「闇の住民たちの言葉」としての隠語を取り上げることが不可欠であり有用であると考えていたようだ。このような詳細な隠語研究を行った小説家は古今東西ユゴーを除いて皆無であり、ここにユゴーの独創性がみられるのである。一例を上げるとパリの盗賊の隠語として、「独房」=カストウス(品行方正)、断頭台で首を切られることを「大薪」と表現し、裁判にかけられることを「束ねられる」などと表現する。ユゴーはグロテスクなものと崇高なものが結び付くとロマン主義の新しい美が生まれると言っている。徒刑囚と聖人が結び付くジャン・ヴァルジャンはそのロマン主義美学の具体的な例だと見られる。レ・ミゼラブルの序文で「この地上に無知と貧困がある限り、本書のような書物も無益ではあるまい」というのである。国の産業革命が生み出す貧困は、この時期の焦眉の社会・政治的な課題であった。1948年マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を書くにもこのような背景があったからである。貧困はフランスだけではなく人類の永遠の問題であり、金融資本主義に隷従する現代社会の地球的現実となっている。ユゴーは資本主義社会の貧困という社会問題をいち早く告発した作家の一人であった。19世紀初期の貧困は、マルクスが定義する「労働者階級」というよりは、ルンペン・プロレタリアート、すなわち社会に不安をを醸す「危険な階級」の貧困である。ユゴーは自分が社会主義者になったのは1828年の頃からだと言い、「死刑囚最後の日」や「クロード・グー」は貧しい労働者を主人公とした物語である。社会主義ということばが使われたのは1833年になってからというので、ユゴーのいう社会主義とは社会問題に関心のある者、すなわち左翼という意味で理解していた。ユゴーの友人には、労働組織論のルイ・ブランがいたし、キリスト教社会主義者ラムネ―やプルードン、「個人主義と社会主義」のピエール・ルル―、空想社会主義者のサン・シモン、フーリエらがいた。ユゴーの社会主義とは、富の生産と分配の問題であり、外部の公共の生産力、内部の個人の幸福という二つのものが結び付くことが理想で、私的所有はフランス革命の成果として認めていた。これをユゴーの社会思想の根本と言えるが、革命による新しい共和国における自由、平等、友愛の未来が輝かしいものとして不動の政治思想を持っていた。ユゴーはレ・ミゼラブルで語っているのは、社会主義の原則と理想だけであって、そこへいたる政治的プロセスには全く言及していない。むしろ彼は物質的社会主義を警戒し、「腹だけの社会主義」は政府や資本家に隷従する道だという。詩人ユゴーの限界があり、経済の問題より政治の問題を優先して考え、ユゴーの社会主義は社会共和主義の理想の中に統合された。

② 進歩主義思想: レ・ミゼラブル第4部第十篇に、1832年6月5日の悲劇的な蜂起の叙述がある。歴史の重大事件となれなかった暴動について取り上げる理由は何だろうか。この共和党の蜂起については共和派将軍「ラマルクの葬列の暴動」ともいわれる。この騒動が起きたのはユゴーが30歳の時で、騒動の噂を聞いてソモンのパサージュに駆け付けて30分ほど立ち会っただけであった。この時はむしろ騒動を冷ややかに見ていた。反政府運動を「暴動」と「蜂起」に分け、暴動は物質的な問題から生まれもっとも忌まわしい蛮行に堕する時があるのに対して、ユゴーは蜂起は精神的な現象であり、もっとも神聖な義務となるのでこれを評価したいという。32年の「六月蜂起」には、その急速な勃発においても悲壮な消滅においても、共和国の理想に殉じようとする高邁さがあったという。だから48年の「六月暴動」の反乱よりも、32年の六月蜂起の方がフランス革命の理念を高めるものとして理想化し、「フィクションのリアリティ」として記述したかったのであろう。この自然発生的な民衆反乱と「ABC友の会」のメンバーの壮烈な戦いの描写は読者に感銘を与えた。「勝利は壮麗であり、敗北は崇高である」といって、ユゴーはもう10年続いている第2帝政に対する民衆の戦いを促すという意味があったのであろう。「共和国万歳」と叫んで死ぬ共和国の理想を、普遍的な人類の進歩の理想と信じるが故の壮烈な敗北を生き生きと描いた。進歩は人間の存在理由であり、人類の歴史は進歩の歴史であるという「進歩史観」を信じれば、6月の蜂起者の挫折も進歩に沿ったものとして正当化され崇高なものになるのである。ユゴーの言う進歩とは彼の社会主義と同様に物質的、地上的なものにとどまらず、精神的、形而上学的なものに関わるという特徴がある。「進歩」こそがこの小説の真の主題であり、彼自身の全思想だと考えた。19世紀当時はコンドルセ「人間精神進歩の史的展望」といった進歩思想が流行していたが、進歩思想に対峙するものが懐疑主義である、この思想の系譜も根が深い。気高い魂を忘れ享楽が道徳と心得て、手取り早く物質的な事(貨幣至上主義経済)だけに気を取られている反知性主義的ないわゆる世界のグローバル化の進展がその代表である。にもかかわらずユゴーの楽観的な「進歩」観には、超時代的な人間性への信頼と期待の原則が貫かれている。

③ 死刑廃止論: この小説でミリエル司教が処刑に立ち会う場面で、ギロチンに打ち費がれ立ち直れない司教の姿を描いている。「獣性から義務への前進」の一つの例として死刑廃止の訴えを行う。そいう意味でルイ・フィリップス治世で一度も死刑が執行されなかったことを褒め称えている。ユゴーの政治的立場はいろいろ変化したが、一貫しているのは死刑廃止論であった。刑場に群がり興奮する人間の不思議な感情(「怖いもの見たさの残虐趣味)は実際ユゴーの時代の現実でもあった。死刑問題に最初に取り組んだのは、1829年「死刑囚最後の日」という中編小説を刊行したことであった。序文において死刑賛成論者にむけて死刑の無用性を説いた。ユゴーは議院活動によって本格的に死刑制度の廃止に向かう。1848年「二月革命」の憲法にすべての犯罪に対する死刑廃止を盛り込んだ。「死は神にしか属さない」、「人間の命の不不可侵性」に基づく死刑反対という信念は貫かれた。

④ 宗教観: 1864年から1962年の98年間、レ・ミゼラブルは教会の禁書リストに入っていた。ユゴーが自らの宗教観を述べているのは、第2部第7篇プチ・ピクピュス修道院のことを紹介したあとの「余談」である。その初めに「この小説は無限を主人公とする劇である。人間は脇役である」と述べる難解な部分がある。実は「無限」は「進歩」と並んでユゴー思想の二大キーワードである。この「無限」は使われ方からして、超越的な存在、ほぼ神の同義語とみなしうる。「進歩は目的であり、理想は典型である。理想とは何か。神である。理想、絶対、完全、無限。これらは同じ言葉である。」と言っているので無限とは神の属性とみて間違いない。「外部(上)に無限があると同時に、私たちの内部(下)にも無限があるのではないか。上の無限が神であり、下の無限が魂である。祈ることにより下の無限を植えの無限医触れ合わせることができる。すなわち良心=魂、無限の自我、それこそ神なのだといっている。ユゴーは無限=神という信念に基づいて、人間の祈りには深い敬意を払いながら、修道院制度を時代錯誤的な、自由のない非人間的制度だと断じる。同じ観点から修道院制度のみならず教会組織を批判している。「神父を遠ざけることは、神を遠ざけることではない。人間が余りに多すぎる所に、神はもはや充分に存在しない」という。フランス革命によって打倒されたカトリックの勢力は王政復古に合わせて権力と影響力を回復しようとした。1850年「教育の自由」の名のもとに教会が初等教育を独占するファル―法であった。ユゴーはこの反動的法案に猛然と反対した。ユゴーはヴォルテール主義で反教権主義の影響を受け、「個別のいろいろな宗教には反対だが、宗教そのものには賛成する」と断言し「何かを信じ祈る宗教は肯定する」という。ユゴーはいかなる政治権力からも、宗教権威からもあくまで自由な立場を貫き、カトリック教会の反感を買った。これは宗教論としては「理神論とキリスト教の中間」とか「無教会派のキリスト教」、「理神論左派」とか言われるそうだ。

(完)

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