ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 水野直樹・文京洙 著 「在日朝鮮人ー歴史と現在」  (岩波新書 2015年1月)

2016年05月02日 | 書評
植民地時代の在日朝鮮人社会の形成から、戦後70年の歴史と在日三世の意識の変化を追う 第8回

第4章 高度経済成長期 日韓国交正常化と在日朝鮮人社会の変容 (その1)

1960年、4月革命によって李承晩政権が倒れた衝撃が民団組織に与えた影響は計り知れない。民団から総連へ集団脱退が相次ぎ、民団全国大会で「これまでの体制からの脱皮」を宣言し、総連との対話路線を行い交流が進んだ。日本でも日米安保改定阻止闘争が盛り上がり、ハガチー特使来日を阻止して岸内閣が倒れた。8月北朝鮮の金日成は「南北連邦制案」を統一の過渡的措置として提起した。総連はそれを支持する決議を行った。しかし「ソウルの春」は、朴正煕のクーデターによって再び軍事独裁政権に戻った。民団の権逸は軍事クーデターを支持した。軍事政権の登場は、日韓会談を大きく前進させ、日米が韓国の軍事政権を支え経済発展や政治の安定を図る筋書きができた。こうした日米韓の同盟関係の樹立に対して、北朝鮮はソ連・中国と「相互援助条約」を締結し、東アジでの冷戦構造が一段と高まった。金日成は韓国内における前衛党による「南朝鮮革命」を目指した。総連がそれに呼応したことは言うまでもない。1963年朴正煕は「民政移管」によって第3共和国の大統領となり日韓会談に臨んだ。日韓会談は1964年12月合意に達し、翌年12月批准となったが、過去の清算の問題は棚上げされた。日本政府の歴史認識に何ら変化のないことが分かった。文部省は民族学校についても各種学校として認可すべきでないと見解を取り続けたが、総連は自主学校と称して「社会主義的愛国腫愚教育」をめざし、多くの都道府県は各種学校として認可し、1966年までに300余りの朝鮮学校が認可を受けた。民族教育を重視した総連に対して。民団や韓学同がこの時期に取り組んだ課題は日本での法的地位の改善であった。日韓政府が締結した「法的地位協定」では、「協定永住権」は戦前から日本に滞在している者と協定発効の5年以内に生まれた2世、3世に限られるとした。日本政府の本音は韓国籍保持者については永住権を認めるが、できるだけ制限したいという意向であった。少数民族問題を抱え込みたくないという日本政府の見解は、韓国政府の在日韓国人の日本同化を促す「棄民政策」と表裏の関係にあった。協定永住申請者は35万1755人(許可者34万2909人)となった。協定永住の最大の関心は、教育、生活保護、国民健康保険であった。こうして総連系在日の人々もこのメリットで永住許可を申請し、朝鮮籍保持者は全在日朝鮮人の75%(1955)から46%(1970年 28万2813人)に落ち込んだ。この永住権問題と帰国運動(9万3340人)の結果により、総連の大衆的基盤は大きく失われ、総連組織の下降傾向を決定づけた。総連組織のナンバー2であった金炳植の失脚後、総連の体質は金日成の「主体思想」による神格化が進んだ。差別や同化圧力をそのままにした日韓条約は在日朝鮮人の2世・3世の社会を大きく切り裂いた。民団は1960年代後半に、「韓国民族自主統一同盟」という民団内改革派の出現で内部抗争を深め、1971年7月の「南北共同声明」の発表によって民団は分裂した。1960年代の日本の高度経済成長は在日社会にも大きな変容をもたらした。高度経済成長による在日企業の事業拡大は、ケミカルシューズ、プラスチック成型、パチンコ(マルハン、モランボン)などの娯楽業、焼き肉など朝鮮料理店の飲食業が主力となった。在日企業の興隆期に商工会や長銀が果たした役割は大きい。しかし70年代には在日企業が稼いだ金を総連が吸い上げて北朝鮮に送金するという仕組みが作り出された。在日2世が社会に旅立つときに突きつけられる差別の壁は大きく、1970年日立製作所入社拒否問題は就職差別裁判闘争となり、市民運動に支えられ勝訴した。1969年「出入国管理法」反対運動には、べ平連、全共闘、華僑青年団体との共闘ができた。

(つづく)