転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



ついに、本年最大のイベントであったポゴレリチ来日公演が終わった。

今回の最大の収穫はシューマン。
遺作変奏曲でこのうえない敬愛を込めて過ぎ去った時間を懐古し、
本編の交響的練習曲で人生の様々な光景を描く、
……という構成のように感じられた。
練習曲はどれも短調なので、本編で語られるものは各々、
趣は違っても切なく、哀しく、
しかしひとつひとつに美しい起伏と相応しい結着があった。

それが終曲(変ニ長調)になった途端、
なんと俄に次々と光が射してきて、
力が漲り、聴いているこちらはまるで、
Hold your head high! (顔を上げろ)
Stick your chest out! (胸をはれ) 
と励まされている気持ちにさえなった。
目を見張るばかりの、輝かしい音楽だった。
ああ、そうだったのか、
この曲は人生の様々な出来事を弾き手とともに改めて味わい、
幸せばかりではなかったことも敢えて受け入れ肯定したのちに
祝祭をもって送り出されるというものだったのか。
だからフィナーレだけが燦々とした長調なのか!
あのポゴレリチに、これほど力強く肯定的に、背中を押される日が来ようとは!

幾度、拍手でステージに呼び出されても、アンコールは無し。
大阪と名古屋では終演後、楽屋出を見送ろうと集まったファンに対して、
快くサインに応じてくれたが、演奏後の御本人は、穏やかで気怠げで、
やはり、あの、何年越しかといういつもの服装だった(^_^;。

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11月9日から公開が始まった映画『ボヘミアン・ラプソディ』を29日に観て、
自分の頭の中に、フレディが四分の一くらい残った状態で、
私は、本年最大のイベントであるポゴレリチ来日公演に突入してしまった。
12月1日に鹿児島、2日に大阪、そして明日は名古屋。
合間に会社に行きながら、短期間にこれだけ集中してポゴレリチを聴くなんて、
Keep yourself alive~!!と己に言い聞かせても、心身がモつかどうか。
更に!更にだ、その2日の大阪公演の日に松竹から発表になったのが、
来年の二月大歌舞伎@歌舞伎座では昼夜とも、
「初世尾上辰之助三十三回忌追善狂言」が上演される、
というニュースだった。
松緑が『名月八幡祭』の新助、しかも玉三郎の美代吉ってアンタ!!
仁左衛門が三次って、えぇぇぇ、……♪Ayyyyy-oh!!Alright!! 


   なんで何もかもがいっぺんに来るかね(T_T)!!!

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12月2日(日)、11年ぶりの大阪公演。
これのために、私は夏にシンフォニアの会員登録をしたのだ。
かように、私は津々浦々のホールや劇場と、広く淡い関係を築き続けている(汗)。

2日のリサイタルでは、霧島で聴いたときより、
音が洗練されて柔らかく感じられた。
霧島の楽器は、こうして大阪と比較してみると
かなりprimitiveなものだったのではないかという気がする。
良くも悪くも加工なしの、素材のままに近い音を多く聴かせてくれたと思う。
いずれにしても、昔から思っていることだが、ポゴレリチの演奏会の音は、
CDやテレビその他の映像で収録されているものとは全く違う。
演奏会でしか聴けない音が・音楽がある。
それも、日によって・会場によって・聴衆によって、違う音になる。

今回のプログラムで私にとっての大きな収穫は、シューマンの限りない美しさだ。
あれは、どう言えば良いのか、……数年前のような「死」「無」の深い闇ではなく、
もっと透徹した信仰や哲学のようなものが、強くこちらに迫って来た。
己を容赦なく徹底的に見つめた音楽だとは思ったが、エゴとは違った。
芸術への限りなく真摯な献身があった。
devotionを体現している感じがした。

それに較べるとモーツァルトのアダージョK.540は、
ほかの曲以上に聴き手を選ぶと思った。
モーツァルトには珍しい短調だが、響きもポゴレリチにかかると、
特異なテンポ設定とも相まって、まるで近現代作品に近いように聞こえた。
ひとつひとつ、音を「置いて」行く手法は、大阪でも感じた。
確かこの曲は、前回2017年10月20日の演奏会が告知された際、
最初の、変更前のプログラムに入っていた筈だ。
それが演奏会の4か月前に曲目変更が発表され、
結局この曲は弾かれず、かわりに入ったのが、
クレメンティのソナチネ op.36-4とハイドンのピアノ・ソナタHob.X VI-37だった。
今回のプログラムだとモーツァルトのアダージョが必然になる、
というポゴレリチの考えを、興味深く思った。

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12月1日(土)ポゴレリチの霧島公演があり、日帰りで、行って来た。
これのために夏前、かごしまミューズクラブに入会した。
(写真は、みやまコンセールの紅葉)

みやまコンセールは全く初めて行ったが、
残響の少ない小さいホールで聴きたいという私の望みが叶い、
なかなか興味深い体験ができたと思う。
最初のモーツァルトのロ短調アダージョが始まったとき、
音が目の前に置かれていくような感覚があり、
第一音が私の右上に来て、次の音は左寄りに置かれ、
和音は直径のある球体で、表面近くに鮮明な点と中心に輪郭の淡い丸い音、
……というように、かなり「視覚的」に聴くことができた。
私は前方席にいたのでそうなったが、
後方にいれば、もしかしたら何か大きな映像が構築されていく様が
もっと全体像として、よく把握できたかもしれない。

続くリストのソナタも同じロ短調で、
今度は音の数が圧倒的に多かったので、モーツァルトのようには
視覚的に捉えることがもう出来なかったが、
おそらくさきほどのアダージョは、
「きょうは、この手法で行く」
というポゴレリチの「提示」として機能していたのではないか、
と、リストを聴きながら漠然と感じた。
リストの長大なソナタに明確に句読点を打っていくポゴレリチの解釈は
1989年に私が初めて彼の実演を聴いたときから変わっておらず、
音楽が「横」に流れることがなく、常に「縦」の構造から成っている、
というのも、彼の一貫した弾き方だと思った。
彼の演奏から私が受けるイメージは、人の「多種多様な死に方」の曲(爆)
というもので、最後のB音など「絶命の音」にしか聞こえないが、
それと同時に、いつ演奏してもそこには彼の感情移入はなく、
今回も彼は極めて客観的な立場から描写をしている、と私には思われた。

シューマンの『交響的練習曲』は遺作変奏つき。
先に遺作変奏5曲を弾いて、本編のテーマに移るという組み立て方だった。
この曲は、ポゴレリチが二十代の前半に録音した、
彼の最初期からのレパートリーのひとつだったが、
私の記憶では、1983年頃にポゴレリチは一度、
「交響的練習曲はもう弾かない」
「あの曲で表現するものが、これ以上はもう無いと思っている」
という発言をしていたと思う。
しかし90年代に遺作変奏を加えて弾くようになり、
60歳の今、再度取り上げたということは、
彼なりに、何か期するところがあったのだろう。
今回の演奏に、これまでの彼のすべてがあった、とまでは思わないが、
シューマンを弾く、或いは変奏曲に取り組む、という角度から、
これまでの経験の多くを反映した演奏をしていたように、思った。

シューマンが終わり、拍手で幾度もステージに呼び出されたが、
アンコールは無かった。
「演奏会が完結したと感じたら、アンコールは弾かない」
と、これも以前のインタビューで言っていたと思うので、
今回のリサイタルはあれが完成形だということだろう。
弾き終わって立ち上がると、脚で椅子をピアノの下の押し込んだ(^_^;ので
いかにも「That's it!(本日は以上!)」という感じだなとわかったし、
演奏内容から言って私も、特にアンコールが必要とは感じなかった。

*************

私は翌日、広島で仕事があり、終わってすぐ発たなくてはならなかったが、
ホールではサイン会が行われていた。
ポゴレリチの心身のコンディションは悪くなく、余裕もあるようだった。
御本人のInstagramによると、演奏会前日には霧島神宮参拝をしたそうだ。
……前回の奈良に引き続き、神社仏閣がお好きなんですね(^_^;。


以上、とりあえず思い出せることのみ。ほぼ箇条書き(^_^;。
可能なら、またのちほど。

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