あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

気にするなと言われても気になる。(自我その107)

2019-05-04 19:44:04 | 思想
誰しも経験することであるが、学校で担任に注意されて、会社で上司に注意されて、悩んでいると、友人が、「気にするな。」とか「気にしないで。」と優しく声を掛けてくる。その言葉は嬉しいが、やはり、気になる。なぜ、気にしないでおこうと思っても、気になるのか。なぜ、意志通りに気持ちは動かないのか。それは、意志は表層心理であり、気持ちは深層心理だからである。表層心理は、直接に、深層心理に働きかけることはできないのである。それを知らずに、意志で傷心の気持ちを立て直すことができない自分を見て、「俺は意志の弱い人間だ。」とか「私は、誰かに何か言われると、それにこだわって、次のことを考えることができない、情けない間だ。」と自己嫌悪に陥ってしまうのは愚の骨頂である。誰しも、他者に注意されると心が傷付き、意志で立て直そうと思っても、暫くは立ち直れないのである。ずっと立ち直れない人もいる。人間には、常に、対他存在(他者から好評・高評を得たいという思い)というありかたが深層心理にあり、その方向性から、他者の視線は窺っている。だから、他者から、注意されたり、叱られたり、怒鳴られたり、悪口を言われたり、叩かれたり、殴られたり、無視されたりして、低評価を受けたり、評価に値しないと判定されたりすると、心が傷付くのである。その他者は、担任、上司に限らず、上級生、同級生、先輩、同僚、父、母、兄、姉など、周囲の者全てが該当する。特に、下級生や後輩や弟や妹などの自分よりも年齢の低い者や社会的に地位が低いと見なされている者に、低評価を受けたり、評価に値しないと判定されたりすると、深く心が傷付き、立ち直りが遅いのである。それは、対他存在とは、端的に言えば、自分を社会的に高く評価してほしいという思いであるから、社会的に自分より地位と認められている者から低く評価されると、我慢ならないのである。もちろん、対他存在というあり方が、自分に備わっていなければ、このように苦しむことは無いのだが、人間に生まれつき備わっているから、どうしようも無い。また、せめて、傷付いた心を早く癒やすことができれば良いのだが、対他存在は深層心理の中にあり、傷心は深層心理がもたらしたものだから、意志という表層心理は深層心理に入り込めず、傷心に直接働き掛けることはできないので、どうすることもできないのである。だから、傷付いた心が癒やされるのは、深層心理次第なのである。確かに、深層心理も、傷付いた心を癒やそうとして、すぐにその苦痛から脱するための方法を考え出し、それをその人に命令する。その人の表層心理はそれを意識化する。その方法とは、言わば、「目には目を、歯には歯を」という復讐法である。つまり、傷付けた相手にも同じだけの苦痛若しくはそれ以上の苦痛を与えることによって、この苦痛から逃れるようにせよと言うのである。そして、深層心理は、その人に、自分を傷付けた担任や上司に、反論すること、復讐することを命ずるのである。しかし、その人は、それを表層心理で意識化し、そのように反論や復讐をすれば、いっそう状況が悪くなり、自分がより傷付くことになるので、たいていの場合、自重することになる。しかし、深層心理が強過ぎるたり、表層心理が自重させることができないほど心の傷が深かったりすると、深層心理の命令通りに行動することになる。そうすると、案の定、担任や上司だけで無く、周囲の者から、手ひどい反撃を受けることになり、悪くすると、学校や会社から追われることになる。それでは、他者から低く評価されて、心が傷付いた場合、どうすれば良いのか。表層心理が、深層心理に直接働きかけることができない。意志で心に働きかけることはできないのに、立ち直るためにはどうすれば良いのか。それには、三つの方法が考えられる。一つ目は、友人に直接愚痴をこぼしたり、長電話をしたり、好きな音楽を聴いたり、好きなアニメや映画やテレビ番組を見たり、好きな場所に出掛けたり、好きな物を食べたりして、心を発散させて、心が癒えるのを待つのである。一般に、人間は、どんなに落ち込んでいても、時間と共に、自然と回復していくから、この方法が有効なである。二つ目は、周囲の者を味方に付けて、自分を傷付けた者に対して、行き過ぎや非を認めさせ、謝罪させることである。しかし、自分を傷付けた者が同級生や後輩などの自分の同位の者や下位の者ならば、周囲の上位の者を味方に付けるのは可能だが、それは、自分が正しいとはっきりとわかっている場合だけである。しかし、自分を傷付けた者が担任や上司などの自分の上位の者ならば、周囲の者を味方に付けるのはなかなか難しく、それでもそうしようとする場合は、自分が学校や会社などの構造体を追われる覚悟が必要である。三つ目は、最初から、学校や会社などの構造体を追われる覚悟で、自分を傷付けた者に対して、反論や復讐などをすることである。それだと迷い無くできるが、周囲の者から賛意を得られず、必ず、構造体を追われるばかりで無く、犯罪に繋がることがあるので、注意しなければいけない。このように考えていくと、多くの人が既に行っているように、一つ目の方法で、自分の好きなことをして、心が癒えるのを待つのが無難なようである。しかし、これとは、全く次元の異なった考え方がある。それが、ニーチェの「権力への意志」という思想である。確かに、人間は、他者の評価を求めて生きるという対他存在のあり方をするように生まれついている。一般の人は、それに従い、好評価・高評価を求めて他者の視線を窺って行動している。つまり、自分の存在と他者の視線を乖離させて捉えている。しかし、「権力の意志」に基づいた生き方をする人は、他者の視線を自らのものとして、むしろ、他者に自らの存在を見せつけるように行動するのである。もちろん、そこにも、他者から好評価・高評価や悪評価・低評価が与えられる、それに頓着せず、それを糧にしていっそう強く生きていくのである。悪評価・低評価があっても、反省はあるが、それには後悔は無く、それを乗り越えるように、それも糧にして生きていくのである。だから、そこには、留まるという考えは無い。そこには、永遠に現在を乗り越えようとする「永劫回帰」の考えがある。「英雄は英雄的行動を繰り返して向上を続け、大衆は大衆を繰り返していっそう卑賤になる」という考えである。この英雄こそ、ニーチェの言う「超人」でもある。キルケゴールは、「現代において、人間は、神と対話できるほど飛躍しなければ人間として生きていけないほど追い詰められている。」という意味のことを述べている。ニーチェは、「人間は、飛躍して、対他存在を自らの糧とするように、権力への意志を貫くような超人にならなければ、大衆という最後の人間に留まるしか無い。」という意味のことを述べている。彼らは、現代は、飛躍が無い限り、人間として生きる意味の無い時代だと言う。現代は、そのような時代なのかも知れない。いや、恐らく、彼らの言うとおりなのだろう。