
昨日のログでチラッと触れた、待宵草と、竹久夢二作詞の『宵待草』。
この美しい曲のタイトルが宵待草となったことについて、私は
【野草図鑑によれば、待宵草とすべきところを、作詞者の竹久夢二が間違えて、『宵待草』 としてしまったそうだが.....
私には、夢二がわざとそうしたような気がする。】
と書いた。
実はこの、<間違えた説>は、我が家にある野草図鑑から引用したものだったのだが。
あれから再びよく考え、やはり夢二はわざとそうしたのだと、ますます強く思えてきた。
そして。
何がしかの調査をして、図鑑の編纂にあたった方、その一節を書いた方、もしくは、最初に<間違えた説>を唱えた方は、かなりの無粋者なのではないかと.....そう思えてきた(笑)
いや。
学者らしいといえば学者らしい。
正式名称はマツヨイグサなのだから、待と宵の順番が入れ替わっていては、学術的には間違いであろう。
しかし、よく考えれば日本語には、そんな言葉遊びとも思える美しい単語、もしくは名称が、たくさん溢れているのではないだろうか。
当て字や造語を愉しみ、韻をふんで響きに酔う。
これは私たち皆が、普通に生活の中でもしていること。
漢字にひらがな、カタカナ、英語まで、雑多に混じり合った言葉たちが織り成す現代の日本語は、もはや原型をとどめていないほどである。
特に、歌の世界、創作の世界では、ルールなどはあってなきに等しく、逆にいえば、厳然たるルールの中にある日本語だからこそ、そこに遊びが生まれやすいのだと思う。
そういえば昔、誰だかは忘れたが、歌を作る人がどこかで語っていた。
「自分の作った歌を、『作者はこういう意味をこの歌詞に含めているのだ!』と、はっきりひとつに解釈したがる人がいるが、そんなことはどうでもよい。その歌が自分の手を離れていった時点で、聴いた人それぞれがどうにでも解釈すればいいのだ」
と。
そう考えればなるほど。
宵を待つ心も人それぞれ。
待っている宵の種類も人それぞれ、ということだ。
そして。
この世では正しいことだけが美しいのではなく、時にはいたずらに間違うことのほうがずっとずっと美しかったりする。
私には。
暮れゆく窓辺で『宵待草』を眺めながら、ほっそりとした白いうなじをほのかに見せている、儚げな女性の姿が見える。
そう.....
まるで、夢二が描くような。
♪ 待てど 暮らせど こぬひとを
宵待草の やるせなさ
今宵は月も でぬそうな ♪
今宵のあなたは。
待宵草、宵待草。
どちらがお好き?
この美しい曲のタイトルが宵待草となったことについて、私は
【野草図鑑によれば、待宵草とすべきところを、作詞者の竹久夢二が間違えて、『宵待草』 としてしまったそうだが.....
私には、夢二がわざとそうしたような気がする。】
と書いた。
実はこの、<間違えた説>は、我が家にある野草図鑑から引用したものだったのだが。
あれから再びよく考え、やはり夢二はわざとそうしたのだと、ますます強く思えてきた。
そして。
何がしかの調査をして、図鑑の編纂にあたった方、その一節を書いた方、もしくは、最初に<間違えた説>を唱えた方は、かなりの無粋者なのではないかと.....そう思えてきた(笑)
いや。
学者らしいといえば学者らしい。
正式名称はマツヨイグサなのだから、待と宵の順番が入れ替わっていては、学術的には間違いであろう。
しかし、よく考えれば日本語には、そんな言葉遊びとも思える美しい単語、もしくは名称が、たくさん溢れているのではないだろうか。
当て字や造語を愉しみ、韻をふんで響きに酔う。
これは私たち皆が、普通に生活の中でもしていること。
漢字にひらがな、カタカナ、英語まで、雑多に混じり合った言葉たちが織り成す現代の日本語は、もはや原型をとどめていないほどである。
特に、歌の世界、創作の世界では、ルールなどはあってなきに等しく、逆にいえば、厳然たるルールの中にある日本語だからこそ、そこに遊びが生まれやすいのだと思う。
そういえば昔、誰だかは忘れたが、歌を作る人がどこかで語っていた。
「自分の作った歌を、『作者はこういう意味をこの歌詞に含めているのだ!』と、はっきりひとつに解釈したがる人がいるが、そんなことはどうでもよい。その歌が自分の手を離れていった時点で、聴いた人それぞれがどうにでも解釈すればいいのだ」
と。
そう考えればなるほど。
宵を待つ心も人それぞれ。
待っている宵の種類も人それぞれ、ということだ。
そして。
この世では正しいことだけが美しいのではなく、時にはいたずらに間違うことのほうがずっとずっと美しかったりする。
私には。
暮れゆく窓辺で『宵待草』を眺めながら、ほっそりとした白いうなじをほのかに見せている、儚げな女性の姿が見える。
そう.....
まるで、夢二が描くような。
♪ 待てど 暮らせど こぬひとを
宵待草の やるせなさ
今宵は月も でぬそうな ♪
今宵のあなたは。
待宵草、宵待草。
どちらがお好き?
風情があるもん、だって。
これを夢二の「単なる間違い」とするのは
私もかなりの無粋者だと思うよお。
アン風に言いますと、学者さまに「ほんの少しの想像力でもあれば」、
そんな説は出ないと思うけどなあ。。。
ちなみに、erimaさんの名文に登場する
「ほっそりとした白いうなじをほのかに見せている、儚げな女性の姿」ね、
コレ、もちろん私。
”ほっそり”という部分に若干の無理があるとは思うけど、その他の状況を考え合わせると、
完璧アタシじゃ~~~ん。
♪ 待てど 暮らせど こぬひとを
宵待草の やるせなさ
今宵は月も でぬそうな ♪
ほら~~~。
くぅ~、涙出てきた。
さてさて、本日の四国ですが、月は出ておりません。。。。
で、そんな風情で待つのはねずみ?
ムシキングが迷彩服着て、宵待ち草を眺めつつねずみを待つの?
想像すると何がなんだかわからんようになってきたがね(笑)
でもこの歌、いい歌だよねぇ。
我々のような奥ゆかしい日本女性の風情がたっぷりと、情緒の塊と化して表れてるっていうかさー。
しかし、同じ男でも、夢二と学者先生じゃ、ま~ったく種類が違うんだね。
ま、雑草を愛して研究しちゃうところなんかはいいセンいってると思うんだけど、「研究」ってのにも想像力がもっと入れば、面白いと思うんだけどね。
名もなき小さな花にも、名前ってとっても大切ですもの。
ある意味名前なんてどうでもいいときもあるけれど。
ねぇ、ダイアナ。そうは思わなくって?
日本語って平坦なようですが、
口に出した語感が生きる言語だと思うのです。
街宵草では、使う音は同じでも、
言い慣れていないことも加味しても、
どこか座りの悪さを感じてしまう。
でも、字面はどちらも良いので、
文章にする際はお好きな方を使ってもよいのでは…。
日本語の曖昧さって、風情あって良いですね。
日本語に限らず、言葉の持つ面白さを徒然なるままに書き綴っています。
また来てください。
これからもよろしく
その曖昧さが時には徒となることもある日本語。
しかし、やはり美しいものですよねぇ。
同じ何かを呼ぶのにも、様々に変化し、
遊び、あっちにころころ、こっちにころころ。
言葉って生き物なんだなぁって、
日本語を考えるたびに、強く思います。
正しく使うことが基本にあれば、
遊びは多くてもいい。
問題は正しく使えない者が、
振り回すことなんでしょうね。
響きや語呂も美しいけれど、
文字にしたときの様々なバランスも美しい。
多くの言葉がある国に生まれたことは
とても幸せだと思います。
わざわざお越しいただきまして、ありがとうございます!
私は言葉に詳しいというわけではないですが、ただひたすら言葉が好きで、駄文を色々書いてます。
来て頂けて、ひたすら光栄です。
また、遊びに行かせていただきますね。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。