「夢二」 1991年 日本
監督 鈴木清順
出演 沢田研二 毬谷友子 宮崎萬純
広田玲央名 原田芳雄 大楠道代
坂東玉三郎 長谷川和彦 麿赤児
ストーリー
悪夢にうなされながらも、恋人の彦乃(宮崎萬純)と駆け落ちするため、金沢近郊の湖畔へと向かう夢二(沢田研二)だったが彦乃は現れず、そこの小さな村では、不似合いな銃声が鳴り響いていた。
稀代の殺人鬼・鬼松(長谷川和彦)が妻と妻を寝取った男・脇屋(原田芳雄)を殺して山に逃げ込んだのだった。
一方、湖上に漂うボートには白い日傘をさした美しい女が乗っていた。
脇屋の妻・巴代(毬谷友子)と名乗るその女は、浮かび上がってくるはずの夫の死体を待っているのだ。
そんな巴代の美しさに引かれていく夢二。
そんなある日、東京からお葉(広田玲央名)が彦乃の手紙を携えて金沢へやって来る。
だが、夢二と巴代はもはや抜き差しならない仲になっていた。
そんな二人に忍び寄る脇屋の影とそれを追う大鎌を振りかざした鬼松。
そして、ついに夢二の前に脇屋が現れ、それを見て驚く夢二。
夢に見たフロックコートの男、彼こそ脇屋だったのだ。
悪夢が現実となって夢二に迫り、さらに夢二と脇屋の前に、天才画家・稲村御舟(坂東玉三郎_)が現れる。
その時突然、鬼松の大鎌が脇屋を襲う。
負傷した脇屋を巴代のもとへ連れていく夢二と稲村御舟だったが、脇屋の死を信じる巴代は、彼の存在を認めなかった。
失意に陥り去っていく脇屋は、金沢駅で病に苦しむ彦乃を助け、彼女と一時を過ごす。
一方、夢二は巴代の美しき裸体を描いていた。
そんな二人の前に再び現れる鬼松。
殺気立った彼を前に、命がけで脇屋を守ろうとする巴代・・・。
寸評
脈絡のない展開についていくのが大変だが、色彩感覚にあふれた映像が観客を圧倒する。
前作「陽炎座」に似た作品で、女の乗ったボートが池を高速で走ったり、宵待草というキャバレーが崩壊していったりと、前作同様の演出が見て取れる。
衣装も含めた色彩と映像処理に感心させられるが、こう何作も続くと二番煎じ、三番煎じの感は否めない。
主演を務めた沢田研二の持つ色香だけはこの作品にマッチしていた。
竹久夢二は現在では非常に知名度も高く人気がある作家だが、この作品に「夢二」というタイトルを付け、竹久夢二を主人公にしているものの、竹久夢二の伝記映画ではない。
竹久夢二を主人公にして、彼と女たちとの愛憎と悪夢を夢幻的に描いている作品だ。
多くの芸術家がそうであるように、竹久夢二も女性遍歴が激しい男だったようである。
ここに登場する彦乃やお葉などは実在の人物だったが、名前だけ拝借しているのかもしれない。
夢二は他万喜(たまき)という名の女性と結婚していたが、同棲、別居を繰り返し子供ももうけている。
彦乃はたまきと別れ京都に移り住んだ夢二と暫く同棲したが結核を発病し、若くして亡くなっている。
お葉はモデルとして通う内に同棲するようになったが、自殺未遂を起こして夢二とは離別した。
その他にも関係した女性はいたようだが、映画は夢二の女に対するだらしなさを描いているわけではない。
竹久夢二をモデルとしてはいるが、描かれている内容はあくまでもフィクションである。
後に「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」と合わせて大正浪漫三部作と称されるようになった作品だが、その演出処方には少々飽き飽きしたところがあって、回を重ねるごとに物珍しさがなくなりパワー不足を感じてしまった。
一番印象に残るのが最後に流れる淡谷のりこが歌う「宵待草」のメロディだった。
「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな」と唄われる。
作品の最後で登場する屏風には、「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も」と書き添えられていたが、なぜ「出ぬさうな」を割愛していたのだろう。
夢二の原詩は「遣る瀬ない釣り鐘草の夕の歌が あれあれ風に吹かれて来る 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心もとなき 想ふまいとは思へども 我としもなきため涙 今宵は月も出ぬさうな」というもので、待ってももう現れることのない女性を想い、悲しみにふけったといわれる夢二の失恋歌である。
この作品で、夢二が一番惹かれた女性は巴代だった。
最後になって駆け落ちを約束していた彦乃が現れ「あの人はもう来ませんよ」と夢二に告げる。
女の嫉妬深さと執念のようなものを感じる。
夢二は、ようやく夢から覚めたかのように彦乃と共にその場を去っていくのだが、女性の美を追求する夢二には何人もの女性を必要としたのだろうか。
そして通り過ぎていった女生との逢瀬の時間は、夢二にとっては夢の中の出来事に過ぎなかったのだろうか。
小説にしろ絵画にしろ、女性を描くためには女性との夢の世界を持つことが具現化への条件なのかもしれない。
随分と身勝手な条件ではあるのだが、同じ男としてはうらやましいものがある。
監督 鈴木清順
出演 沢田研二 毬谷友子 宮崎萬純
広田玲央名 原田芳雄 大楠道代
坂東玉三郎 長谷川和彦 麿赤児
ストーリー
悪夢にうなされながらも、恋人の彦乃(宮崎萬純)と駆け落ちするため、金沢近郊の湖畔へと向かう夢二(沢田研二)だったが彦乃は現れず、そこの小さな村では、不似合いな銃声が鳴り響いていた。
稀代の殺人鬼・鬼松(長谷川和彦)が妻と妻を寝取った男・脇屋(原田芳雄)を殺して山に逃げ込んだのだった。
一方、湖上に漂うボートには白い日傘をさした美しい女が乗っていた。
脇屋の妻・巴代(毬谷友子)と名乗るその女は、浮かび上がってくるはずの夫の死体を待っているのだ。
そんな巴代の美しさに引かれていく夢二。
そんなある日、東京からお葉(広田玲央名)が彦乃の手紙を携えて金沢へやって来る。
だが、夢二と巴代はもはや抜き差しならない仲になっていた。
そんな二人に忍び寄る脇屋の影とそれを追う大鎌を振りかざした鬼松。
そして、ついに夢二の前に脇屋が現れ、それを見て驚く夢二。
夢に見たフロックコートの男、彼こそ脇屋だったのだ。
悪夢が現実となって夢二に迫り、さらに夢二と脇屋の前に、天才画家・稲村御舟(坂東玉三郎_)が現れる。
その時突然、鬼松の大鎌が脇屋を襲う。
負傷した脇屋を巴代のもとへ連れていく夢二と稲村御舟だったが、脇屋の死を信じる巴代は、彼の存在を認めなかった。
失意に陥り去っていく脇屋は、金沢駅で病に苦しむ彦乃を助け、彼女と一時を過ごす。
一方、夢二は巴代の美しき裸体を描いていた。
そんな二人の前に再び現れる鬼松。
殺気立った彼を前に、命がけで脇屋を守ろうとする巴代・・・。
寸評
脈絡のない展開についていくのが大変だが、色彩感覚にあふれた映像が観客を圧倒する。
前作「陽炎座」に似た作品で、女の乗ったボートが池を高速で走ったり、宵待草というキャバレーが崩壊していったりと、前作同様の演出が見て取れる。
衣装も含めた色彩と映像処理に感心させられるが、こう何作も続くと二番煎じ、三番煎じの感は否めない。
主演を務めた沢田研二の持つ色香だけはこの作品にマッチしていた。
竹久夢二は現在では非常に知名度も高く人気がある作家だが、この作品に「夢二」というタイトルを付け、竹久夢二を主人公にしているものの、竹久夢二の伝記映画ではない。
竹久夢二を主人公にして、彼と女たちとの愛憎と悪夢を夢幻的に描いている作品だ。
多くの芸術家がそうであるように、竹久夢二も女性遍歴が激しい男だったようである。
ここに登場する彦乃やお葉などは実在の人物だったが、名前だけ拝借しているのかもしれない。
夢二は他万喜(たまき)という名の女性と結婚していたが、同棲、別居を繰り返し子供ももうけている。
彦乃はたまきと別れ京都に移り住んだ夢二と暫く同棲したが結核を発病し、若くして亡くなっている。
お葉はモデルとして通う内に同棲するようになったが、自殺未遂を起こして夢二とは離別した。
その他にも関係した女性はいたようだが、映画は夢二の女に対するだらしなさを描いているわけではない。
竹久夢二をモデルとしてはいるが、描かれている内容はあくまでもフィクションである。
後に「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」と合わせて大正浪漫三部作と称されるようになった作品だが、その演出処方には少々飽き飽きしたところがあって、回を重ねるごとに物珍しさがなくなりパワー不足を感じてしまった。
一番印象に残るのが最後に流れる淡谷のりこが歌う「宵待草」のメロディだった。
「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな」と唄われる。
作品の最後で登場する屏風には、「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も」と書き添えられていたが、なぜ「出ぬさうな」を割愛していたのだろう。
夢二の原詩は「遣る瀬ない釣り鐘草の夕の歌が あれあれ風に吹かれて来る 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心もとなき 想ふまいとは思へども 我としもなきため涙 今宵は月も出ぬさうな」というもので、待ってももう現れることのない女性を想い、悲しみにふけったといわれる夢二の失恋歌である。
この作品で、夢二が一番惹かれた女性は巴代だった。
最後になって駆け落ちを約束していた彦乃が現れ「あの人はもう来ませんよ」と夢二に告げる。
女の嫉妬深さと執念のようなものを感じる。
夢二は、ようやく夢から覚めたかのように彦乃と共にその場を去っていくのだが、女性の美を追求する夢二には何人もの女性を必要としたのだろうか。
そして通り過ぎていった女生との逢瀬の時間は、夢二にとっては夢の中の出来事に過ぎなかったのだろうか。
小説にしろ絵画にしろ、女性を描くためには女性との夢の世界を持つことが具現化への条件なのかもしれない。
随分と身勝手な条件ではあるのだが、同じ男としてはうらやましいものがある。
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