転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



今でも忘れられないのだが、大学時代、私の天敵だったのは、
英語表現法(=英会話)担当のB・ヒギンズ先生と、
英語講読担当のC・チャップマン先生の御両名だった。
どちらの授業も、先生のお話のなさり方が私には不快で不可解でならず、
しまいに「自分が英語など専攻したのは間違いだったか」と思い悩み、
悶々とした日々を少なくとも一年くらいは過ごした。
どこでそれが克服できたかの話は、長くなるのでここでは書かないが、
いずれにしても、今にして思えばお二人は、
私に英語表現の骨格となるものを与えて下さった先生方だった。
当時の私にはそれがなかなかわからなかっただけだった。

英文学科2年次の必修だった英語表現法という科目では、
毎回、英語のディスカッションをさせられ、
その日のテーマに沿って、進行役の学生が話を仕切り、
残りの者は英語で各自の意見を述べ、先生は間違いを直して下さったり、
もっと適切な表現がある場合にはそれを提示して下さったりする、
……という授業だった筈なのだが、ヒギンズ先生のはそれだけではなかった。
私たちが
「I think……」
などと、意見めいたものを何か言おうものなら、
「Why?」
「Why not?」
と間髪入れず突っ込んできて、
私達が黙ると、助け船を出すどころか
「What stops you?」
と畳みかけ、そのせいで教室がシーンとなったり、
曖昧な微笑でごまかそうとする学生がいたりすると、今度は、
『わからないことがあるなら、どこがわからないか言いなさい。
質問は?無いの?じゃ全部わかったの?ではどうして発言しないの?
英語を話す授業ですよ。あなたたちは何をしに来てるの?』
と、(英語で)真剣な顔で仰った。

チャップマン先生には、やはり2年次必修の英語講読で担当して頂き、
簡単に言えば現代文の国語の授業の英語版みたいなもので、
英語の小説や論説を読んで、背景を理解したり、登場人物の心情を考えたり、
という内容だったのだが、これがまた和やかに行かないのだった。
『主人公は、この場面で何を考えていると思う?』
などと振られて、私たちは例によって怖々と
「Well, I think……」
と自分の考えを言い始めるのだったが、先生は聞き終わった途端、
「Why do you think so?」
と笑みを浮かべつつもヒギンズ先生同様のツッコミをなさり(^_^;、更に、
「Too general! Be more specific!」
と、よく仰ったものだった。
『もっと明示的に言いなさい、曖昧過ぎて意味がわからない』と。

「違和感がある」はマズい(BLOGOS)
『…というのも、この「違和感がある」というコメントというのは、向こうでは単なる感情を表現しただけの言葉であり、まったく論理的だとみなされないからです。』『では論理的で知性の高い人物は議論の時にどうすればいいのかというと、「なぜ違和感があるのか」を説明しなければならないわけです。そしてそれを説明できなければ、単なる「無能」と見なされてしまいます。』

上記の文章を読んでいて私は、「そうだ、英語だったらそうだな」と
久しぶりにヒギンズ先生とチャップマン先生のことを思い出した。
話題にもよるが、少なくとも日本語で話しているときだったら、
『違和感がある』と誰かがコメントを出しても、それで通るし、
ましてその場の人達の感覚の中で、
「そりゃ賛成できんという人がいるのも、まあ、わかる」
となんとなく(!)思える話なら、発言者は理由など説明せずとも、
『無能』だなどとは、ほぼ誰からも思われないだろう。
というより、一から十まで言葉にしないと気が済まない人のほうが、
むしろ、日本的に言えば『無能』かもしれないのだ。
言い過ぎるのはクドいし、言われなくとも察するのが知性、だと。

私は、『海外で(=英語圏で)こうだから、日本人は学ぶべき』
という論調を、必ずしも支持しない。
日本での考え方や話の仕方が、現在のようになったのには、
それなりの経緯があるのだし、日本にいる者なら理解できる事柄も多く、
それらをすべて古いと見なしたり、
ことごとく欧米流に改めて行くことが「進歩」であるとは私は思わない。
郷に入っては郷に従え、ではないが(笑)、
ヨソからは理解不能でも、その土地においては優先されること、
というのはある、と私は思っている。
カドを立てないよう、和らげた表現で曖昧に喋っているうちに、
はっきり言わなくても、なんとなく結論めいたものが皆の間で共有される、
という方式は、今もなお大多数の日本人の感覚に添っていると私は感じる。

ただ、英語を使うときには、日本流ルールでは通用しないことが多い、
ということは、知っておくべきだ。
英語を喋るときに、日本的な「察し」を求めていても相手には全く通じないし、
日本語話者は、それを踏まえて英語国民に合わせた話し方をしないと、
一方的に『無能』と見なされてしまっても、仕方がないと思うのだ。
ヒギンズ先生が仰ったように、何か述べたら、言いっ放しでなく
必ずbecause~で理由を説明しなければ、相手には理解されにくいし、
またその内容も、言うまでもない式の感覚優先の話でなく、
チャップマン先生が要求なさったように、いちいち明示的でなくてはならない。

つまり私は、日本で日本語を使って話しているときは、
「やっぱりなんだか違和感があるんですよね」
「ですよね」
でまとめる会話は、アリだと思っている。
これだけで、話し手の「なんだか納得していない」気分は表現できているし、
その理由も聴き手にだいたい想像がついているという状況だからだ。
ここを深追いしていては、日本的には流れの良い会話にはならないだろう。
しかし英語で話をするときには、
「私はその考えに同意しません。なぜならば、以下の点について――」
という順序で喋ることが必要だと思う。
話し手側の前提が、聴き手にも共有されていると期待してはいけない。
話し手が、『なぜなら』抜きで自分本位に話を展開しておいて、
『どうして』『なぜ』と次々に質問が来たらムっとするなどというのは、
英語としては、なっていないのだ。

……というふうに、話し方を言語によって使い分けている、と私が言ったら、
某アメリカ人は『キミはダブル・スタンダード』と言いやがったのですよ(爆)。
しかし、私にしてみれば、自分の考えや主張内容はどちらの言語でも同じなのだ。
単に、表現の方法や順序が異なっているだけで。
日本で「なんで?」「どうして?」を毎回やったら、めぐりの悪いKYだし、
アメリカで「違和感あるんで」「常識で考えて」とやっていると『無能』なワケで、
シングル・スタンダードを押し切るのは、私には無理です~~(逃)。

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