ブログ 「ごまめの歯軋り」

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慎改康之 著 「ミッシェル・フーコー」

2021年09月14日 | 時事問題

慎改康之著 「ミッシェル・フーコー」 自己を逃げ出す哲学
岩波文庫 (2019年10月刊)
第1章 人間学的円環 「狂気の歴史」とフーコ―の誕生 自明であると思われることを問い直すことを特徴とするフーコ―の歴史研究が開始されたのは、1961年ソルボンに大学に博士論文として提出された「狂気の歴史」以来の事である。この論文がフーコ―の処女作となった。フーコ―にとって自分自身からの離脱の最初の契機、根本的な契機となった。そこでそれ以前のテキスト(1950年代)を「前フーコ―」と特徴づけ、この問題を投げかけることでフーコ―は何を研究の軸にしたのかを振り返っておこう。フーコ―はそのキャリアーを心理学者として開始した。1946年エリート校パリ高等師範学校に入学し、1948年に哲学学士号をソルボンヌ大学で受け、翌年心理学学士号を得て1951年より高等師範学校で心理学教師となり、1952年リール大学の心理学助手となった。5年間国外に留学し、1960年にクレルモン=フェラン大学で心理学講師を務めた。1950年代はまさしくフーコ―は心理学者として専念していた時期であった。1954年ルートヴィヒ・ビンスワンガー著「夢と実存」の序文を書き、学生向きに小著「精神疾患とパーソナリティ」というテキストを書いた。 精神病理学者であるビンスワンガー著「夢と実存」序文において、フーコ―は「世界内存在」としての人間の実存という現象学的ないしは実存主義的着想を念頭に置いた。人間学的探究を師ビンスワンガーと同じく「夢」に問うた。夢が「私的世界」であるとして、主体の自由と世界の必然を同時に示す道義性を持つ。夢は全面的に自由な人間主体が、必然に支配された世界に自らを投げ入れるという、実存の根元的な運動を解読する手がかりを与えるだろうと考えたのである。精神分析学による夢解釈とは、覚醒した意識に与えられた夢の顕在的内容から出発し、帰納的なやり方で夢の潜在的意味を再構成するものであるが、フーコ―は夢の意味を内側から構成する表現の働きと、その意味を外側から指し示す指標的機能は違うものである点から出発する。フッサールの現象学は、「表現」と「指標」を区別するべきだという。しかし内から外へ向かう夢の形成メカニズムは、覚醒した意識から失われている。問題は失ったものをどのように回収するかということである。 「精神疾患とパーソナリティ」は第1部に精神の病気がどのような心理的要素からなるか、第2部に現実の社会における様々な矛盾の経験に結びつけるものである。フーコ―は精神の病のメカニズムを「退行」、「防衛」、「病的世界」という3つの心理学的要素によって特徴づけた。「病的世界」は自分自身にとってのみ近づき得るものであると同時に自分自身の放棄を意味する。病的世界に個人が閉じ込められ「退行」するのは、子供が必要以上に社会との壁をこしらえてしまったためである。このように失われた人間性を取り戻すこと、病を克服するために人間を「脱疎外」することが必要だという。この二つの「前フーコ―的」テキストは当時のフランス社会の支配的風潮に全面的に依拠している。人間主体の自由を絶対的な出発点として人間の実存に関する問いに解消するならサルトルの実存主義となり、構造主義にとってかわられた。現実の社会における疎外とその克服というテーマは、人間主義的マルクス理解を根拠にするならばヒューマニズムとマルクス主義という所期のマルクス著作を踏襲するに過ぎない。時代はそのように動いており、それに連動してフーコ―も自分が固執していたものから根本的に異なる者に移ってゆくのである。 フーコーは1955から1958年までスウェーデンのウプサラで「狂気の歴史」をほぼ完成し、1961年書物として刊行し、ソルボンヌ大学博士号を取得した。精神の病と歴史及び社会との関係をであった。西洋において狂気と理性との分割はどのようになされ、狂気は病という唯一の形象に還元されたのだろうかというテーマであった。とりわけフーコ―は17世紀から18世紀の「古典主義時代」の監禁制度の創設とその変遷に注目した。17世紀、理性が完全に狂気を退けたのである。モンテーニュは、人間は神ではないのだから、理性と狂気の間に絶対的な線引きを行わなかった。デカルトは「省察」に語るように、狂気が理性に影響する懸念は払しょくされている。理性的省察の主体においては、狂気はあらかじめ理性の外に置かれた。フーコ―は理性の勝利を合理主義の進歩によるなどという説明は採用せず、それはヨーリッパ全土における監禁制度の創設であるという。16世紀から17世紀初頭にかけて狂気は日常生活の中でよくあった。狂者は自由を享受し街を徘徊していたという。17世紀中頃から大規模なやり方で監禁施設が設けられ、貧者、物乞い、性病患者、禁治者、痴呆者らを一緒くたに監禁していた。当時形成されつつあった資本主義社会にとっての邪魔者(無能者)を集めて隔離したのである。フーコ―はデカルトのような理性と狂気に分かつことなく監禁制度の変遷を見てゆく。18世紀半ばになると、政治的、経済的な理由で監禁施設は次々と解体され解放されたが、狂気だけは社会にとって危険であるとされ監禁の対象となった。狂気はついに精神の病という唯一の形象に還元された。監禁空間が狂者専用となって、そこへの収容が狂気の理由を研究し、狂気を治療に導く医学的な価値を帯びていった。監禁空間の再編成の中で、狂気が医学化され、客体化され、内面化された。狂気は以降、客観的に把握可能な精神の病として表面化した。狂気をめぐる新たな考えが、実は知の固有の領域における「一つの隠された整合性」をよりどころにしているとして、「人間学的思考」が健在化した。 18世紀末に狂気は一つの客体として人間の認識に曝されるようになったとフーコ―は主張する。「人間から真の人間に至る道は狂気の人間を経過する」というわけである。狂気が人間本来の主体性喪失をその本質とするならば、「真なる存在」としての人間は疎外という形態においてしか与えられない。「狂気の歴史」は19世紀以降に狂気が人間認識のために果たした役割が、一つの人間学的公準に準拠する。その公準とは「人間存在は、一つの真理を与えられると同時に、隠された形で自らに固有に帰属するものとして保持する」というのである。人間に関する探究において喪失したものを回収するという任務が可能となる。ではそれがどのようにして構成されたかは、1966年「言葉と物」において取り組むことになる。「狂気の歴史」とともにソルボンヌ大学に提出された論文はカントの「人間学」への序論である。この序論において、フーコ―はカントが告発した「超越論的錯覚」から派生した「人間学的錯覚」を問題とした。カントが認識にとって不可避なものとみなした「自然な」錯覚が、意味が移って有限な人間の本性とみなされた。超越的錯覚がいわば「真理の根源」のようなものになってしまった。人間と真理を取り結ぶ関係の基礎にある者は「有限性」である。こうして人間学的錯覚のなかで、人間の有限性をめぐる際限のない議論が繰り広げられた。批判哲学と人間学的探究の結びつきを指摘し、人間存在を「現存在」と名付けたハイデガーは、人間の根源的有限性の問題化をカント哲学の本質的帰結と意義付けた。1961年の「カント論」はハイデガーに対する根本的な異議申し立てであった。これはカント哲学のみならず西洋哲学に係わる「人間の出現」、すなわち人間学的思考の歴史的考察となった。1950年代のフーコ―が探究していたものは、人間主体から逃れ去るものの回収という人間学的研究であった。1961年以降のフーコ―は人間存在に絶対的な特権を与える探究から距離を取り始める。 (つづく)

慎改康之著 「ミッシェル・フーコー」ー自己を抜け出す哲学

2021年09月13日 | 書評
奈良県橿原市 西芳寺付近 今井町9

慎改康之著 「ミッシェル・フーコー」 自己を逃げ出す哲学

岩波文庫 (2019年10月刊)


1 フーコーの年譜と序

ミシェル・フーコー(フコ)(1926年10月15日―1984年6月25日)は、フランスの哲学者。『言葉と物』(1966)は当初「構造主義の考古学」の副題がついていたことから、当時流行していた構造主義の書として読まれ、構造主義の旗手とされた。フーコー自身は自分が構造主義者であると思っていたことはなく、むしろ構造主義を厳しく批判したため、のちにポスト構造主義者に分類されるようになる。代表作はその他、『狂気の歴史』『監獄の誕生』『性の歴史』など
年譜
1926年 ポワティエ市にて出生
1943年 バカロレア(大学入学資格試験)に合格
1946年 高等師範学校 入学
1948年 哲学学士号取得、自殺未遂事件
1950年 大学教員資格試験に失敗、再び自殺未遂事件、フランス共産党に入党
1951年 大学教員資格試験に合格
1952年~ 1955年 高等師範学校の復習教師、ついでリール大学の助手(心理学)に採用
1955年~ 1958年 スウェーデンのウプサラ にてフランス会館館長に着任、その後、ウプサラ大学図書館の医学文庫に通って博士論文『狂気と非理性』(『狂気の歴史』の原形)を著す
1966年 『言葉と物』出版、ベストセラーとなる
1969年 ヴァンセンヌ実験大学の哲学教授に就任
1970年 コレージュ・ド・フランス教授に就任
1975年 『監獄の誕生』を出版
1984年 後天性免疫不全症候群(AIDS)にて逝去

序章
ミシェル・フーコーとは、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダらとともに20世紀後半のフランス思想をけん引した哲学者である。前頁の写真に見る独特の容貌、強烈な個性に彩られた人物である。パリ高等師範学校で学び、コレージュ・ド・フランス教授に至る輝かしい経歴、権力に抗う社会的闘争活動、麻薬使用者・同性愛者・エイズとの闘いといった私生活の話題、そして「知」、「権力」、「自己との関係」という3つの軸に添った分析と研究活動、歴史的観点から展開する一連の著作集を完成した。彼は識別しやすい、分かりやすそうな人物に見えるが、その実はそのような識別から逃れよう願望、身の振り方で、常に変化する自分を演出しているようでつかみどころが難しい人物であった。かれは「自分が誰であるかは尋ねないでほしい」という。一定の顔を持たないために書き続けている、自分自身が何物かと決定されることの拒絶、自分自身であり続けないようにするための努力を怠らなかった。自分自身からの離脱は、日常的に「好奇心」を持ち続け同じものを別の方法で見ようとする熱意が可能してくれ、別のやり方で考え、別の事を行い別のものになろうとする「哲学」の事である。「哲学的活動」とはまさしく思考の思考者自身に対する批判活動である。自分自身からの離脱についてフーコ―は次の二つを表明してきた。第一にフーコ―は自らの歴史研究を、我々が通常自明と考えることを改めて問いに付すのである。第二に彼の研究は絶えざる変貌として表明される。1960年代の「考古学的」探究は、70年代に「権力分析」に、80年代に「自己の技術の考察へと研究の軸が変更される。自分自身になじみ深い領域に留まり続ける代わりに、危険を冒して絶えず新しい探索に首を突っ込み、それによって別のやり方で考える術を獲得することである。こうしたやり方も「フーコ―的」なやり方である。本書の進め方は以下のようになる。

・1960年代の「知の考古学的」探究を、次のように進める。
第1章 「狂気の歴史」
第2章 「臨床医学の誕生」
第3章 「言葉と物」
第4章 「知の考古学」
・1970年代の「権力」をめぐる研究では、
第5章 「監獄の誕生」
第6章 「性の歴史」第1巻 「知への意思」
・1980年代の自己をめぐる実践では、
第7章 「性の歴史」第2巻―第4巻
晩年のフーコーは、どの著作においても、西洋社会で「生の権力」という新しい権力、つまり、伝統的な権威の概念では理解することも批判することも想像することもできないような管理システムが発展しつつあることを示そうとした。従来の権力機構においては、臣民の生を掌握し抹殺しようとする君主の「殺す権力」が支配的であった。これに対して、この新しい「生の権力」は、抑圧的であるよりも、むしろ生(生活・生命)を向上させる。たとえば、住民の生を公衆衛生によって管理・統制し、福祉国家という形態をとって出現する。フーコーは、個人の倫理を発展させることによって、この「生の権力」の具体的な現れである福祉国家に抵抗するよう呼びかけた。

(つづく)


柿木伸之著 「ヴァルター・ベンヤミン」

2021年09月12日 | 書評
奈良県橿原市 西芳寺付近 今井町8

柏木伸之著 「ヴァルター・ベンヤミン」 

岩波文庫 (2019年9月刊)
6) 歴史の反転(歴史哲学)

19世紀の前半パリの街ではパサージュという商店街・連絡路が盛んに建設されたが、1852年ルイ・ナポレオンによる第二帝政期にはすっかり衰退した。それは百貨店の台頭だけでなくパリ再開発により街路が整備され、古いアーケード街が取り壊されたためである。ベンヤミンは19世紀のパサージュの盛衰減少に目を付け、これを「19世紀の根源史」と名付けた。1927年よりベンヤミンはブルーストの「失われた時を求めて」の翻訳に取り組んでいた。ベンヤミンをパサージュに興味を持たせたのは、シュルレアリズム文学であった。アーケード街の鉄骨建築とその内部空間、娼婦を含むその住民たち、街路を彩る「流行」という事象を弁証法的にかつラプソディ(狂詩曲)風に描き出そうとした。しかしその風俗史的なアプローチは1929年アドルフらの歴史批判を受けて大きく見直され、その街路を根源史の場として浮かび上がらせる歴史哲学的研究に生まれ変わった。ベンヤミンは「パリ―19世紀の首都」に改題して、商品という物神の巡礼地としての万国博覧会をブルジョワ社会の神話的な夢想の装置と位置づけ、ボードレールの夢からの覚醒を梃子にして根源史の叙述構想とした。アドルノは彼の原稿を批判して、集団的無意識に訴えるやり方は神話的な次元への退行ではないかといった。あくまで個々人の意識の発展から考えるアドルノに対してベンヤミンは個人を超えた弁証的像として、覚醒して夢の残骸を拾い集めることを主張した。パサージュ論の方法論とは、弁証法的像を媒体とする「根源史」としての歴史の認識であった。およそ20年間隠していた「歴史の概念」について、1939年9月の第二次世界大戦の勃発に関連する危機の切迫によって、フェリーツィタスへの手紙の中で「歴史の概念」についてテーゼ集として書き下ろす決定的契機を語った。
1920年ごろに書かれた著作で「暴力批判論」がある。生ある人が権力の犠牲にされてきた歴史を「神話的暴力」とベンヤミンは定義した。このような神話に政治権力を位置づけることは、目的論的な歴史観の押し付けである。目的論的な救済史とは、結局は支配者のための神話である。「政治の審美主義化」に貢献してきた。歴史を一続きに物語る立場を拒否し、個々の被造物の儚さによりそう姿は「ニヒリズム」まで先鋭化されている。ニヒリズムは1930年ごろ神話的な歴史を破壊することになって現れた。

ベンヤミンは1930年代半ばのエッセイ「物語作家」のなかで、失敗を含めて経験を伝える物語は語り手の痕跡が残るものであると述べている。ここで彼は物語られる経験の衰微は、「進歩」とみられてきた近代の歴史的な過程の帰結であると考えた。第1次世界大戦から帰ってきた帰還兵の沈黙は、最新の近代技術が投入された戦争では、戦いの経験と呼べるものは何一つなかったからである。技術が浸透した社会の人間にとって絶えず情報の刺激に反応するように馴らされた結果、知覚経験が普段の刺激によって寸断されている。経験は「体験」それも「ショックの体験」によって取って代られた。一連の刺激防衛反応によって意識が動員され、無反応を装い出来あいの情報で処理されるようになる。人は何一つ経験できなくなってしまうのである。伝統が、物語による経験の伝承、知恵の継承によって成り立つとすれば、経験を失う過程で人間は伝統の存立の条件を崩壊させた。その結果、共同体の伝統から切り離され孤立した人間は、技術の力と腐敗した権力に曝されてしまう。ファッシズムの破壊的な本流と爆発の力の場に置かれた人間はちっぽけで脆い人間の肉体に化してしまう。ファッシズムの本質は、人々のむき出しの生を、相互監視を含んだ情報技術を使って一つに束ねて、他者を排斥しつつ支配圏を拡大しようとする政治的企画のために動員する。人々には「民族」、「進歩」の神話が造られた。この「政治の審美主義化」に魅了された者はファッシズムの道具にされ総力戦としての戦争で消費される。人類の自己疎外は、人類が自身の滅亡を第一級の美的享楽として体験する域にまで達している(死の美学にとりつかれる)。「フランツ・カフカ」のエッセイにおいて、無機物まで下降したカフカの人間「オドラデグ」や、ベンヤミンの「せむしの小人」のまなざしは、忘れられて歪められた被造物への祈るような見方である。この弁証法的像をとらえる方法は、歴史が忘れ去ったものへと現在の断絶を正視し、神話的な物語を中断する批評的な緊張を持つことである。

被造物の世界を歪めてゆく忘却の中で行われる過去の追憶ないし想起から、歴史が捉えなおされてゆく。1929年に発表された「ブルーストの像について」に、過ぎ去ったことは意思を越えて思い起こされると述べている。ブルーストの小説が「無意識的記憶」の体験から紡がれていることをベンヤミンは着目した。この「無意識的記憶」を批判的に受容するには、「パサージュ論」の方法論の精錬にもつながる。想起を歴史の原点に置くことは、完結されたこと(歴史の苦悩)を未完成にすることである。19世紀以来の人文科学的歴史を記述する立場を、ベンヤミンは「歴史主義」と呼んで批判した。それは今の歴史を語りうる支配者の立場と同じである。ベンヤミンが「パサージュ論」を書いているころ、「歴史主義」はファッシズムが用いる神話を強化する「麻酔的」な役割を果たしていた。物事をそれがあった通り(と宣伝して)に描く歴史というものは、この世紀の強力な麻酔薬であった。歴史を大衆から取り上げ、御用専門家(歴史学者)の前に武装解除することであった。「進歩」が集合的に夢想されるなか、破局が恒常的に続く神話としての歴史の現場に置くことである。植民地支配で収奪したものが消費され、流行がはびこって古いものは棄却されていった。神話としての歴史によって抑圧されてきた過去に不意に向き合わされて、思考が立ち止まるところから弁証法的像が現れる。それは思考運動における「中間休止」である。ブルーストがその生涯の物語を目覚めるところから始めるように、いかなる歴史の叙述も目覚めとともに開始されなければならない。」 そのような想起の媒体として弁証的像を捉え、近代の根源史を著わすことは、近代の「時代の夢」からの覚醒を目指す歴史叙述として構想された。

1939年夏、独ソ不可侵条約が締結されて、ベンヤミンは打ちひしがれていた。スターリンの全体主義体制にベンヤミンは何の幻想も抱いていなかった。ドイツ・ナチスの矛先を西へ向けるための便宜的手段とはいえ、破壊的な戦争がまじかに迫っていることを意味した。1939年9月ドイツはポーランドに侵攻し、イギリスとアメリカはドイツに宣戦布告した。こうして第二次世界大戦が始まった。ベンヤミンはすでにドイツ国籍を剥奪されていたが、フランスにとって敵性外国人として「キャンプ」に収容された。11月にはペンクラブの尽力で拘束を解かれパリに戻った。「歴史の概念についてのテーゼ」を書きは決めたのもパリ帰還後まもなくしてからである。1940年2月末には20のテーゼが書き上げられた。そしてそのテーゼの中に、未完だった「パサージュ論」の方法論が散りばめられた。歴史の概念の草稿に「歴史とは厳密な意味においては非随意的想起にもとづく一つの像であり、これは危機的な瞬間に歴史の前に姿を現す」と記した。史的唯物論にとっては、危機の瞬間に歴史の前に思いかけず姿を現す過去の像を留めることが重要であり、それにはすでに支配的な歴史の物語に批判的かつ破壊的に介入することである。「進歩史観」の下では時間が単調な直線となるが、ベンヤミンは進歩の神話としての歴史を破壊し、その支配から過去の記憶を救い出すことの積極性は、抑圧された過去のための戦いが喫緊の課題であることを伝えんがためである。破局の歴史が積み重なった現在に目覚めるとは死者に遭遇することである。その中から歴史を認識する主体が生まれることである。歴史を書くとは、神話としての歴史に抗して、それが抹殺した死者と、この死者が巻き込まれた出来事とをその名で呼び出し死者の記憶を証言することである。歴史を語るとは、この地点から破局に破局を重ねてきた過程を見返して、それを中断させることである。此処に革命が起こる。この時の反転に基づく革命に、死者を含めた人類の存亡がかかっている。天使はきっとなろうことならそこに留まり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。しかし楽園からは風が吹き付け、彼の翼に孕まれている。しかも嵐のあまりの激しさに天使は翼を閉じることができない。

7) 終章

1933年8月に書かれた「アゲシラウス・サンタンデル」という堕天使の像は、ベンヤミンの生涯を凝縮した像であると同時に、地上の歴史的な世界においては滅び去るほかはない被造物に捧げられる彼自身の寓意像であろう。言葉は、過ぎ去ったものが根源の現象として甦る媒体に成り得る。ベンヤミンは最後の最後までパリに留まりたかった。友人らはヨーロッパから脱出するよう勧めたが、頑なにパリにこだわったには19世紀生まれの欧州人としての矜持が働いていたようだ。彼は最終的にアメリカに亡命する準備をしていた。1940年5月ナチスがフランスに侵攻したことで、6月妹のドーラを伴ってパリを脱出しルルドから一人で(妹の病気のため)マルセイユに向かった。マルセイユでアメリカ行きのビザを得て、スペインを通ってリスボンからアメリカ行きの船に乗る道を選んだ。スペインからポルトガルへの通行ビザを得たが、フランスの法の制約(ベンヤミンは無国籍であったが)でフランス出国ビザは得ることはできなかった。そこで非合法にピレネー山脈の間道を選んだ。翌日スペインの国境の町ボルボウに着いた。国境警察で尋問され当局はマルセイユ発向ビザを信用せず、フランスへ強制送還するという。その夜致死量のモルヒネを飲んでベンヤミンは48歳の生涯を終えた。ボルボウの共同墓地に葬られた。なおボルボウはスペイン内戦の最後の戦闘が行われた場所でもあった。終焉の地にいくつものモニュメントが造られた。その一つにボルボウのパサージュがある。墓地内の碑には「文化財なる者は、同時に野蛮の記録であることなしに文化の記録であることはあり得ない」というベンヤミンの「歴史の概念」の一節が刻まれている。神話化としての顕彰や美化こそ、ベンヤミンの思考が抗ったことである。彼の思考は、国家と資本という全体的な機構の神話的暴力によって生ある者やその仕事が際限なく使い捨てられる時代に合って、その闇の只中に生存の道筋を切り開こうとしていた。死者が残した仕事の「死後の生」をいまここに繰り広げることである。批評するということは、このようにして死者と応え合う言葉を生きることである。進歩と美化されてきたこの破滅的な流れを中断させ、技術的な生産過程の内側から転換させる可能性を追求する思考を彼は「史的唯物論」と呼んだ。

ゲーテの「親和力」についての評論のなかで、ベンヤミンは、ゲーテが「事象内実」と呼んだことを「真理内実」と見抜いた。その真理内実に迫る方法は哲学的であるという。批評が作品の中からその真理として提示するものは、あくまで最高の哲学的問題であって、批評自体は哲学たり得ないという。本書を内容において極限まで要約すると以下の三点となる。
①ベンヤミンが言語自体の最も内奥にある本質は「名」であると見抜いたのは、遭遇する他の人や事物の肯定に基づく。言葉が実質的に何かを語ることの根拠である。子の徳の発語は、それ自体翻訳なのである。翻訳が一つの言語を始めて形成する。翻訳以前には言語はない。近代の言語の歴史は、自己の内部を体系化し、その話者を「民族的」ないし「国民的」同一性において規定してゆく過程である。発語の根拠をなす他者の肯定を突き詰めると「模倣」となる。
②技術的複製可能性の時代の芸術作品は二段階に区別される。第一は自然状態の全面的な支配を目指す。第二段階は階級なき社会に向けた芸術の政治化である。作品の調和的な完成を破壊する批評が陪在する芸術を見通し、芸術そのものの修正を目指す。ベンヤミンは模倣的な技術と、批評的認識を織り込んだ芸術作品の姿を一貫して追求した。
③歴史の媒体を像と考える。歴史はいくつもの物語に分かれるのではなく、いくつもの像に分かれるのである。彼は進歩と呼ばれる過程が破局の連続であることを正視し、その中断を目指した革命を志向した。ベンヤミンの思考は、人間が作った仕組みによって生きることが困難な歴史的状況に踏みとどまって、その内側で息を通わせる隙間を「瓦礫を繕う道」として見つめることである。そこに破滅から再生への弁証法がある。権力者の支配の道具には決してならない芸術と歴史の概念を示す彼の哲学は、死者を含めた他者と呼応する魂の息吹を求めるものである。

(完)


柿木伸之著 「ヴァルター・ベンヤミン」

2021年09月11日 | 書評
奈良県橿原市 今井町7

柏木伸之著 「ヴァルター・ベンヤミン」 

岩波文庫 (2019年9月刊)

第8巻(その4,その5  批評理論・美学理論)

4) 批評の理論とその展開(ロマン主義論からバロック悲劇論へ)

ベンヤミンは青年運動で挫折したベルリンを去って、バイエルンの都ミュンヘン大学に転向し、1916年「言語一般及び人間の言語について」を著わした。詩人リルケと知り合い、1917年ベンヤミンはドーラ・ゾフィー・ケルナーと結婚した。ドーラはシオニズムの深い環境下で育ったが、政治的には一定の距離を置いた。第1次世界大戦でドイツの敗色濃厚となり、ベンヤミンに召集令状を届いた。そこでベンヤミンは妻とともにスイスのベルンに移住した。ベルン大学に転学したベンヤミンは博士論文のため、新カント派の影響下でカントの批判哲学に取り組んだ。個人的には青年運動の「経験の概念」に批判的検討を加えるためであった。カントの「純粋理性批判」の経験概念があまりに低い次元を対象としていることを批判した。1925年「来るべき哲学のプログラム」では、形而上学的な高次の経験を宗教と絡め、宗教の領域を包括した経験に意味を与える認識を問題とした。ベンヤミンは「認識を言語に関係づける」ことによって可能となると考察した。認識の媒体となる言語とは「中動態にあるもの」としての言語である。主観と客観の出来事は言語論(翻訳)の源である。彼は博士論文を「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」であった。この論文の主題は、古典的な形式美の基準に照らして芸術作品の価値を判断するのではなく、作品内部の批評可能性に基づく批評である。初期ロマン主義文学者のフリードリヒ・シュレーゲルは反省の無限の働き自体が絶対者としての現実を創出すると論じ、反省の中に芸術批評を位置づけた。ベンヤミンは「反省とは批評においてたえず再帰的に自己を表現する過程である」という。作品を高次の意味で、すなわち絶対者として芸術との関連で完成させることである。ベンヤミンはこの文芸の発展を「中動態にあるとともに質的」な発展と考えた。中動態にあるものとしての言語の生成過程である。シュレーゲルらロマン主義者は反省の媒体を形成する表現形式としてとくに「小説」を重視した。批評を言語の生成の場とみることで、創作と翻訳に並ぶ位置に批評が置かれた。批評が歴史的な状況と無縁ではいられないことも自覚し、眼の前の時代の危機を見通しながら、その闇の中を生きる道筋を切り開く批評の役割を常に自覚していた。

1919年には帝政が崩壊し、ヴァイマール憲法に基づく共和政が敷かれた。革命を指導したきたレーテを最高指導部とする試みは、社会民主党指導の武力弾圧によって抹殺された。スパルタクス団に拠ったローザ・ルクセンブルグやカール・リープネヒトらは虐殺された。こうして人民革命はが潰えて、ヴァイマール共和国もインフレを抑えられなかった。こうした1920年ごろの不安定なドイツの状況を見ながら、ベンヤミンは「暴力批判論」を書いた。暴力の法と正義に対する関係を明らかにする目的で書かれた。暴力を正当付ける暴力として行使される法の力を問題とした。なかでも人間を神話的な運命の下に置くことが批判の焦点になった。ベンヤミンは「運命と性格」の中で、法の秩序が神話の残滓であることをテーゼとした。「運命とは、生ある者の罪責の連鎖である」と、断罪が神話的な自然的かつ神話的な世界の中の運命として宣告されるのである。神話的な世界が存続し、その秩序を貫く力が正義と同一視されてゆく。こうしてベンヤミンの暴力批判は、正義と法秩序を混合することに批判を向けた。法の秩序は、正当化できない暴力によって作られ、自己の権力を志向するのである。法的な秩序維持のための警察権力の行使はあらゆる市民生活に恣意的に介入し、死刑の執行は最も秩序を強化する手段であり、自己権力の陶酔である。人為的な秩序のために生あるものが犠牲になる歴史、この神話としての歴史の連続を断ち切る可能性をめざすのである、ベンヤミンの暴力批判は、国家権力の廃棄を見据えた歴史の哲学である。

ベンヤミンは、1922年ゲーテの小説「親和力」についての評論を開始し文芸評論の第一歩を踏み出した。男女間の相愛(今でいうと不倫)関係を描いている。この関係は評論を書いたベンヤミンにも相当した。当時高名を博していた作家との接点から文芸批評家としての活動を築く一方、教授資格申請論文として「ドイツ悲劇の根源」を書いた。この論考でベンヤミンが取り上げているのは、17世紀のドイツ悲劇作品である。30年戦争(1618-48年)という歴史的事件を題材とした、人間の悲惨である。ギリシャ悲劇のような神話に題材を取った、英雄の崇高な出来事ではない。歴史に翻弄される人間の悲劇を浮かび上がらせている。このようなバロック悲劇が描き出す歴史をベンヤミンは「自然史」用オブ。自然と歴史が交錯する事態を背景とする。バロック悲劇作家にとって歴史とは、ひたすらに破局を重ねてゆく歴史であり、その舞台はいつも廃墟である。世界の受難史を表すために多用する比喩表現が「アレゴリー」である。状況の付置が示す人間関係を、「悲劇は英雄を知らず、付置しか知らない」に置くのである。悲劇の理念は「名」としての言語を媒体として、登場人物の付置を描くことにある。これをベンヤミンはモザイクに喩える。17世紀に悲劇を書き綴ったメランコニー(憂鬱)をたたえたまなざしの下で、現在が破局の現場となって照らし出される。近代の歴史を現在に至るまで透視しながら、それを貫く破局の中で発揮されないままに忘れ去られてきた可能性を、根源から呼び覚ます歴史認識を提示した。この歴史認識はパリのパサージュー(アーケード街)の方法論にも受け継がれた。ベンヤミンの言語哲学と歴史哲学、そして美学の結節点を形作るとともに、彼の人生の重大な転換点にもなった。しかし彼の論文は賛同されないまま宙に浮いた。

5) 芸術の転換(美学)

ベンヤミンはナポリの南の島カプリ島はドイツの知識人の避難所になっていた。1924年の半年間ベンヤミンは滞在しそこでピロレタリア演劇特に子供向け演劇の演出家ベルハルト・ライヒに出会った。そこで共作「ナポリ」を創った。アルプス山脈の南は空間と時間の双方が「多孔的」な街で、生そのものが多孔性を帯びる。この町では多孔性が正の法則となっていることを洞察した。人類は今新たな技術によってひとつの「生体」として組織されようとしている。しかし技術が帝国主義者によって横領されるならば、人類は自己自身を死滅させてしまう。帝国主義者にとって技術とは自然を一方的に搾取するための道具である。この技術を「自然と人間の関係の支配」に転換させ共働関係築くとき、宇宙との交感の中で人類が誕生する。種としてのヒトは何万年も前に進化を終えている。しかし組織された人類という種は発展の始まりにある。ブルジョワジーの廃絶は、技術的な発展の予測可能性の前に終えていなければ、人類は滅亡する。路上の標識を見てひらめいた思考を寓意的に浮かび上がらせる「一方通行」は1924年「シュルレアリズム宣言」の芸術運動へのベンヤミンの関心を示した。それは既知の意味内容と結びついた比喩ではなく、思考の像となって世界像を一変させる可能性である。世俗的啓示において神体空間と造空間が浸透する段階に達したとき、現実はマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」に近づいたと言える。ベンヤミンの念頭にあったのは、その技術を含めた映像技術が身体との交感を触発する可能性が1930年代の映像芸術論となった。芸術作品を媒体に人類が自己自身を解放するような美的経験が、ベンヤミンが言う「知覚論」の美学である。1931年「カール・クラウス」は彼の意表の思考の範型を示す。「全人間。「デーモン」、「間」
の像を軸として彼の文芸活動を寓意的に表している。「全人間」が表す倫理観の偽善性を暴く役割として「デーモン」のクラウスを立たせている。悪魔的破壊の中で言葉が根源として語りだされる出来事を「間」と規定した。デーモンの支配者は新しい人間ではなく、間であり、新しい天使である。バロック悲劇では髑髏と天使の像に集約されるアレゴリーの特徴は、破壊を徹底させた末に、ある新生への反転と呼応している。髑髏は「世のむなしさ」の寓意的なるアレゴリーである。

ベンヤミンが「ドイツの悲劇」において、アレゴリーという寓話的表現を多用するのは、歴史を「世界の受難史」とみることからきている。破局に破局を積み重ねる歴史こそがドイツバロックの高貴な材料となっている。版画家デューラーが「メレンコリアー」に形象したように、謎めいた事物に取り囲まれた「死んだ文字」から、アレゴリー的なものから新たな生命を誕生させる。アレゴリーにおいては、具象的な表現が意味に昇華されることはない。バロックのアレゴリーは象徴とは対照的なものである。悲劇のアレゴリーもまた「慣習の表現」の側面を持っている。書かれたものは像であることへ進む芸術象徴に対して、アレゴリーという文字像として姿を現すのである。意味に昇華されえない文字に悲哀を鬱積させながら、絶えず滅びつつある被造物を、知のうちに拾い上げることである。バロック卑下五作品は絶望的な救済である。ベンヤミンは19世紀半ばのボードレールの詩作に、バロック時代のアレゴリーを見ている。フランス第二帝政期のパリにボードレールはアレゴリーを駆使して詩を綴った。「悪の花」でも「狂気」、「倦怠」などの語を寓意的に読ませている。ボードレールは「憂愁」のなかで恒常的な破局を見るだけでなく、激しい破壊衝動を示した。此処でアレゴリーとは、資本主義社会の経済過程で捨て去られる商品を寓意化して出現させて救い出す寓意像である。ボードレールのアレゴリーは都市の廃墟を見せつけながら、資本主義の解毒剤足らんことを志向しているベンヤミンは見たようだ。1920年代後半から30年代初頭にかけてベンヤミンは膨大な書評を残した。ベンヤミンは長編小説という形式を、口承に起源をもつ叙事詩的物語と対照させながら近代的形式を際立てさせた。1923年ドイツでラジオ放送が開始され、ベンヤミンも多くのラジオ番組制作に参加した。ラジオ番組の制作に携わったことで映画を始めとする大衆的なメディアの可能性に関心を持った。1931年「写真小史」で述べているように、1回きりの「アウラ」の崩壊や、無意識の織り込まれた空間を認識した。器械装置を通じて写真に焼き付けられた細部が亡霊のように回帰する、生活状況の文書化として芸術の集団性を述べている。

1920年代後半の「シュルレアリズム」の中で、ベンヤミンは芸術と技術の関係に深い関心を示した。写真入りの印刷物や映画が普及するなか、芸術作品は技術的に複製された映像の形で大衆に享受されるようになった。1935年の「技術的複製可能性の時代の芸術作品」はベンヤミンを代表する著作となった。感性的な経験の歴史的な変質を踏まえた美学を論じた。視覚的・触覚的な伝統美は、近代機械文明が都市生活を規定するという社会の変動のなかで、知覚はショックというセンセーショナルな刺激を求めるようになった。このような歴史的状況の下、殿という多岐な芸術の作品も技術的複製の形で鑑賞される。ベンヤミンは「遠さが一回的に現れる」と定義する「アウラ」は、技術的複製が可能な時代には消滅せざるを得ない。「アウラ」の凋落は、技術的複製可能性の時代の芸術作品をも変質させずにはおかない。映像芸術特に映画は技術的に制作されるので、制作集団は対象の中に入り込んでゆく。そこに無意識性が織り込まれるのである。映画を見る空間、それはショック衝撃的であるほかない。日常性から解き放たれた映像の「遊戯空間」で大衆は階級意識に目覚めることもある。ベンヤミンはチャップリンを高く評価し、これを鑑賞する大衆はファッシズムの「政治の審美主義化」によって集約化される大衆とは対照的である。しかし映画が大衆の意識を鈍化させ消費主義に導く「文化産業」となる危険性の方が高い。
1933年1月30日政権を掌握したナチスが、2月27日に起きた国会議事堂放火事件を利用して反対勢力の弾圧を強め、ベンヤミンは亡命を余儀なくされた。彼の亡命に手を貸したブレヒトは1933年デンマーク郊外にベンヤミンを招いた。ブレヒトとベンヤミンは共同で雑誌の発刊を計画したが挫折した。ブレヒトに影響されて、ベンヤミンがプロレタリアートの批判的潜在力を過信したためである。

(つづく)



 柿木伸之著 「ヴァルター・ベンヤミン」

2021年09月10日 | 書評
奈良県橿原市今井町 その6

柿木伸之著 「ヴァルター・ベンヤミン」
      
岩波新書(2019年年9月刊行)

ベンヤミンの青春と翻訳言語 (その2,その3)

2) 青春の形而上学(幼年期と青年運動)

ナチスが政権を掌握したドイツから亡命したベンヤミンは「経験と貧困」というエッセイを書いている。自分の世代の経験を次のように凝縮させた。「まだ鉄道馬車で学校に通っていた時代は、何一つ変化しないものはない風景の中にいた。破壊的な本流と爆発の力の場の中心に、そこに残ったちっぽけで脆い人間の肉体だけで立っていたのだ」 ベルリンで過ごした幼年期に始まった移行の時代に(19世紀末)、技術は都市の風景だけでなく、生活や人間もその内部から変えつつあった。都市生活の変化はベンヤミンが「1900年頃のベルリンの幼年時代」に語られている。ベンヤミンは1892年7月にベルリンでユダヤ人商家の第一子として生まれた。父親のエーミールは古物と美術品の競売所の共同経営者として成功を収めた。ベンヤミンは裕福なブルジョアの生活に慣れきっていた。ベンヤミンはユダヤ人としての出自を自覚していた。しかしユダヤ教には最初から距離を感じていたようであった。裕福なブルジョワの住むベルリンの西地区ルーネヴァルトに居を移した。高級住宅地をユダヤ人の隔離居住区域(ゲットー)に喩えるのは、ベンヤミンは幼年時代からここでの生活に息苦しさを感じていたのであろう。1902年カイザー・フリードリッヒ校に入学したが病弱と学校嫌いで小学校にはゆかず、当時の富裕層の子弟の様に私塾と家庭教師による教育を受けた。ギムナジウム(9年生の中高一貫校で大学入試資格を与えられる)で初めて学校教育を体験した。権威主義・軍隊主義に染まった集団生活には結局馴染めなかった。学校生活に疲れ果てたベンヤミンを見て両親はギムナジウムを退学させ、チューリンゲンにある「田園教育校」(教育思想家ヘルマン・りーツ設立)に転向させた。そこでベンヤミンを青年運動に導いたグスタフ・ヴィネケンに出会うことになった。彼にドイツ語と哲学を学んだベンヤミンは熱狂的な弟子となった。ここで健康の回復を取り戻したベンヤミンはカイザー・フリードリッヒ校に復学した。1912年フライブルグ大学に入学した。各地の大学に自由学生連合が結成され、青年運動は権威主義的な学校と家庭にかわる青年の自己の陶冶と解放の場を求めた運動を展開した。ベンヤミンは学校改革運動の理念とは、青年が文化として自己を形成する場とすることであった。

グスタフ・ヴィネケンの精神の学校共同体に変革する思想には、青年が指導者に服従することが謳われているが。ベンヤミンはこの点に違和感を覚えた。つまり経験の権威主義的体質を見抜いたベンヤミンは経験が持ち物質主義的な秩序への順応は青春を圧迫すると考えた。第1次世界大戦以前の思想的到達点をあらわす「青春の形而上学」(1913年執筆)があくまで思考による青春であって、「激しい生きざま」として現れるハインレの青春のアプローチとは距離を置いている。「青春の形而上学」は「対話」、「日記」、「舞踏会」の三章で構成される。対話の対象は娼婦で、内容は過去を私たちの青春として認識することであり、廃墟という精神の塊を前にすることである。語り手の言葉は聴き手の沈黙の中に消え行ってしまう。対話を通じて導かれた言語の限界に佇んで新たな言語の生まれるのを待つところに想像の精神がある。対話についてはこれ以上の突込みはない。ベンヤミンは日記の言葉のうちに、過ぎ去った日々が回帰するという。日記は「時についての書」であり、かつ「日々の書」である。沈黙の中から発せられる言葉は、世界を一つの風景として現出させる媒体となり、その出来事のうちに自我の再生があるあるという。日記はあくまで孤独の中で綴られる。孤独に耐えられない若者は、「舞踏会」という夜のベルリンのグロテスクな情景を求める。言語は世界と自我の照応の媒体である。この章ではボードレールの影響が見られる。第1次世界大戦が勃発する前、青春の言語の生成のための運動は挫折を強いられる。青年運動の指導者ヴィネケンが「戦争と青年」という講演で戦争は青年にとって倫理的体験として称賛した。これを契機にベンヤミンは1915年3月ヴィネケンに絶縁状を書き送った。同時に自殺した友人ハインレに捧げる「フリーッドリッヒ・ヘルダーリンの二篇の詩」を書き上げた。ここに批評家ベンヤミンが誕生した。今や青春は死者の忘れがたい生の内にあり、それはハインレのことを想起し続けることである。ベンヤミンはこの世界大戦という深い闇のなかを、言葉をもって抗い続けた。彼は闇に抗う思考の闘いを「批評」と呼び始めた。

3) 翻訳としての言語(言語哲学)

死の影に覆われた時代にあって、思考はその闇に立ち向かう。その闘いをベンヤミンは、1916年に「批評」と名付けた。青年運動の指導者ヴィネケンを含めて戦争に加担し、若者を戦争に駆り立てる者の言語の欺瞞を見抜いていた。批評する思考が表される媒体としての言語理論についてベンヤミンは省察を進めた。1916年秋の「言語一般および人間の言語について」がその成果である。このころベンヤミンはユダヤ教神秘主義研究の権威ショーレムと知り合いになった。こうしてベンヤミンとショーレムは言語をめぐる思想の共同研究者となった。神秘体験をもとに共同生活を営むユダヤ教の流派「ハシディズム」の思想家として有名だったブーバーについては、ベンヤミンは当初から批判的であった。ブーバーは第1次世界大戦の回線を歓迎する姿勢であった。ベンヤミンとユダヤ人の民族国家の樹立を目指すシオニズムとの接触は1912年に遡る。当時20歳のベンヤミンはシオニズムを自分の政治的な基盤に据えることはできないと言った。ベンヤミンのユダヤ教に対する態度は祭祀など直接的な体験に基づいていないし、とりわけ書物を通じた精神的な経験に軸足を置いていたという。数年後にはヴィネケン、ブーバーへの批判が先鋭化する。ベンヤミンによると人々を特定の行動へ動かすための手段としてのみ言語が利用されると、特定の効果しか生まない。言語はたんなる手段ではないとベンヤミンは考える。空虚な言葉が蔓延り、外的な情報を伝達するため、すなわち記号として流通するようになると言葉が常套句化して増殖する。後に残るのは自動的な反応としての「おぞましい」行動だけである。この次元で言葉が束ねられ、総力戦としての戦争の継続を可能としていることを見抜いた。言葉が何かを伝えるとすれば、言葉が自らの尊厳と本質を純粋に開示することによってである。言葉が自分の地方を持つとき、ベンヤミンは「非媒介的」であるという。語りえないものを言語において、結晶(像)として純粋に把握するということである。言葉を発するということは、言葉が最も内奥の沈黙という核に達するということである。

それぞれの事物が意味を帯びて立ち現れてきたとき、分節化した言語の世界が開かれる。すると人間という脆弱な生き物の生存の条件を言語が介在していることになる。すると言語の本質はどこにあるのだろうか。言語とはコミュニケーション・ツールだと割り切ることは容易である。しかしそれは言語の一面だけを見ているに過ぎない。ベンヤミンが「言語一般および人間の言語について」言葉を伝達の手段としてのみ見る言語観を「ブルジョワ的」といい、その根拠の薄弱さを批判した。言語が自動的に連鎖しあうことことに危険性を覚えながら、空虚な言葉の蔓延と戦争遂行の関係を見て、ベンヤミンは言語が一つの言葉の姿で語りだされる最初の出来事に思考を集中させる。ベンヤミンの言語そのものへのアプローチは、要するに例えばドイツ語で私たちが表現できると考えるすべてではなく、ドイツ語によって伝わるものの直接的表現であるという。言語は言葉の外にある情報を間接的に伝えるための手段ではない。どの言語も自己自身において伝わるのであり、言語とはもっとも純粋な意味での伝達の媒体なのである。このことをベンヤミンは「動詞の中動態」となぞらえる、「中動態」とはドイツ語の再起動詞に痕跡を残す動詞の態である。言葉で語りだされる出来事の中で、それぞれの言語は具体的に一つの言語となって現れる。この意味で言語は媒体である。言語とは自己自身において伝わる媒体であると述べるとき、ベンヤミンの念頭には真に何かを語る言葉が自ずから発せられる事態を想定している。言語が自己自身を語るのだ。実質的に何かが語りだされていることを、弁や人は「名」の概念で捉えている。名とは、言語自体の最も内奥にある本質である。「言語とは名である」ということができる。それゆえ人間の言語には、世界を創造し完成させる神の言葉が息づいている。これを「純粋言語」と呼んだ。人間の言葉が本質的に「名づける」ものであるならば、発語そのものが根源的には創造的な肯定である。なぜならば固有名とは、人間の音声となった神の言葉だからだ。言葉とは先ず聴く沈黙の時間が必要で、新たな言語の母体となる沈黙に他ならない。ひとたび言葉が到来するならば、現実から像が生まれ出でるのである。

言葉を発するとは、遭遇する人や事物の存在を肯定することである。言葉はそれぞれ特異な存在を語りだす意味において、何かを伝える前に「伝達可能性そのものを伝える」のである。つまり言語を発するとは突き詰めると、神の被造物の一つ一つをその名で呼ぶことなのである。つまり被造物の言語を受け止め、それに語り掛けることが一体化している。受動と能動の一体性において、ボードレールの語った「万物照応」の媒体として言語が生じる出来事を、ベンヤミンは「翻訳」と述べた。こうして翻訳の概念を、言語理論の根底で基礎づけることができる。翻訳を、外国語を理解できない人のための補助手段もしくは必要悪だという見かたがある。この時は統一された体系をなす外国語が対立するという構図である。そもそもこのような想定自体、ある民族、国民が一つの言語を話すという近代的な言語観の変形に過ぎない。こうした近代的言語観の下では、言語は国民という均質な空間に閉ざされている。言語は規則的な記号の運用による意思疎通の手段と道具主義に捉えるか、民族精神の本質として捉えるか両者は表裏一体の関係である。ベンヤミンの言語を発すること自体が翻訳だという考察は、自分とは根本的に違う異質な人間ですらない存在の間で、いつも行われていることである。言語とは翻訳である。地上で言葉が発せられる出来事は、それ自体が翻訳の活動なのだ。それとともに一つの言語が創造されるのである。言語は自分自身を組織化し始め、一つの独自の世界を語る。それはあらゆる共同体の神話に刻まれているだろ。神話はすでに啓蒙である。そこから言語は饒舌を揮い始め、名という言語自体の本質を失って堕落するのである。旧約聖書ではバベルの塔を建てたことに怒った神は、人間をバラバラに分断するため相互に通じ合えない形で分立した言語の内部に人間を閉じ込めたという。この硬直した言語体系の関係を取るために、他言語で書かれた文芸作品の「翻訳」が生まれた。1923年ボードレールの「パリ情景」の翻訳序文としてベンヤミンは「翻訳者の課題」を書いた。最初に原作があった。此処から出発する翻訳は、原作の言葉を理解できない人のために行われることではない。翻訳によって原作の言葉を窒息させるのである。翻訳は原作自体の「死後の生」であり、原作はさまざまに解釈される段階を刻んでゆくのである。ベンヤミンは「意訳」を劣悪と呼ぶが、言葉が「意味する仕方」に沿う翻訳こそが、原作の言葉を別の言語において新たに響かせることになる。ベンヤミンは「字句通り」の翻訳でなければならないという。字句通りの翻訳によって自己の解体を通じて、それぞれの言語は表現の可能性を見出すことが出来るのだという。こうして「翻訳」を「創作」と「批評」に並ぶ地位を与えた。特に詩的言葉の翻訳の過程で、言語は他の言語との間で、文学創造の源になる生成の運動を再開するのである。ベンヤミンの翻訳論としての言語哲学は、1920年に書かれた「暴力批判論」において、「神話的暴力」の批判は、その軛からの生命を、その自由において救い出そうとする。とりわけベンヤミンの翻訳論は詩的な言葉の翻訳の方法を示しながら、一つの言語が他の言語と呼応する回路を自己解体を伴って見出す道酔を、言語生成の「厳格な修練過程」とみなした。

(つづく))