転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



昨日、清志郎の完全復活DVDを観ていて、
前々から書いておこうと思っていたことをひとつ、思い出した。

武道館から始まった、この一連の復活祭ライヴでは、
最後に、清志郎を初めとする出演者の名前と似顔絵が、
会場スクリーンに次々と映し出される演出があったのだが、
そのとき、バックにかかっていた音楽が、
なんとクラシックの室内楽で、シューベルトのピアノ五重奏曲『鱒』だった。

私が行った3月2日京都公演でも、終わって、この音楽が流れ始めて、
でもその時点では、復活祭は京都が初見だったし、
まさかシューベルトがここで出るとは、全く考えてもいなかったので、
「なんでこんな、『鱒』かなんかみたいな音楽が流れるワケ?」
と、私はエラソーにも、友人に言った。

私は室内楽の素養などほとんどないのだが、
『鱒』だけは、高校のとき掃除の時間に必ずかかっていたせいで、
雰囲気に馴染みがあり、つい、そういう例えになったのだ。
友人も同じ高校の同窓生なので、この話はすぐ通じた。
そして、席を立つ準備をしながら、しばらく聴いていたら、
明らかに、レッツお掃除な、聞き覚えのある旋律が出てきて、
やはりこれはピアノ五重奏曲『鱒』そのものだとわかったのだった。


忌野清志郎と、シューベルトのピアノ五重奏曲『鱒』。

この五重奏の元になった歌曲の『鱒 Die Forelle』の歌詞は、
澄んだ川の流れを、漁師が、わざとかき回して濁らせ
視界の利かなくなった鱒が、他愛もなく釣り上げられてしまう、
・・・という情景を歌っている。
聞いた話では、この歌詞は、文字通りに風景を描写するだけでなく、
男は、このように女性を釣り上げるのだから、お嬢さん方、注意しなさい、
という意味のことを言っているのだそうだ。

清志郎の復活祭のエンディングに、どうして『鱒』が選ばれていたのか、
隠された意味があったのか無かったのか、私などの知る由もないことだが、
私は確かに、清志郎にあっけなく釣り上げられたので、
歌詞の暗喩は、当たっていたと言えなくも、ない。
ここ何年かは、もう、気力体力を消耗するライヴというものには
若い頃ほど行かないようにして、心穏やかに暮らしていたのに、
復活祭だからと京都まで出かけたために、
清志郎に存分に引っかき回されて、
私はこのあと、またぞろエラいことになってしまったのだ。


ワタシが『青春の黄金の泉』の只中にいる『お嬢さん』とは
カケ離れたオバちゃんであったことは、
返す返すも残念だったが(逃)。

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