あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人の裏切りについて(自我その118)

2019-05-16 23:13:47 | 思想
親友だと思っていた人が陰で自分の悪口を言っているのを知った時、また、必ず味方してくれると思っていたのに敵側に付いた時、誰しも、「もう、誰も信用しない。」と思ったり、口に出したりする。そして、信頼していた人の裏切りを、心の中で非難したり、面と向かって非難したりする。しかし、それでも、心のもやもやが晴れないのは、最も非難すべきは、信頼していた人の裏切りではなく、そのような人を信頼していた自分の愚かさであることを、深層心理で(心の奥底で)わかっているからである。しかし、非難者の自我は、自分が愚かであることを認めたくないために、裏切った人を非難し続けるのである。ニーチェが、「人間は、他者の非難をするのは、自分の愚かさに気付いていて、それを認めたくないためである。」と語っているのは、まさしく、このことについて述べているのである。そもそも、親友や味方は、心の結び付きから生まれてくるものではない。関係性から、生まれてくるのである。「呉越同舟」という関係性から生まれてくるのである。「呉越同舟」とは、「仲の悪い者同士でも、共通の敵ができると、手を携えて協力する。」という意味である。すなわち、友人を作るのは、自分一人で周囲の人に対応するのは不安だからである。心の結び付きではないのである。だから、親友だと思われていた人は、より強力な友人を求めて、これまでの友人の悪口を言うのである。また、味方を作るのも、自分一人で周囲の人に対応するのは不安だからである。心の結び付きではないのである。だから、味方だと思われていた人は、より強力な味方が現れると、これまでの弱い味方を敵にするのである。そもそも、人間同士において、心の結び付きとは、存在するのであろうか。心の結び付きのある関係とは、互いに、常に、相手を信じることができ、もしくは、相手を愛することができる関係を言う。互いに、常に、相手を信じることができる関係の人を親友と言い、互いに、常に、相手を愛することができる関係の人を恋人と言う。つまり、親友や恋人は、腹蔵なく話すことができる関係の人なのである。腹蔵なく話すとは、思ったことを包み無く話すことを意味する。しかし、思ったことを包み無く話すことを危険な行為である。なぜならば、誰しも、親友と思っていた人に、不信の念を抱くことがあり、恋人がいるのに、別の人に好意を抱くことがあり、それを、腹蔵なく話していけば、早晩、友情も恋愛も破綻するのは確実だからである。しかし、親友と思っていた人に、不信の念を抱いたり、恋人がいるのに、別の人に好意を抱いたりすることがあるのは、決して、本人の罪ではない。人間の思いとは、意志という表層心理が生み出したものではなく、無意識という深層心理が生み出したものだからである。深層心理は、自我の欲望として、いろいろな思いを生み出してくる。誰しも、自分の深層心理をコントロールできない。それは、夢をコントロールできないのと同じである。我々にできることは、表層心理で、深層心理から湧き上がってくる思いの中で、相手が喜びそうなことを選択して、言ったり行ったりし、相手の心が傷付きそうなことは抑圧して、言わなかったり行動に移さないようにすることである。しかし、深層心理の欲望が強ければ、表層心理の抑圧も功を奏さず、言ったり、行ったりすることがある。それが、裏切りであり、不倫である。また、かつて、「男は、家を出ると、外には、七人の敵がいる。」とよく言われたものである。現在は、女性の社会進出も著しいから、「男も、女も、家を出ると、外には、七人の敵がいる。」と言えるだろう。この言葉は、生活の糧を得るためには社会の多くの他者と渡り合わなければいけないという、経済活動の厳しさを謳ったものである。だが、翻って言えば、家は安心領域だということである。家族が心の拠り所だということである。家族が心の拠り所になるのは、家族の心が深く結び付いているからである。なぜ、家族の心が深く結び付いているのか。それは、決して、血縁関係があるからではない。血縁関係が絶対であれば、父親が子を殺し、娘にセクハラし、母親が子を虐待し、子が父や母や祖父や祖母を殺すことは起こらないはずである。家族の心が深く結び付くのは、父や母を社会に送り出して、多くの他者と渡り合って、生活の糧を得てほしいからである。社会が敵であり、家族が味方なのである。社会が生活の糧を与えてくれないが、父や母が社会の多くの人と渡り合い、生活の糧を獲得し、家族に振る舞うから、家族は味方になるのである。しかし、その家族も、遺産相続をめぐって、兄・姉・弟・妹が争うことがある。それは、兄・姉・弟・妹が成人し、独立し、生活の糧を獲得するための協力をもうする必要がなくなったからである。彼らは、おのおの、生活の糧を得るためには、自分自身で、社会の多くの他者と渡り合わなければならなくなったからである。もう、兄・姉・弟・妹は味方でないのである。協力すれば、遺産の取り分が少なくなるのである。また、よく、「人間は、外見より、中身が大切だ。」と言われる。しかし、一生の伴侶となる可能性があるのだから、結婚相手を決める時に、最も、その言葉に従わなければいけないのに、男性は、美人・スタイルの良い女性・可愛い女性、女性は、イケメン、野球選手、サッカー選手、俳優、医者、青年実業家などを選ぼうとする。それはなぜだろうか。傍目には、全く、逆のことを行っているように見える。大切なのは中身なのではないか、と。中身とは、人間の心を意味する。だから、当然のごとく、人間の心が最も大切になってくる。しかし、彼らは、自分自身は、間違ったことをしていると思っていない。男性にとって、女性の外見が中身なのである。男性は、美人・スタイルの良い女性・可愛い女性に会うと、心も美しいようにきれいなように見えてくるのである。また、他の男性が憧れている、美人・スタイルの良い女性・可愛い女性と結婚すると、自我の欲望を満足させることができるのである。自我の欲望とは他者の欲望を欲望することだからである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」(人間は他の人がほしがっているものをほしくなる。人間は他の人から評価されたいと思っている。)と言っているが、まさしく、この言葉通りなのである。また、女性にとっても、男性の外見が中身なのである。女性は、イケメン、野球選手、サッカー選手、俳優、医者、青年実業家などに会うと、心も美しく見えたり、たくましく思えてきたりするのである。また、他の女性が憧れている、イケメン、野球選手、サッカー選手、俳優、医者、青年実業家などと結婚すると、自我の欲望を満足させることができるのである。自我の欲望とは他者の欲望を欲望することだからである。また、「人間は、外見より、中身が大切だ。」と言っても、他者の心の中は見ることができないのである。たとえ、見えたとしても、人間の心はさまざまに変化するから、ある時は、信じることができても、その後も、信じ続けるということはできないのである。それよりも、外見で、その人の心に夢を見て、結婚する方がまだ夢を見ることができるのである。さて、このように、心は、誰もがコントロールできない深層心理の世界だから、深層心理の自我の欲望が強過ぎて、表層心理の抑圧が利かず、自分が他者を裏切り、他者から自分が裏切られる可能性を常にはらんでいるのである。人間は、常に、裏切り、裏切られる可能性を持っているのである。しかし、そうは言っても、誰しも、信頼していた人に裏切られると、辛い。「もう、誰も信用しないでおこう。」と思う。もう二度と愚かな過ちを繰り返したくないからである。他者とともに自分も信用できないから辛いのである。しかし、時間の経過とともに、やはり、自分一人で周囲の人に対応するのは不安だから、友人を作り、親友を作るように向かうのである。固定した心の結び付きの人がいないと不安だからである。親友だと思っていた人に裏切られても、固定した心の結び付きの人がいないと不安だから、新しく、友人を求め、親友を求めるのである。そして、また、そのような人がいるように思われてくるのである。つまり、「自我の欲望が他者に投影する。」(自分の思っているような人がこの世に必ず存在する。自分の思いを理解してくれる人がこの世に必ず存在する。)のである。自我の欲望が、再び、自分に夢を見させてくれるのである。そして、再び、日常が始まるのである。