おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

生きる LIVING

2024-08-23 06:33:19 | 映画
「生きる LIVING」 2022年 イギリス / 日本


監督 オリヴァー・ハーマナス
出演 ビル・ナイ エイミー・ルー・ウッド
   アレックス・シャープ トム・バーク
   エイドリアン・ローリンズ ヒューバート・バートン
   オリヴァー・クリス マイケル・コクラン

ストーリー
ピーターが勤務する市民課の上司である課長のロドニーは山積みとなっている書類を感情なく淡々と処理し、勤務時間が終われば淡々と帰るだけの日々を過ごしていた。
役所は事なかれ主義が蔓延しており、毎日のように市民から陳情が寄せられるものの結局は聞き入れてもらえないことが日常茶飯事となっていた。
市の女性たちが陳情した、大戦の影響で荒れ果てた空き地を公園として整備してほしいという要望書は各課にたらい回しとなった後にロドニーの元にきたが、彼に読まれることなく机の書類の山に重ねられた。
一度も欠勤も遅刻もしたことのないロドニーだったが、この日は珍しく早退して病院に向かったところ、担当医から末期癌に侵されており、余命は半年、長くて9ヶ月という告知を受けた。
帰宅したロドニーは、同居している息子のマイケルとその妻フィオナにこのことを打ち明けようとしたが、マイケル夫妻はロドニーの話を聞いてはくれなかった。
余命宣告の翌日からロドニーは職場に姿を見せなくなった。
その頃、ロドニーは貯金をはたいて海辺のリゾート地に向かい、そこで大量に購入した致死量の睡眠薬を飲んで自殺しようとしたが果たせず、現地で出会った不眠症に悩むサザーランドに自分の睡眠薬を渡した。
ロドニーは、自分は人生を謳歌することができなかったと打ち明け、サザーランドなら人生の楽しみ方を知っているのではないかと問いかけた。
サザーランドはロドニーを夜のダンスホールや遊技場、パブに連れ回した。
ロドニーは職場復帰すると公園整備事業を生涯最期の仕事として本格的に乗り出した。
数ヶ月後、ロドニーは完成した公園でひっそりと息を引き取っていた。
この公園を作ったのはロドニーの功績であることを公にされず、それどころか役所側やジェームズ卿が手柄を自分たちのものにしようとした。


寸評
黒澤明の「生きる」のリメイク作品なので、内容はおおよそオリジナル作品を踏襲している。
「生きる」を見ている僕は、意識せずともオリジナル作品と比較してしまっている。
先ずは、こちらがカラー作品であることで、1953年という時代設定のロンドンの雰囲気がいい。
冒頭の情景が素直に映画に誘ってくれる。
主人公のロドニーが自分で紳士になりたかったといっているのだが、まさにうらぶれた感じはしないイギリス紳士という雰囲気で、           志村喬の渡辺との違いを感じさせる。
そのこともあって、黒澤明の「生きる」にあった鬼気迫るような雰囲気はなくて、随分と落ち着いたしんみりした仕上がりになっている。
ロドニーが涙を流すようなシーンもない。
癌の告知に関するエピソードなど割愛されたところもあって、本作はオリジナルに比べて40分も短い。
現在は癌告知も本人に正しく伝えて治療の選択を医師と患者が話し合うようになっているから、このエピソードは不要であるとの判断は正しかったと思う。
コンパクトにまとめられているが役所批判の切り口は弱まっているように思われる。
イギリスの役所に対する市民感情は日本の役所に対するものと違っているのかもしれない。
やるぞと気勢を上げても、結局は元の木阿弥になってしまうという皮肉は、黒澤版の方が強烈だったように思う。

オリジナルにないシーンとしてマーガレットと、ロドニーの息子マイケルが話し合う場面がある。
マイケルは癌であることを言ってくれていれば雪の中で死なせるようなことはなかったと悔やむが、果たしてそうだっただろうか。
マイケルがボスと呼ぶ妻との関係を考えれば、息子夫婦はロドニーに手厚い看護をしただろうか。
早く逝ってくれればいいとの感情を表したのではないかと勘ぐってしまう。
カズオ・イシグロはどんな思いでこの場面を入れたのだろう。
疎遠だった親子関係に光を差し込みたかったのだろうか。
僕の感じ方は皮肉れ者のスネた見方なのだろうな。
テーマに反して、老後の生き方より、自分の最後が気になってきているのも正直な気持ちである。
もちろん両作に共通する問いかけは、人はどう生きるのかということだ。
僕は映画監督や俳優さん、あるいは小説家や画家などの芸術家や、いつまでも歌われる名曲を残した作曲家や歌手など、それぞれのジャンルで名前を残した人たちを羨ましいと思っていた時期がある。
今の僕はどうやらロドニーの境地に近づけたのではないかと思っている。
大抵の人は後世に名前を残すようなことは出来ないで一生を終える。
しかし、自分が納得できるような仕事、やり遂げたと言う満足感を持てるようなことは出来るはずだ。
それらのことは忘れられるかもしれないし、また時代と共に捨て去られるようなものかもしれないものであっても、自分の意識は変えることは出来ないし、自負の中にあるものが消え去ることはない。
僕は両「生きる」を見て、その事を再確認して余生を過ごしたいと思っている。
とは言え、だんだんとそんな場所と事がなくなってきているなと実感する今日この頃でもあるのだが。
絶望感すら感じる黒澤版に比べれば、少なからず光明を感じさせる本作の方が安らぎを得られた。