おはようございます!
なんだか、雨の多い日が続いていますが、今日は晴れるらしい、と天気予報で言っていました(笑)。
やっぱり、天気のいい日がいいよね!ってことで、やっぱり初夏は気持ちのいい天気でないとね!
つゆはちょっといやだなあ、と言いながら、ジロ・デ・イタリアも佳境に入ってきました。
昨日は、お休みでしたが、今日から最後の決戦シリーズ、というわけで、
なんだか燃えている今日この頃でした。
もう、死ぬほど山岳コースがすごいからね!
どうなることやら、今から楽しみです!
さて、火曜日は、「西南戦争を見る!」シリーズで、行きましょう。
まあ、どんな感じになるか、わかりませんが、まあ、いろいろな人物のストーリーを見るのは、なかなか楽しいですから、
そんな感じで、楽しんでいきましょう!
さて、前回は、熊本共同隊と宮崎八郎について書きましたが、宮崎八郎を60年代から70年代に
荒れ狂った反政府主義の学生運動のように書いていて、司馬遼太郎氏の、その思想性の安易さを指摘しました。
あの時代に、ルソーの人権論を理解し、その導入を図る運動を示した、ということは、時代の先見性を表すもので、
60年代の反政府のための、自分がモテたいだけのくそみたいな学生運動とは、全く違うものです。
マルクス主義は、人工的につくられた低脳馬鹿主義で、人間にとって害のみだったくそ主義です。
そんなことも理解できない馬鹿なんて、低脳うんこ馬鹿以外の何者でも無いのですから、
そもそも、司馬氏は、物事の理解ができない低脳うんこ馬鹿だったわけです。
さて、その宮崎八郎ら熊本共同隊が、川尻の薩軍基地についたのは、二月二十一日の夜更けだったそうです。
まあ、政府の征討令は十九日に出ているわけですから、まあ、熊本共同隊も素早い反応でもあるわけです。
まあ、そんな中、共同隊の領袖でもある池辺吉十郎が薩軍と接触するわけですが、大方の人間はすでに熊本城攻撃に出てしまったあとで、
小隊長級の人間しか、いなかったそうです。そして、
「われわれは、薩軍に協力しようとする者です」
と表明したところで、薩人たちは別に喜ぶこともなく、ほとんど取り合おうともしなかったようです。
まあ、肥後人達は人一倍誇り高いらしいですし、まあ、普通に考えれば命をかけて戦いに加わろうという気構えで話しかけている
わけですから、まあ、へこみますよね、普通に。まあ、ある薩人が
「自分たちは、身分が低く、他県人と話しができないので、熊本城で篠原(国幹)どんに話したらどうか」
というようなことを言ってくれたので、そうしたそうです。ま、普通に考えりゃ当然の反応ということでしょう。
まあ、これについて、司馬氏は、薩摩の夜郎自大性やら、幕末、その高度な戦略性から、
薩摩藩以外を平気で裏切る、という各藩の薩摩意識について悪いように指摘していますが、
はっきり言って、他藩が馬鹿だったから、軽くあしらわれていたに過ぎません。
なにか、こう、偉そうに薩摩藩が悪いみたいな書き方をしていますが、どうもこのひとは、自分が偉ぶることばかり考えて、
「あいつは、悪い。それを指摘している俺は偉い」
的な言動があまりにも、多いですね。
薩摩が幕末を指導していなければ、長州はつぶれているし、時代遅れで、結局自分のためにしか、幕府を誘導できなかったただの才子肌の慶喜を
無駄に政権として長生きさせ、無駄な時間が長引いたと思われます。
それを考えれば、薩摩のあり方は正しかったし、戦略性が高いということは、それだけ能力が高かったと見るべきなのです。
この点、司馬氏の物の見方は、当時のだめだめだった各藩の意識に迎合しているに過ぎず、レベルの低いモノの見方です。
まあ、いいでしょう。次へ進みます。
まあ、そういうわけで、熊本共同隊のみなさんは、夜の街道を歩き、熊本城へ向かうわけですが、その道すがら、
「われわれは薩人と協力するなど、間違っていたのではないか」
と叫ぶように言う者があったそうです。
まあ、宮崎八郎の説は、
「政府を倒しうるのは薩軍しかおらず、目的(人民主権の獲得)のためには、何者とも道連れになって良い」
という説だそうで、特に何も言わなかったとされています。
結局、何によって薩軍に加担するのかが、明確であれば、薩人の態度など、気にする必要もない、ということになりますね。
実際、政府を薩軍が倒し得るという見方が間違っていたわけです。
なにしろ、この戦争は、大久保によって引き出された事実であり、その実行を助けているのが、論考者西郷なわけですから、
その時点で、薩摩士族削除は事実として引き出されてしまうわけです。
そういう構図もわからず、ただ理想のために、その身をかけた宮崎八郎は、あまりに若すぎて理想主義に走りすぎたのかもしれません。
確かにその掲げる「人民主権の獲得」は、将来の現実的な政策でしたが、この明治の段階では、そこまで民衆が成熟していない。
現実を見る目が、足りなかったのが、宮崎八郎だったと言えるのではないでしょうか。
ただ、その目指した「人民主権」というのは、現代当然の権利と理解されている考え方ですから、それは、先見の明があり、
その身をかけたのも、よくわかる話です。ただ、それを追うあまり、過ちを犯してしまったという例だと、言えるでしょうね。
まあ、薩軍に対して文句を言っているような人間は、さらに、自分の命をかける意味がわからない人間だということが、わかります。
薩軍の態度が気にくわないと言って、文句を言っているということは、薩軍に協力する自らの目的がないということが、だだわかりです。
目的がないけれど、見栄のようなもの、他人からどうみられるかを気にして、それで、熊本共同隊に加わっている人間だということが、だだわかりです。
だから、薩人から否定されるような態度をとられたことが、気にいらないわけです。目的があれば、そんなもの、軽く流しておけばいいわけですからね。
結局、日本人の欠点。見栄をはる、というのが、ここに現れているわけです。
「あいつが熊本共同隊に加わるなら、立場上、俺も加わらなければ」
という意識ですね。
これは、
「社会的役割を果たしている」
と、他人から見られたいが為の行動であり、僕がよく否定する「ためにする行為」です。
こんなもの、自分にとって、なんら意味がありません。
だから、「ためにする行為」は、結局、不本意な形で、自らを滅ぼす結果となるのです。
だから、絶対、手を染めてはいけない、行為なんですね。
宮崎八郎のように、自らに目的があれば、良いと思います。死ぬ時だって、本望だと思います。
でも、「ためにする行為」で、熊本共同隊に加わっていたのでは、さらに、死を迎えるとしたら、まあ、不本意この上ないでしょう。
だから、こういう文句を言う輩は信用できないのです。というより、信用しては、いけない。
結局、目的や信念のない人間というのは、信用してはならない、ということになるわけです。
それが、この日本という国で語られるストーリーなわけです。
まあ、だけど、当時の藩意識というのは、非常に強いモノですから、他藩の人間に淡白なのは、どこの藩も似たり寄ったりだったんじゃないですかね。
自分の藩が一番!なわけですから。ことさら、薩摩だけが、厳しいみたいな書き方ですけどね。確かに薩摩飛脚という言葉もあったくらい、
二重鎖国しているのが、薩摩ですが、他藩人に冷淡というのは、それだけ、自らを誇っていたというくらいのモノだと思います。
まあ、夜郎自大な部分は無きにしもあらずだったでしょうけどね。
ま、というわけで、熊本城に着いた熊本共同隊は、宮崎八郎と中根正胤の二人を篠原の元に派遣するわけです。
まあ、中根さんは、これ以前に別府晋介と会って同盟を約束して帰ったという人物なので、まあ、そういう経緯もあって、代表に選ばれたんでしょうね。
さて、この二人と篠原の会談ということになるわけですが、この篠原さん、薩人の中でも、とびきり無口だったそうですね。
まあ、薩摩というところは、無口でひょうかんな薩摩武士というのを理想的な武士のありかたとして、教育をしてきた国ですから、
まあ、ぼっけもんの典型というのが、この篠原さんだった、というところでしょう。
彼は、ほとんど無口で、宮崎ら二人の言葉を聞いていたようですが、最後に、
「これくらいの城ひとつを落とすのに何の戦策も戦略もいりません。一蹴して過ぎるのみです」
と、かつて別府晋介が言ったのと同じ言葉を吐いたそうです。
これ、まあ、実際にそう思っていた、というより、薩人としては、普通に出てくる言葉なんじゃないですかね。
人間というものは、
「これ、できる?」
と聞かれて、
「できない!」
とは、なかなか言えないものです。
まあ、薩人は、その典型のように、自らに誇りと自信を持っている人達ですからね。
それに、戦争というのは、薩人にとって、祭りですからね。
今からはじめようとしている戦争について、
「できません」
なんて、言うはずないじゃないですか!
これについて、司馬氏は、
「薩人の傲岸と勇を頼んでの粗雑さに驚いた」
と、八郎の意識を書いていますが、それは、ちょっと違うと思いますね。
なんというか、司馬という人間は、全然、人間というのが、わかっていません。まったく浅はかなバカです。
八郎だって、薩人というのが、そういう思考をするくらいわかっていたと思いますよ。
「ああ、勇を誇るから、自然、そういう言い方になるのだろう」
と思っていたと思いますね。それくらい、自然にわかるでしょうが。
それを、このバカなおっさんは、結果から指摘できそうな内容を、ただ指摘しているだけで、そんなの誰だってわかるっつーの。
「熊本城は落ちなかった。それは、熊本城に鉄砲だけで挑んだからだ。なんて粗雑なんだ。そして、それを打ち破れるとカン違いした薩人は、傲岸だったから、そうなった」
と、その低脳な脳で考えているのがだだわかりで、あまりに浅いその低脳ぶりに、失笑がもれます。
まあ、司馬氏は、失笑者ですからね。
ほんとにくそ低脳だな、こいつは!
人間、誇ってみるというのは、よくありがちな話です。
この篠原の言葉は、他藩の人間に対して、弱みを見せたくないから吐いている誇り言葉であって、
その言葉から、その人間の考えていることは、正確にはわからない言葉なんです。
それを低脳な断定をするもんだから、おかしなことになるわけです。
ま、司馬氏の指摘することは、ほとんど全部間違っているので、信用はできないことは、これまでで、だだわかりになっていますがね。
まあ、これだけ、人間というものがわからないバカも、珍しいですけどね。
さて、宮崎らは、隊に帰って復命するわけですけど、まあ、一同、篠原の言葉に驚いたようです。
司馬氏は、
「彼らは驚くより侮辱を感じ、かつ敗戦を予想して、こんないくさはやめだ!という者も出た」
と書いているのですが、これ、ほんとうかな?司馬氏の創作なんじゃね?と思うんですよね。
つまり、これが本当だとすると、熊本共同隊の多くは、城攻めには、大砲での破壊が最も有効であり、正攻法であることを知っており、
さらに敗戦まで予想できるという前代未聞の能力をもっているわけですよ。
薩軍が政府さえ倒せると考えている宮崎は、どうなるんですかね?
政府さえ倒せる薩軍が自信をもって、
「こんな小城!」
と言っているのに、それを信用すらせずに、さらに未来まで予測できるのなら、
絶対に宮崎らは、自分の目的達成のために、薩軍にしつこいほどに、大砲の調達とその運用を働きかけるべきではありませんか?
実際、司馬氏の書いているようだったら、絶対にそうするはずなんです。なにしろ、宮崎は「人民主権を実行する」ために、
熊本共同隊を、このいくさに出したわけですから。
あきらめる、なんてありえない話なんですよ。
だから、この場合、篠原の言葉を半ば信じたからこそ、熊本共同隊は、いくさに加わったし、先を見通せる人間など、いなかった、と見るのが正解です。
そして、篠原の言葉を半ば信じたからこそ、「大砲による攻撃こそ、最も有効」という事実を、篠原らに教えなかった、
と見るべきです。
ほんとに、ほとんど、間違っているのが、司馬作品ですね。
もう、ひとの見方が、甘いし、浅すぎです。まあ、バカだから、しょうがないけど、こんなの読んで疑問に感じない人間もバカだということです。
ほんと、俺たちより、上の世代は、低脳うんこバカが多すぎますね。
さて、長くなりました。
久しぶりの「西南戦争シリーズ」だったので、ちょっと調子を取り戻すのに時間がかかりましたが、なんとか、戻りましたね。
いやあ、しかし、驚くほどの浅い人間だね、司馬というひとは。
まあ、事実の方が、おもしろいので、そっちを楽しみながら、
話して行くことにしますね。
今日も、ここまで読んで頂いたみなさん、ありがとうございました!
また、次回、「西南戦争シリーズ」は、木曜日になりますが、そこで、お会いしましょう!
ではでは。
なんだか、雨の多い日が続いていますが、今日は晴れるらしい、と天気予報で言っていました(笑)。
やっぱり、天気のいい日がいいよね!ってことで、やっぱり初夏は気持ちのいい天気でないとね!
つゆはちょっといやだなあ、と言いながら、ジロ・デ・イタリアも佳境に入ってきました。
昨日は、お休みでしたが、今日から最後の決戦シリーズ、というわけで、
なんだか燃えている今日この頃でした。
もう、死ぬほど山岳コースがすごいからね!
どうなることやら、今から楽しみです!
さて、火曜日は、「西南戦争を見る!」シリーズで、行きましょう。
まあ、どんな感じになるか、わかりませんが、まあ、いろいろな人物のストーリーを見るのは、なかなか楽しいですから、
そんな感じで、楽しんでいきましょう!
さて、前回は、熊本共同隊と宮崎八郎について書きましたが、宮崎八郎を60年代から70年代に
荒れ狂った反政府主義の学生運動のように書いていて、司馬遼太郎氏の、その思想性の安易さを指摘しました。
あの時代に、ルソーの人権論を理解し、その導入を図る運動を示した、ということは、時代の先見性を表すもので、
60年代の反政府のための、自分がモテたいだけのくそみたいな学生運動とは、全く違うものです。
マルクス主義は、人工的につくられた低脳馬鹿主義で、人間にとって害のみだったくそ主義です。
そんなことも理解できない馬鹿なんて、低脳うんこ馬鹿以外の何者でも無いのですから、
そもそも、司馬氏は、物事の理解ができない低脳うんこ馬鹿だったわけです。
さて、その宮崎八郎ら熊本共同隊が、川尻の薩軍基地についたのは、二月二十一日の夜更けだったそうです。
まあ、政府の征討令は十九日に出ているわけですから、まあ、熊本共同隊も素早い反応でもあるわけです。
まあ、そんな中、共同隊の領袖でもある池辺吉十郎が薩軍と接触するわけですが、大方の人間はすでに熊本城攻撃に出てしまったあとで、
小隊長級の人間しか、いなかったそうです。そして、
「われわれは、薩軍に協力しようとする者です」
と表明したところで、薩人たちは別に喜ぶこともなく、ほとんど取り合おうともしなかったようです。
まあ、肥後人達は人一倍誇り高いらしいですし、まあ、普通に考えれば命をかけて戦いに加わろうという気構えで話しかけている
わけですから、まあ、へこみますよね、普通に。まあ、ある薩人が
「自分たちは、身分が低く、他県人と話しができないので、熊本城で篠原(国幹)どんに話したらどうか」
というようなことを言ってくれたので、そうしたそうです。ま、普通に考えりゃ当然の反応ということでしょう。
まあ、これについて、司馬氏は、薩摩の夜郎自大性やら、幕末、その高度な戦略性から、
薩摩藩以外を平気で裏切る、という各藩の薩摩意識について悪いように指摘していますが、
はっきり言って、他藩が馬鹿だったから、軽くあしらわれていたに過ぎません。
なにか、こう、偉そうに薩摩藩が悪いみたいな書き方をしていますが、どうもこのひとは、自分が偉ぶることばかり考えて、
「あいつは、悪い。それを指摘している俺は偉い」
的な言動があまりにも、多いですね。
薩摩が幕末を指導していなければ、長州はつぶれているし、時代遅れで、結局自分のためにしか、幕府を誘導できなかったただの才子肌の慶喜を
無駄に政権として長生きさせ、無駄な時間が長引いたと思われます。
それを考えれば、薩摩のあり方は正しかったし、戦略性が高いということは、それだけ能力が高かったと見るべきなのです。
この点、司馬氏の物の見方は、当時のだめだめだった各藩の意識に迎合しているに過ぎず、レベルの低いモノの見方です。
まあ、いいでしょう。次へ進みます。
まあ、そういうわけで、熊本共同隊のみなさんは、夜の街道を歩き、熊本城へ向かうわけですが、その道すがら、
「われわれは薩人と協力するなど、間違っていたのではないか」
と叫ぶように言う者があったそうです。
まあ、宮崎八郎の説は、
「政府を倒しうるのは薩軍しかおらず、目的(人民主権の獲得)のためには、何者とも道連れになって良い」
という説だそうで、特に何も言わなかったとされています。
結局、何によって薩軍に加担するのかが、明確であれば、薩人の態度など、気にする必要もない、ということになりますね。
実際、政府を薩軍が倒し得るという見方が間違っていたわけです。
なにしろ、この戦争は、大久保によって引き出された事実であり、その実行を助けているのが、論考者西郷なわけですから、
その時点で、薩摩士族削除は事実として引き出されてしまうわけです。
そういう構図もわからず、ただ理想のために、その身をかけた宮崎八郎は、あまりに若すぎて理想主義に走りすぎたのかもしれません。
確かにその掲げる「人民主権の獲得」は、将来の現実的な政策でしたが、この明治の段階では、そこまで民衆が成熟していない。
現実を見る目が、足りなかったのが、宮崎八郎だったと言えるのではないでしょうか。
ただ、その目指した「人民主権」というのは、現代当然の権利と理解されている考え方ですから、それは、先見の明があり、
その身をかけたのも、よくわかる話です。ただ、それを追うあまり、過ちを犯してしまったという例だと、言えるでしょうね。
まあ、薩軍に対して文句を言っているような人間は、さらに、自分の命をかける意味がわからない人間だということが、わかります。
薩軍の態度が気にくわないと言って、文句を言っているということは、薩軍に協力する自らの目的がないということが、だだわかりです。
目的がないけれど、見栄のようなもの、他人からどうみられるかを気にして、それで、熊本共同隊に加わっている人間だということが、だだわかりです。
だから、薩人から否定されるような態度をとられたことが、気にいらないわけです。目的があれば、そんなもの、軽く流しておけばいいわけですからね。
結局、日本人の欠点。見栄をはる、というのが、ここに現れているわけです。
「あいつが熊本共同隊に加わるなら、立場上、俺も加わらなければ」
という意識ですね。
これは、
「社会的役割を果たしている」
と、他人から見られたいが為の行動であり、僕がよく否定する「ためにする行為」です。
こんなもの、自分にとって、なんら意味がありません。
だから、「ためにする行為」は、結局、不本意な形で、自らを滅ぼす結果となるのです。
だから、絶対、手を染めてはいけない、行為なんですね。
宮崎八郎のように、自らに目的があれば、良いと思います。死ぬ時だって、本望だと思います。
でも、「ためにする行為」で、熊本共同隊に加わっていたのでは、さらに、死を迎えるとしたら、まあ、不本意この上ないでしょう。
だから、こういう文句を言う輩は信用できないのです。というより、信用しては、いけない。
結局、目的や信念のない人間というのは、信用してはならない、ということになるわけです。
それが、この日本という国で語られるストーリーなわけです。
まあ、だけど、当時の藩意識というのは、非常に強いモノですから、他藩の人間に淡白なのは、どこの藩も似たり寄ったりだったんじゃないですかね。
自分の藩が一番!なわけですから。ことさら、薩摩だけが、厳しいみたいな書き方ですけどね。確かに薩摩飛脚という言葉もあったくらい、
二重鎖国しているのが、薩摩ですが、他藩人に冷淡というのは、それだけ、自らを誇っていたというくらいのモノだと思います。
まあ、夜郎自大な部分は無きにしもあらずだったでしょうけどね。
ま、というわけで、熊本城に着いた熊本共同隊は、宮崎八郎と中根正胤の二人を篠原の元に派遣するわけです。
まあ、中根さんは、これ以前に別府晋介と会って同盟を約束して帰ったという人物なので、まあ、そういう経緯もあって、代表に選ばれたんでしょうね。
さて、この二人と篠原の会談ということになるわけですが、この篠原さん、薩人の中でも、とびきり無口だったそうですね。
まあ、薩摩というところは、無口でひょうかんな薩摩武士というのを理想的な武士のありかたとして、教育をしてきた国ですから、
まあ、ぼっけもんの典型というのが、この篠原さんだった、というところでしょう。
彼は、ほとんど無口で、宮崎ら二人の言葉を聞いていたようですが、最後に、
「これくらいの城ひとつを落とすのに何の戦策も戦略もいりません。一蹴して過ぎるのみです」
と、かつて別府晋介が言ったのと同じ言葉を吐いたそうです。
これ、まあ、実際にそう思っていた、というより、薩人としては、普通に出てくる言葉なんじゃないですかね。
人間というものは、
「これ、できる?」
と聞かれて、
「できない!」
とは、なかなか言えないものです。
まあ、薩人は、その典型のように、自らに誇りと自信を持っている人達ですからね。
それに、戦争というのは、薩人にとって、祭りですからね。
今からはじめようとしている戦争について、
「できません」
なんて、言うはずないじゃないですか!
これについて、司馬氏は、
「薩人の傲岸と勇を頼んでの粗雑さに驚いた」
と、八郎の意識を書いていますが、それは、ちょっと違うと思いますね。
なんというか、司馬という人間は、全然、人間というのが、わかっていません。まったく浅はかなバカです。
八郎だって、薩人というのが、そういう思考をするくらいわかっていたと思いますよ。
「ああ、勇を誇るから、自然、そういう言い方になるのだろう」
と思っていたと思いますね。それくらい、自然にわかるでしょうが。
それを、このバカなおっさんは、結果から指摘できそうな内容を、ただ指摘しているだけで、そんなの誰だってわかるっつーの。
「熊本城は落ちなかった。それは、熊本城に鉄砲だけで挑んだからだ。なんて粗雑なんだ。そして、それを打ち破れるとカン違いした薩人は、傲岸だったから、そうなった」
と、その低脳な脳で考えているのがだだわかりで、あまりに浅いその低脳ぶりに、失笑がもれます。
まあ、司馬氏は、失笑者ですからね。
ほんとにくそ低脳だな、こいつは!
人間、誇ってみるというのは、よくありがちな話です。
この篠原の言葉は、他藩の人間に対して、弱みを見せたくないから吐いている誇り言葉であって、
その言葉から、その人間の考えていることは、正確にはわからない言葉なんです。
それを低脳な断定をするもんだから、おかしなことになるわけです。
ま、司馬氏の指摘することは、ほとんど全部間違っているので、信用はできないことは、これまでで、だだわかりになっていますがね。
まあ、これだけ、人間というものがわからないバカも、珍しいですけどね。
さて、宮崎らは、隊に帰って復命するわけですけど、まあ、一同、篠原の言葉に驚いたようです。
司馬氏は、
「彼らは驚くより侮辱を感じ、かつ敗戦を予想して、こんないくさはやめだ!という者も出た」
と書いているのですが、これ、ほんとうかな?司馬氏の創作なんじゃね?と思うんですよね。
つまり、これが本当だとすると、熊本共同隊の多くは、城攻めには、大砲での破壊が最も有効であり、正攻法であることを知っており、
さらに敗戦まで予想できるという前代未聞の能力をもっているわけですよ。
薩軍が政府さえ倒せると考えている宮崎は、どうなるんですかね?
政府さえ倒せる薩軍が自信をもって、
「こんな小城!」
と言っているのに、それを信用すらせずに、さらに未来まで予測できるのなら、
絶対に宮崎らは、自分の目的達成のために、薩軍にしつこいほどに、大砲の調達とその運用を働きかけるべきではありませんか?
実際、司馬氏の書いているようだったら、絶対にそうするはずなんです。なにしろ、宮崎は「人民主権を実行する」ために、
熊本共同隊を、このいくさに出したわけですから。
あきらめる、なんてありえない話なんですよ。
だから、この場合、篠原の言葉を半ば信じたからこそ、熊本共同隊は、いくさに加わったし、先を見通せる人間など、いなかった、と見るのが正解です。
そして、篠原の言葉を半ば信じたからこそ、「大砲による攻撃こそ、最も有効」という事実を、篠原らに教えなかった、
と見るべきです。
ほんとに、ほとんど、間違っているのが、司馬作品ですね。
もう、ひとの見方が、甘いし、浅すぎです。まあ、バカだから、しょうがないけど、こんなの読んで疑問に感じない人間もバカだということです。
ほんと、俺たちより、上の世代は、低脳うんこバカが多すぎますね。
さて、長くなりました。
久しぶりの「西南戦争シリーズ」だったので、ちょっと調子を取り戻すのに時間がかかりましたが、なんとか、戻りましたね。
いやあ、しかし、驚くほどの浅い人間だね、司馬というひとは。
まあ、事実の方が、おもしろいので、そっちを楽しみながら、
話して行くことにしますね。
今日も、ここまで読んで頂いたみなさん、ありがとうございました!
また、次回、「西南戦争シリーズ」は、木曜日になりますが、そこで、お会いしましょう!
ではでは。