あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

偶然生まれて、必然的に死ぬ。(自我その104)

2019-05-01 18:31:40 | 思想
パスカルのパンセに、「私はあそこにいず、ここにいるのを見て、恐れ、驚く。というのは、なぜあそこにいずここにいるのか、あの時にいず今この時にいるのか、全然その理由が無いからである。」という一節がある。確かに、我々が、この時間、この空間にいることに必然性はない。自分が選んだことでもなく、誰かに指図されてわけでもない。気がついたら、そこにいたのである。そこに、恐怖、驚愕を覚えるのは、当然のことである。しかし、そもそも、必然性の無さは、誕生から始まっているのである。芥川龍之介の「河童」という小説には、河童の世界ではお腹の子供に「生まれてきたいか。」と誕生の意志を尋ねるように描かれている。河童は誕生の選択したものが生まれてきているから、河童に誕生の責任はある。しかし、我々は、誰も、自らの誕生を選択していない。母親にしても、どのような子供が生まれてくるかわからないから、母親の選択でもなく、責任でもない。そこに、生物学の見地から、精子と卵子の結合、すなわち、受精ということを問題視しても、いたずらに混乱するばかりで、何ら解決にならない。神の意志ということにすれば、自分が選ばれた人間のように思え、満足できるかも知れない。確かに、パスカルは、熱心なカソリック教徒であったから、自らの鋭い問いかけに対して、最終的には、神が答えてくれるだろう。しかし、ニーチェの言うように「神が死んだ」世界に生きている我々には、詭弁のように思えてくる。しかも、死も、我々が選択していないのに、必ず、訪れる。死は、突然且つ偶然訪れる。死は必然的だが、我々の意志にかかわらず、突然且つ偶然訪れる。確かに、自殺という死の選択の行為はある。しかし、それは、人生の中での絶望ということが原因であり、誰しも望まないことが動機であるから、真には、選択とは言えない。そもそも、我々には、先天的に、死への不安が与えられており、生きていくことが宿命づけられている。それでも、自殺という死の選択をしたのは、人生の中での具体的な事柄による絶望が、死への不安を忘れさせたからである。だから、自殺は、死への不安を克服したのではない。自殺は、単に、人生の中での具体的な事柄に対する敗北でしかない。つまり、自殺は、人生の敗北なのである。宮本顕治が芥川龍之介の自殺を「敗北の文学」と評したのは、正しい。しかし、それは、芥川龍之介だけではない。自殺は、全て、人生に敗北したことが原因なのである。畢竟、我々は、人生に勝利することはできないのである。我々の人生は、自分の選択によるものだけでなく、誰の選択によるものでもない、与えられたものだからである。偶然誕生し、偶然死を迎える間を、生き抜くしか無いのである。両偶然の間を、自らが必然だと思える生き方をするしか無いのである。中島敦の小説「山月記」に、主人公の李徴が、「全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押し付けられたものを大人しく受け取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」と呟いている。まさしく、我々には、押し付けられた人生を、自分らしく生きるしか与えられていないのである。