1884年(明治17年)東京の本郷弥生(やよい)町で一つの壷が出土します。
この壷が当時知られていた縄文土器とは、異なる形と文様をしていました。
東京帝国大学人類学教室の間では、発見地の地名をとり「弥生式土器」と呼ばれる様になり、一般化
します。更に、この時代を弥生時代と呼びます。
その後、福岡市板付遺跡(前期)、静岡県の登呂(とろ)遺跡(後期)、奈良県の唐古・鍵遺跡
(前期~中期~晩期~古墳時代前期)、佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡(前期~中期~晩期)
などの弥生時代の集落から同じような焼き物が大量に出土しました。
1) 弥生式土器の特徴。
① シンプルな形状である事。
縄文土器が個性的で、一つ一つに形や文様が異なるのに対し、弥生式土器は地域性はあるに
しても、共通の形や様式を持つ物が多いです。
② 弥生式土器には大きく分けて三種類(壷、甕、鉢類)の形があります。
これらは、穀物の調理や保存用の容器が中心に作られていました。
) 壷: 収穫した穀物などを貯めておく容器として使われています。
) 甕(かめ): 口が大きく開き深さがある物です。煮炊き用と考えられます。
大きな物は水甕と言い、水や液体(酒など)を蓄えるものです。
) 鉢や、これに台のついた高坏(たかつき)は、食べ物の盛り付け用に使われたと言われて
います。
各々の種類も、弥生時代中期になると、作品の大きさも、用途に応じて、大中小に分けて作る様
に成ります。
③ 弥生式土器の文様。
) 文様の無いものも多いです。
) 縄目、刻目、櫛で描いた物などの文様を付けてある物もあります。
) 簡単な直線や波形の模様が多いです。
即ち、三角形や円形、直線や波形などの組み合わせが多く、平面的で単なる装飾となって
います。但し、ノコギリ歯の文様や、壷などの器を赤く塗る事で、中身を守る魔除(まよ)け
の意味があったとも考えられています。
④ 土器を作る専門集団がいた可能性があります。
) 同じ様な形の作品が大量に作られる為には、形を規格化する必要と、技術の均一化が必要
です。
) 縄文時代では、土器の作り手は女性の可能性が高いのですが、専門集団になると男性が
主体に成った様です。
) 技法の変化。
a) 以前は、濃い赤褐色で柔らかく分厚いのが縄文土器で、明るい褐色で硬く薄いのが
弥生土器とされていました。現在では、この定義は否定されています。
縄文土器にも赤褐色の作品や、晩期には薄手の土器も作られています。
研究者の間では、赤焼きの手法を縄文~弥生~古墳時代の土師器(はじき)にまで共通
する技術と見なされてます。
b) 弥生式土器が、綺麗な形と規格化された大きさや薄作りの為、轆轤挽きで作られたのでは
ないか考えられていた時もありましたが、現在では、轆轤ではなく縄文土器と同様粘土紐を
積み上げた方法で作られた事が判明しています。
c) 仕上げ方法の違い。
割板を使って器を磨く方法や、刻み目を彫り込んだ叩き板で叩く方法、文様を彫り込んだ
スタンプを押し付ける等の、仕上げの技法が生まれます。これらの技法により、より綺麗な
肌と成ったり、叩く事で土を締め強度を持たせる事が出来ます。
又、成形や削り仕上げ用具(ナイフ、ヘラ、かんな等)に、鉄器などが使われる様になります。
d) 焼成方法の改良。(「焼きむら」が少なくなる)
焼成温度は縄文土器と同じ程度で、高くても1000℃以下です。焼成も野焼きの方法を
取っています。但し弥生式土器は縄文より「焼きむら」が少なく、均一に焼き上がっています。
・ 「焼きむら」が少ないのは、焼き方に工夫を凝らした為と思われています。
即ち、普通の野焼きではなく、上から泥などを被せて焼く方法(覆い焼き)を採用した事に
あります。泥が一種の窯の役目を果たし、火が均等に回り、焼き上がりと硬さも均質に
成ったと言われています。
・ 注: 「焼き上がりむら」が有ると、器面に黒い斑(まだら)状の染み(しみ)が出来ます。
染みの数や出現する範囲(場所)で「焼きむら」の状態が判断できます。
多くの弥生式土器では、焼成時作品を地面に置いた一箇所のみに染みが出来、
他は均等に焼かれる為、染みが無いと言われています。
2) 社会的変化に付いて。
以下次回に続きます。