猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

あとはご随意に   - 難しくて美しき日本語 -

2006年06月22日 22時21分57秒 | 日記
昨日のログでチラッと触れた、待宵草と、竹久夢二作詞の『宵待草』。

この美しい曲のタイトルが宵待草となったことについて、私は

【野草図鑑によれば、待宵草とすべきところを、作詞者の竹久夢二が間違えて、『宵待草』 としてしまったそうだが.....
私には、夢二がわざとそうしたような気がする。】

と書いた。

実はこの、<間違えた説>は、我が家にある野草図鑑から引用したものだったのだが。
あれから再びよく考え、やはり夢二はわざとそうしたのだと、ますます強く思えてきた。
そして。
何がしかの調査をして、図鑑の編纂にあたった方、その一節を書いた方、もしくは、最初に<間違えた説>を唱えた方は、かなりの無粋者なのではないかと.....そう思えてきた(笑)

いや。
学者らしいといえば学者らしい。
正式名称はマツヨイグサなのだから、待と宵の順番が入れ替わっていては、学術的には間違いであろう。
しかし、よく考えれば日本語には、そんな言葉遊びとも思える美しい単語、もしくは名称が、たくさん溢れているのではないだろうか。

当て字や造語を愉しみ、韻をふんで響きに酔う。

これは私たち皆が、普通に生活の中でもしていること。
漢字にひらがな、カタカナ、英語まで、雑多に混じり合った言葉たちが織り成す現代の日本語は、もはや原型をとどめていないほどである。
特に、歌の世界、創作の世界では、ルールなどはあってなきに等しく、逆にいえば、厳然たるルールの中にある日本語だからこそ、そこに遊びが生まれやすいのだと思う。

そういえば昔、誰だかは忘れたが、歌を作る人がどこかで語っていた。
「自分の作った歌を、『作者はこういう意味をこの歌詞に含めているのだ!』と、はっきりひとつに解釈したがる人がいるが、そんなことはどうでもよい。その歌が自分の手を離れていった時点で、聴いた人それぞれがどうにでも解釈すればいいのだ」
と。

そう考えればなるほど。
宵を待つ心も人それぞれ。
待っている宵の種類も人それぞれ、ということだ。

そして。
この世では正しいことだけが美しいのではなく、時にはいたずらに間違うことのほうがずっとずっと美しかったりする。

私には。
暮れゆく窓辺で『宵待草』を眺めながら、ほっそりとした白いうなじをほのかに見せている、儚げな女性の姿が見える。

そう.....
まるで、夢二が描くような。

 ♪ 待てど 暮らせど こぬひとを
   宵待草の やるせなさ
   今宵は月も でぬそうな ♪

今宵のあなたは。

待宵草、宵待草。
どちらがお好き?
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする