大阪・北新地のクリニック放火殺人事件について、興味深い記事が舞い込んだ。以下はけさ届いたメルマガの記事からの引用である。
「25人が犠牲になった大阪・北新地の放火殺人事件で、大阪府警は、谷本盛雄容疑者(61)が大勢の人々を巻き込んで自殺を図ったとの見方を強めている。こうした行為は拡大自殺と呼ばれ、同様の大量殺害事件は近年たびたび起きている。その背景には孤立感や絶望感があると指摘されている。
わずか80平方メートルのクリニックに30人近い患者らが集まっており、ある大阪府警幹部は『自分が死ぬことを恐れず、大量殺人を確実に実行したいという強固な意志があったのは明らかだ』と話す。」
(読売新聞オンライン12月26日配信)
記事によれば、谷本某の行為は「大勢の人々を巻き込んで自殺を図った」もので、「拡大自殺」の一つと見られるのだそうだ。
この記事には《大阪放火、大勢の人々を巻き込んで自殺図る「拡大自殺」か…背景に孤立・絶望感》というタイトルが付けられ、「拡大自殺」という聞き慣れぬ呼称が、さも大きな発見のように強調されている。しかし、この呼称に大した意味はない。人は理解不可能な物事にネーミングを行い、一定のクラス分けをすることで、なんとなく解った気になるものだ。「拡大自殺」という新奇なネーミングは、居心地の悪さを拭い去るためのある種儀式のようなものだと思えばよい。
そもそもこの事件の犯人・谷本某は、なぜ「大勢の人々を巻き込んで自殺しよう」などと考えたのだろうか。谷本某の強い殺意、「大量殺人を確実に実行したいという強固な意志」は、彼自身の自殺への意志とどう関係するのか。あるいは、ーーどちらが先かは分からないがーー谷本某の自殺願望は、どうして「大量殺人を確実に実行したいという強固な意志」へと変質したのか。
記事によれば、谷本某は「離婚後に仕事を辞めるなど生活が荒れ、2011年に息子を包丁で負傷させる事件を起こした」という。この事件で谷本某に懲役4年の実刑判決を下した大阪地裁は、「(谷本某は)寂しさに耐えかね、自殺を考えるようになったが、死ぬのが怖くて踏み切れず、誰かを殺せば死ねるのではないかと思うようになった」と見ている。
この記事を読んで、私は谷本某の行為に、弱々しい兵士の姿を重ね合わせた。死を恐れる臆病な兵士は、目をつぶり、「ウォー」と雄叫びをあげながら、銃剣をかざして敵陣に切り込んでいく。
記事によれば、谷本某の心の奥には「社会への復讐願望」があったという。とすれば、彼の本来の敵は「社会」そのものであったはずだが、この得体の知れない「社会」の内実は、どうしてか彼の中で心療内科の患者たちに置き換えられてしまっている。この事件のやるせなさの核心は、この「置き換え」にあるのだと思う。