2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。
2019/1/11は「甘い生活」「アマデウス」、以下「阿弥陀堂だより」「雨あがる」「アメリカン・スナイパー」「アラビアのロレンス」「アリスのままで」「歩いても 歩いても」「あるいは裏切りという名の犬」「あん」「アンタッチャブル」「硫黄島からの手紙」「息もできない」「生きる」「いつか読書する日」「いのちぼうにふろう」「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」と続きました。
「秋津温泉」 1962年 日本
監督 吉田喜重
出演 岡田茉莉子 長門裕之 芳村真理 清川虹子 日高澄子 殿山泰司
宇野重吉 神山繁 小池朝雄 東野英治郎 吉川満子 山村聡
ストーリー
昭和二十年の夏、岡山県の山奥の温泉場“秋津荘”の娘新子(岡田茉莉子)は、河本周作(長門裕之)を自殺から救った。
周作は東京の学生だが、暗い時代に絶望し、体は結核に冒され、岡山の叔母を頼ってやって来たのだった。
新子と周作の関係はこれから始まった。
それから三年、周作は再び秋津にやって来た。
荒んだ生活に蝕まれた体の療養だが、岡山の文学仲間と酒を飲み歩き、おしまいには新子に「一緒に死んでくれ」と頼む周作に惹かれる新子は、二人で心中を図った。
しかし、新子の余りにも清い健康な心に周作は、生きることの美しさを取り戻し帰っていった。
昭和二十六年周作はまた秋津にやって来た。
女中のお民(日高澄子)から知らせをうけて新子の心は弾んだ。
周作は文学仲間松宮(宇野重吉)の妹晴枝(中村雅子)と結婚したことを告げて帰っていった。
それでも新子は、周作を忘れられなかった。
二人が出逢ってから十年目、四たび周作がやって来たのは、別れを告げるためだった。
松宮の紹介で東京の出版社に勤めることになったのだ。
その夜二人は初めて肉体の関係を持った。
昭和三十七年、周作は四十一歳。
都会生活の悪い面だけを吸収した神経の持主と変ってしまった周作が、松宮の取材旅行の随行員として五たび秋津にやって来た。
寸評
秋津温泉は岡山県の津山から山あいにわけ行った奥津温泉がモデルであろう。
美しい風景と旅館の風情が作品を包んでいる。
僕は奥津温泉とは山を隔てた真賀温泉にクラブの合宿で何度か行ったことがある。
定宿は山間のひなびた旅館で、前に小さな川が流れていて大きな山椒魚がいた。
映画で見られたような渓谷はなくて殺風景であったが、観光客が押し寄せるでもない静かな雰囲気が良かった。
春先と言う時期だったのに雪が降り積もったことも有ったから、かなりの山間部に位置していたのだろう。
バスに揺られてたどり着いていたので地理感覚はまったくなかった。
舞台は真賀温泉よりは風光明媚な所のようだが、山間の温泉は心を癒してくれるような所がある。
物語はそんな地方と温泉宿を舞台にしているから成り立っている。
兎に角、風景がよくて秋津荘という温泉宿がいいのだ。
岡田茉莉子が演じる新子は、だめな男について行って結局だめになる女で成瀬巳喜男の「浮雲」で高峰秀子が演じた女性と同じような人物像である。
長門が演じる周作は登場時は厭世感漂う青年だったのに、欲と金に溺れてどんどん俗物と化していき、最後は詭弁を弄するだけの男となっており、新子がそんな男に翻ろうされる物語である。
時は終戦間際で、二人は運命的な出会いをする。
結核を患っている周作は絶望感から新子を誘って心中をしようとするが、天真爛漫な新子を見て思いとどまった。
周作は新子によって生きる希望を与えられたのだが、新子は周作から絶望感を与えられて死を選ぶことになる。
どこから見ても周作は意志薄弱の情けない男で、新子のようないい女がどうして周作のような男から逃れられなかったのかと思うが、ダメでだらしない男だからこそ離れられなかったのだろう。
周作は都合の良い時にふらりとやって来て、そして去っていく。
新子にべったりではなく何年かぶりで逃げ込んでくる男なのに、やってくれば新子は嬉しそうに迎え入れる。
自分が「うん」と言ってほしい時に相手は「うん」と言ってくれない。
相手が「うん」と行ってほしい時には「うん」と言えない恋愛のもどかしさである。
それでも新子は周作を思い続けていたのだろうし、新子の気持ちを察しているお民の存在がなかなかいい。
周作だって新子が忘れられないでいるのに、自分の意思などなく状況に流されてしまっている。
周作は結婚した春枝に新子という存在を知られていながら、家庭を捨てることも出来ず、新子を忘れることもできない男である。
五たび秋津にやって来た時の周作にとって、新子は単なる慰み者でしかなくなっていたのではないか。
ラストで心中を迫られた時の周作の日和見的な言い訳には、男の僕でさえ石を投げたい気分である。
何年も周作に裏切られ続けて、死んだような顔で日々を過ごす中年女になっている新子が絶望を感じるのも無理からぬことである。
楽しくて幸せを感じた若い頃の出会いだったが、その出会いが二人にとってその後の人生が悪い方向にしか向かわなかったという悲劇だが、僕には新子の気持ちがよくわかる。
心底愛してしまった人はなかなか忘れられないものだと思うのだ。
新子は命を絶つが、「諦めとか後悔を感じるぐらいなら死んだほうがまし」と言っていた新子の強さを感じた。