1994年といえば、26年前のことになる。ずいぶん昔のことのようでもあり、ついきのうのことのようにも思えるが、その年に出版した本の「あとがき」で、私は次のように書いた。
「私がこの本の構想を得たのは、一年半ほど前の春のことである。舞台裏を明かせば、その時私は三つのテーマについて論じようと考えていた。聖書の神話とギリシア神話、それに日本神話である。したがって予定では、本書はヘブライズム、ヘレニズム、ジャパニズムという三部構成の本になるはずであった。日本神話にも考察を加えようと考えたのは、私自身が日本人であることを意識してのことであり、我々の道徳を問題にしようとすれば、自国の文化的伝統への論及は欠かせないと思ったためである。だが、日本神話を倫理学の観点から再検討しようというこの試みについては、具体化の作業が思うように進まず、当初の計画は結局のところ構想倒れに終わることになった。
その理由はいくつかある。(中略)私が日本神話のテクストの中に、本書のテーマに合致した形で議論世界を構成できるだけの、必要にして充分な素材を見出せなかったことである。『古事記』や『日本書紀』を読み、またそれに関連した解説書や研究書の類に目を通してみても、道徳とその非理性的な「外部」とのつながりを明らかにする、というテーマの追及に資するような題材を、私はその中に見出すことができなかった。日本神話の中には道徳に関わる要素が存在しないのか、存在しているのにそれを見る目が私にないというだけの話なのか、これは今の私には容易に判断の下しかねる問題である。」
日本神話の中には道徳に関わる要素が存在しないのか、存在しているのにそれを見る目が私にないというだけの話なのか。--この問いの答えが、今にしてやっと見つかった気がする。NHK Eテレの教養番組「100分de 名著 吉本隆明 “共同幻想論” 」の放送を視聴し、そのテキスト『100分 de 名著 吉本隆明 共同幻想論』(先崎彰容著)を読んでみて、「ああ、そういうことだったのか」と思い至った。要するに、「日本神話の中には道徳に関わる要素が存在しているのに、それを見る目が私にはなかった」ということなのである。
26年前に私が書くべきだったのは、吉本隆明『共同幻想論』の二番煎じにほかならなかった。だが当時の私には、二番煎じですら書くことができなかっただろう。なにしろこの名著の名前すら、当時の私は思い浮かべることができなかったのだから。
本ブログで以前述べたように、私は約50年前、刊行間もないこの本を手にとり、この本の頁をめくった経歴を持っている。当時の私はこの本の中身がちっとも理解できず、忸怩たる思いを噛みしめながら、読み通すことを断念した。その挫折の苦さが、この本にまつわる思い出を私の記憶からすっぽり拭い去ったに違いない。
残念ながら、老いぼれてしまった今の私には、『共同幻想論』の二番煎じを書く気力は残っていない。さしあたりは『共同幻想論』の高峰を踏破することに全力を注ぐのみである。
NHK先崎講師のおかげで、吉本がこの本の中で『古事記』や『遠野物語』を取りあげた意図が解り、この高峰の見取図を手に入れることができた今は、おのずと登攀のルートも見えてくる。あとは実際にこのルートに立ち、えっちらおっちら脚を運ぶだけだ。それだけの脚力は、私にもまだ残っていると信じたい。
「私がこの本の構想を得たのは、一年半ほど前の春のことである。舞台裏を明かせば、その時私は三つのテーマについて論じようと考えていた。聖書の神話とギリシア神話、それに日本神話である。したがって予定では、本書はヘブライズム、ヘレニズム、ジャパニズムという三部構成の本になるはずであった。日本神話にも考察を加えようと考えたのは、私自身が日本人であることを意識してのことであり、我々の道徳を問題にしようとすれば、自国の文化的伝統への論及は欠かせないと思ったためである。だが、日本神話を倫理学の観点から再検討しようというこの試みについては、具体化の作業が思うように進まず、当初の計画は結局のところ構想倒れに終わることになった。
その理由はいくつかある。(中略)私が日本神話のテクストの中に、本書のテーマに合致した形で議論世界を構成できるだけの、必要にして充分な素材を見出せなかったことである。『古事記』や『日本書紀』を読み、またそれに関連した解説書や研究書の類に目を通してみても、道徳とその非理性的な「外部」とのつながりを明らかにする、というテーマの追及に資するような題材を、私はその中に見出すことができなかった。日本神話の中には道徳に関わる要素が存在しないのか、存在しているのにそれを見る目が私にないというだけの話なのか、これは今の私には容易に判断の下しかねる問題である。」
日本神話の中には道徳に関わる要素が存在しないのか、存在しているのにそれを見る目が私にないというだけの話なのか。--この問いの答えが、今にしてやっと見つかった気がする。NHK Eテレの教養番組「100分de 名著 吉本隆明 “共同幻想論” 」の放送を視聴し、そのテキスト『100分 de 名著 吉本隆明 共同幻想論』(先崎彰容著)を読んでみて、「ああ、そういうことだったのか」と思い至った。要するに、「日本神話の中には道徳に関わる要素が存在しているのに、それを見る目が私にはなかった」ということなのである。
26年前に私が書くべきだったのは、吉本隆明『共同幻想論』の二番煎じにほかならなかった。だが当時の私には、二番煎じですら書くことができなかっただろう。なにしろこの名著の名前すら、当時の私は思い浮かべることができなかったのだから。
本ブログで以前述べたように、私は約50年前、刊行間もないこの本を手にとり、この本の頁をめくった経歴を持っている。当時の私はこの本の中身がちっとも理解できず、忸怩たる思いを噛みしめながら、読み通すことを断念した。その挫折の苦さが、この本にまつわる思い出を私の記憶からすっぽり拭い去ったに違いない。
残念ながら、老いぼれてしまった今の私には、『共同幻想論』の二番煎じを書く気力は残っていない。さしあたりは『共同幻想論』の高峰を踏破することに全力を注ぐのみである。
NHK先崎講師のおかげで、吉本がこの本の中で『古事記』や『遠野物語』を取りあげた意図が解り、この高峰の見取図を手に入れることができた今は、おのずと登攀のルートも見えてくる。あとは実際にこのルートに立ち、えっちらおっちら脚を運ぶだけだ。それだけの脚力は、私にもまだ残っていると信じたい。