わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

茶の話27(茶の湯の広がり)

2011-12-04 21:50:39 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
元禄の頃に成ると、世の中も安定し、庶民の暮らしぶりも格段に良くなってきます。

僧侶、武家(大名)、公家、豪商達と限られた人々に限定されていた茶の湯は、一般商人や一部の

町人達にも広がって行きます。その要因として、①流派の増加、②茶の湯の書物の発行、③新たな

教授法の採用が挙げられます。①については、後日お話しますが、ここでは、②、③を取り上げます。

1) 茶の湯の書物の発行

  ① 茶の湯の書物と言えば、今までは「茶回記」の形式の物がほとんどでした。

   何時何処で、誰の主催で、亭主は誰で、どんな客が参加し、どの様な茶道具が披露され、

   どの様な茶道具で茶会が行われたか、どの様な様子で有ったかを、記述したものです。

   これらの書物は一部の人のみしか見る事が出来ませんでした。

  ② 利休百回忌(1690年)を前後して、茶の湯に関する本が続々と発行されます。

   ) 「女重宝記(おんなちょうほうき)」元禄5年 女中(御殿女中の事か)の嗜み(たしなみ)

      として、「香を聞く事、茶の湯をする事、連歌俳諧をする事」が記されています。

     翌年発行される「男重宝記」には、「茶の湯を点てよう、喫み(のみ)よう」とあり、

     茶の湯が教養の必須条件でもあった様です。

   ) 千宗旦の高弟の山田宗徧(やまだ そうへん)は、「茶道便蒙沙(べんもうしょう)」と

     「茶道要録(ようろく)」、「利休茶道具図会」を刊行しています。

   ) 「南方録」(編者:立花実山)七巻七冊の書で、利休の侘び茶を伝えています。

   ) その他にも、宗旦の弟子の杉木普斉(ふさい)」が多くの弟子に、茶の湯の伝書を与えて

      います。更に、藤村庸軒(ようけん)の「茶話指月集」や、遠藤元閑(げんかん)による

      「茶之湯三伝集」(利休、織部、遠州の伝記)や「雪月集」「茶之湯古今或問(わくもん)」、

      「当流茶之湯流伝集」「茶之湯献立指南」などたて続けに9冊の本を出版します。

   ・ これらの一部の本は、繰り返し発行されていた様で、それだけ需要(見る人)が多かったと

     思われます。

   ・ 出版は主に京都、大坂、江戸が中心でしたが、特に京都では、百軒以上の出版元があったと、

    言われています。

3) 新たな教授法「七事式の制定」

  利休百五十回忌の頃、裏千家八代宗家、一燈宗室(いっとうそうしつ)と兄で表千家を継いだ

  如心斎宗左(じょしんさいそうさ)と伴に、新しい茶の湯の教授方法を編み出します。

  ① 茶の湯の稽古(教授方法)は、師匠と一対一で行っていました。茶の湯人口の増大に対し、

    この稽古方法では、限界があり新たな方法が模索されます。

  ② 「七事式」とは、その原型と成っていた、「茶かふき」「廻り炭」「廻り花」を整備し、

    新たに「且座(しゃくざ)」「花月」「一二三(いちにさん)」「員茶(かずちゃ)」を

    加えた物です。(「千家七事式」の書は、解説書であり、幕末まで数度に渡り発行されています。)

   ・ 遊び心を取りいれた稽古方法で、飽きさせずに、稽古に取り組める様にしました。
 
     茶の湯の初心者向きな、稽古方法とも言われています。

   ・ 「七事式」での稽古は、八畳の広間で五人以上で行われるのが原則です。

     それ故、一度に多くの弟子に、教授できる方法でもあります。

   ・ この新しい稽古方法には、当然反発も有り「茶の湯の堕落だ」と言う人もいましたが、

     次第に浸透し、茶の湯人口を拡大する要因にもなりました。

  「七事式」の詳細は次回お話します。

 
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