あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

言葉の交換・心の交換を求める内なる脅迫(自我その106)

2019-05-03 18:26:57 | 思想
「働かなくても食べていけるだけのお金があれば、一切の人間関係を断って、一人、山奥に暮らすんだが。」と言っていた人が、定年退職を迎えると、念願叶い、中部地方の奥深い山村に住み始めた。彼は一度も結婚していないから、妻子が無く、酒はたしなむ程度で、賭け事などの無駄遣いは一切やらなかったから、勤務先は小さな町工場だったが、毎月少額ながら、順調に貯金することができた。彼の住み始めた集落は、かつては、20戸近くの家があったが、現在は、80代前半の夫婦だけの家と70代後半の女性の一人暮らしの家があるのみだった。彼は、最近廃屋となり、廃屋の中で最も住むのに適当な家を安価で購入して住み始めた。電化製品を買いそろえ、自ら家を少し修繕したが、ほとんど手を入れる必要が無かった。2軒の家同士は隣り合っていたが、彼の家とは100メートルほど離れていた。彼は自家用車を売り払い、タンボトラックと呼ばれている中古の軽四を購入して、家の前の荒れ果てた農地を耕し、野菜を栽培し始めた。食料品や肥料や日常雑貨などの必要品は、タンボトラックを運転し、7キロほど離れている麓の街で購入した。雨が降っていたり、雪に閉ざされたりして農業ができない時は、昔買ったレコードを掛けたり、昔買った本を読んだり、パソコンでYouTubeなどを見たり、テレビを見たりしている。2軒の3人は、彼が住み始めると、「若い人が来た。」と、60歳の彼を喜び、作物の育て方を伝授し、収穫した作物を持ってくることも珍しくなかった。彼も、街に買い物に出掛けると。彼らに、肉や菓子パンなどを与えた。彼は、望みが叶い、現在の生活に満足しているが、一切の人間関係を断って、自給自足の生活をしているわけでは無い。そもそも、一切の人間関係を断った自給自足の生活は、現在だけで無く、過去にもあり得なかったのである。彼は、最初に、市役所に行って、住民票を移した。最も近い郵便局に行き、住所変更届を提出すると、すぐに、郵便物が届いた。集落の2軒の家に挨拶に行くと、その夜、夫婦の家で歓迎会をしてくれ、貴重なビールと手作りの料理でもてなしてくれた。彼が農業がしたいと言うと、彼らは、畑の場所、耕し方、この地に適した作物、肥料、農機具の種類、農業栽培の仕方、種・農機具・肥料が安く購入できる店、猪・鹿などの害獣の対策などを、明け方まで時間を掛けて教えてくれた。彼が実際に農業を初めて、わからないことがあって尋ねていくと、彼らは、いつでも、快く答えてくれた。彼は、自分自身では、一切の人間関係を断つために山奥の生活を選んだのだが、実際は、彼は一切の人間関係では無く、煩わしい人間関係を嫌悪していたのである。だから、現在のような淡泊で友好な人間関係好むのである。さて、レヴィ=ストロースは、人間には、物の交換、言葉の交換、心の交換という3つの交換が必要だと言った。物の交換とは、物と物との交換、お金と物との交換であり、山奥の村落に移住した彼にとって、3人から新鮮な野菜をもらい、買ってきた肉などを上げ、お金を払って、種・農機具・肥料などを手に入れることである。言葉の交換とは、互いに自分の言いたいことが通じるということであり、彼にとって、彼ら3人との関係がそれである。心の交換とは愛情・友情・感謝・思いやりの心情を交わし合うことであり、彼にとって、彼ら3人とは感謝・思いやりの心情で結ばれているのである。このように、物の交換、言葉の交換、心の交換という3つの交換が順調に結ばれるかどうかは一に掛かって、環境に恵まれるかどうかによって決まって来るのである。彼は、定年前までは、職場で周囲の人に言いたいことが言えないということで言葉の交換に難点があり、職場で周囲の人と心の交流が無いということで心の交換が満足に結ばれなかったのである。だから、定年退職を待っていたのである。それでは、日本全体においてはどうであろうか。現代日本において、ワーキングプアや母子家庭などの若者に、物の交換が十分にできない者が増えている。これは、死活問題であるから、早急に対策を練らなければいけないのだが、現在の安倍政権のタカ派体質からは期待できない。大企業・金持ち優遇の政策を取り、ワーキングプアや母子家庭などの若者には十分に配慮していない。しかし、自民党政権が消えない限り、少なくとも安倍政権が交代しない限り、この傾向は変わらないだろう。次に、言葉の交換、心の交換についてであるが、これは、環境が大きく左右するのである。学校や職場などの構造体において、その中にいる人は、言葉の交換や心の交換が無いと、不安感・孤独感・寂寥感などを感じるから、自分に合わない集団だと分かっていながら、無理に仲間になろうとして、妥協して、その集団の中に入っていくのである。そうすると、下位に置かれて使いぱしりをさせられてプライドを傷付けられたり、その集団の卑俗な考えに合わせようとして自分本来の考えを殺して自己嫌悪に陥ったり、その集団が悪の集団だと分かっていながら加わって共犯者になったり、その集団の考えが幼稚だと分かっていながら加わって自分の才能を枯渇したり、新しくその集団に加わったということで笑いの対象にされたり、無理に集団に合わせようとしていることが気付かれていじめの対象になったりするのである。それでも、その集団から離れると、以前のように不安感・孤独感・寂寥感などを感じて苦しい状態に陥ると思うから、そこにとどまり、鬱々とした気持ちの中で、深い自信喪失・自己嫌悪の状態で暮らしていくのである。しかし、集団は変わるはずが無いから、この心の闇は、卒業・定年まで続くのである。言葉の交換・心の交換を求める心の内なる脅迫が、逆に、心を、深い闇に導くのである。しかし、サルトルは、環境は理由にならず自らの決断が全てであると言う。彼は、進むか退くか留まるかの判断は自らによるものだから、全ての自分の行動は自分で責任を取らなければならない、環境は理由にならない、と言う。彼は、心の内なる脅迫という深層心理を認めない。彼は、深層心理の力を認めない。彼にとって、自らの覚悟ある判断による行動が全てなのである。果たして、我々はどうだろうか。我々にとって、周囲の集団に合わない場合、2つの道が開かれており、どちらかを選ぶしか無いのである。1つの道は、山奥の集落に移住した人の道である。つまり、集団に合わないと分かっているが、不安感・孤独感・寂寥感に苛まれるのが嫌だから、集団に無理矢理合わせ、嵐が過ぎ去るのを待つように、心の闇をさまよいながら、卒業・定年退職を待つのである。もう1つの道は、サルトルの道である。つまり、集団に合わないと分かると、集団に無理矢理合わせようとせず、孤高を保つのである。そのような人は、不安感・孤独感・寂寥感に苛まれることは無い。不安感・孤独感・寂寥感が生まれたとしても、それにおたおたせず、それを受け止める覚悟は既にできているのである。さて、我々は、環境に恵まれれば良いが、環境に恵まれなかったならば、この2つの道のどちらを選べば良いだろうか。しかし、それは、どちらとも決まっていない。自分自身で、考えて、選ぶしか無いのである。