転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



天気が落ち着いているようだったので、朝から洗濯して掃除して、
それから支度をして家を出、舅姑のお墓に向かった。
途中の西広島バイパスの気温表示を見ると、27℃となっていたが、
墓所に着いてみると、山ではツクツクボウシがたくさん鳴いており、
相変わらず残暑の雰囲気だった。
ドライフラワーに成りはてたモノを生花と交換し、
お灯明をつけてお線香をあげて、お参りした。
きょうのように、お盆やお彼岸でない平日では、
私のほかに誰も来ていなかった。

さて、それで市街地に戻って来たら、ちょうど11時だったので、
この際だから、映画『ジェーン・エア』を観ることにした。
(なぜこの映画に目を留めることになったかの経緯は、こちら)。
こんな地味な映画を、平日の昼前から観る人は居るだろうか、
と考えた私は大いに誤っていて、行ってみたらかなり込んでいた。
『ジェーン・エア』という作品の位置づけに関して、
私は認識を改めなければならないかもしれない、と反省した(^_^;。

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映画『ジェーン・エア』公式サイト

私の、遙かな記憶にあった通りの物語だった。
これまで私は映像化された『ジェーン・エア』を観たことはなかったが、
空の色も、お屋敷の暗さも、ジェーンの表情も、
ほとんど何もかもが、私のこれまでの想像とぴったり重なっていて、
原作の空気に対し忠実に、映画化された作品なのだろうという気がした。

同時に、観ながら私は、自分が中学生の頃にはあまり重視していなかった、
19世紀のイギリスと、そこに生きたジェーンの姿を、改めて感じた。
家庭教師としてのジェーンが、生徒のアデルに地球儀を見せながら、
大英帝国は海の向こうまで征服していると教える場面があるのだが、
そのように華々しい時代にあって、ジェーンはこの段階でなお、
狭く閉ざされた世界でしか、生きることを許されていなかった。
社会の中で、女性の居場所は極めて限られており、
ジェーンの境遇では、生涯、男性と触れ合う機会すらない、
ということも、大いにあり得たほどだった(と彼女は台詞で言っている)。

彼女の雇い主であるロチェスターは、初めて彼女の挨拶を受けた晩に、
『家庭教師には不幸な身の上の女が多い』という意味のことを言うのだが、
あの時代、職業を持って働く女性というのは、ほぼ例外なく、
父親や夫の庇護のもとに暮らすことのできなかった、
「不幸な」人ばかりだったというわけだ。
ジェーンは自立した女性であり、このあとのロチェスターの求愛に対しても、
魂と魂は対等であると、臆することなく述べていて、
時代背景を考えるならば、ジェーンが破格の存在だったことが伺える。
彼女は、「幸福な」女には決してできないことを、
自分の手で掴み取ろうとしていた、能動的で新しい女性像だったのだ。

そして、そのロチェスターの所有するソーンフィールド館は、
広大な敷地にそびえ立つ、由緒正しく荘厳な邸宅であったが、
そうした上流階級でさえも、現代の基準から言えば、
電気もガスもない、原始的で粗末な暮らししか出来なかった。
当時の人々はそれしか知らなかったのだから、
主観的には格別な不足感はなかっただろうとは思うが、
一方で、そうした環境の中で健康を損なわれることも多かったはずだ。

日が暮れれば誰もが蝋燭を灯し、燭台を片手に手探りで歩き、
風の吹き荒れる夜には、暖炉の炎で温まる以外には暖を取る方法がなく、
それはおよそ、心身ともに頑健でなければ耐えられない生活ぶりだった。
冷え冷えとした風景と、灰色の空、満たされることの少ない暮らし、
じっと耐えることでしか日々を過ごすすべもない年月、
こうした設定は、19世紀当時のイギリスでの、
ジェーンとロチェスターの前半生を象徴している。

そのような人生だからこそ、彼らがたったひとつ追い求めたのは、
人の温かさや、手のぬくもりだったということなのだろうと思う。
ジェーンは、自分の心を初めて温めてくれた男性として、
ロチェスターを深く愛し、最後に彼の元に戻ることを自ら選ぶのだし、
再会の日には既に変わり果て、盲目となっていたロチェスターもまた、
無言で触れて来た相手の手を握り、頬に触れるだけで、
それがジェーンの温かさだということを瞬時に理解するのだ。
彼らが互いに抱く愛情は、現代の私達が想像するよりももっと、
切実で純粋なものだったのではないか、という気がした。

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……というわけで、私が、昔読んだ訳本の思い出をなぞるようにして
映像の世界を堪能し、時代の流れというものにも思いを巡らしているうちに、
やがて原作の記憶に近いタイミングで本編が終わり、
エンドロールが流れ始めた。
いや~、悪かないけど、しかしやっぱり重苦しい話だったよなぁ……、
と思いつつ、ふと視界の片隅で動くものがあったのでそのほうを見たら、
なんと、私の隣の女性が、静かに涙をぬぐっているのだった。
そして、外に出てみると、廊下には次の上映を待つ人達が、
既に大勢詰めかけており、切符売り場にも次々と人の列ができていた。
うむ。やはり、『ジェーン・エア』という作品の位置づけに関して、
私は大いに認識を改めなければならないようだ、
……と、再度、思った(^_^;。

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