
雪と淳が手を繋ぎ楽しげに歩いて行くのを、直美はぼんやりと眺めていた。少し元気が無さそうだ。
そんな彼女を見て、横山が心配して声を掛けた。
「直美さん、どうしたんすか?どっか痛い?」

いきなり額に手を当ててきた横山に驚き、直美はパッと彼から身体を離した。
横山は手を離し謝ると、「直美さんが心配だったから」と彼女を気遣った。直美は困惑顔だ。

学科代表の仕事が多くて疲れているんじゃないか、と横山は言葉を続けた。彼女を優しげに見つめながら。
「大変だったら俺に話して下さいよ。ね?」

直美は困惑しつつも、なぜあんたが心配するのよと言ってその申し出を突っぱねた。
すると横山は淋しげな表情で俯くと、自分の気持ちを口に出した。
「‥分かります。直美さんも知っての通り、去年俺がしでかしたこと考えれば、
正直顔向け出来ないです‥」

横山は直美が彼を疎ましく思ったとしても、それは去年の自分の行動を省みればしょうがないことだ、と言った。
そして去年皆に迷惑を掛けた分、今年はその汚名を返上して行きたいと横山は静かに語った。
「‥それを何でわざわざ私に‥」

彼がなぜ自分にそんなことを言うのかと疑問に思って直美がそう口にすると、
「皆、謝罪しても取り合ってくれないから‥」と横山は淋しげに言った。

彼と彼女は並びながら、後輩たちの後ろを歩いた。横山は少し歩を緩めて、直美にしか聞こえない声で語る。
「‥勿論直美さんが俺のこと笑ったとしても、それはしょうがないことだと思ってます。
ただ‥直美さんが俺のことひどく嫌ってなかったらいいなと、思います‥」

それきり俯いた横山の横顔を見て、直美は彼に対するイメージが変わっていくのを感じた。
もっと軽くていい加減で、チャラい男だと思っていた‥。

直美は咳払いを一つしながら、彼に対するアドバイスを口にした。
少しきまり悪そうな態度で、しかし心から彼のことを考えて直美は口を開いた。
「別に‥笑ったりしないよ。とにかく、あんたが心からそう思って一生懸命過ごしてれば、
だんだん皆も分かってくれると思う」

そう直美が口にすると、横山はニッコリと微笑んで頷いた。そして彼女に、流し目の視線を寄越す。
「‥はい。そうしようと思います」

直美は幾分困惑しながらも、それからも彼の隣に並んで歩いた。
秋の空から注がれる木漏れ日は、二人の頭上からも降り注いでいる‥。

眩しかった太陽もとうに沈み、時刻は既に夜。雪は実家に居た。
シャワーから上がって台所に入ると、冷蔵庫の前で父親と出くわした。


父親の前に出ると、雪はわけもなく緊張した。
コーヒー飲む?と話しかけてみるが、父はそっけなく首を横に振るだけだ。

気詰まりの空気の中、雪が自分用のコーヒーを沸かそうとポットに手を掛けると、不意に父親が話しかけてきた。
雪は弾かれるように振り返って返事をする。

父親は眉を寄せながら話を始めた。難しい顔で雪を見る。
「新しく雇ったバイトの男‥本当にお前の友達なのか?」

突然河村氏のことが話題に出たので、雪は少し驚いた。脳裏には、以前彼から言われた言葉が蘇る。
じゃあオレは? お前の友達?

あの時雪は戸惑ったが、今や彼は雪の中で”知り合い以上”から”友達”になっていた。
頭を掻きながら雪が頷く。
「何っ?!あのいい加減な奴とか?!一体どこで出会った?!
もしかしておかしな奴なんじゃないだろうな?!」

すると父親は、凄い形相で雪に迫ってきた。よもや真面目な雪とヤンキー風味の亮が友達とは思わなかったのであろう。
雪は困惑しながらも、河村氏は変な人ではないと念を押した。何度も助けてもらった恩もある、蓮も気に入っている‥。
「変に外を歩き回るな。恋愛に夢中になりすぎるのも駄目だぞ」

父は溜息を吐きながら、娘に説教を垂れた。変な奴と出会う機会を作るような真似はせず、真面目に粛々と暮らせと。
彼氏って奴もおかしな男なんじゃないだろうな、と言った後、父はとある疑いの眼を雪に向ける。
「もしやあのバイトか‥?」

雪は予想外すぎる父親からの疑いの目を、必死で否定した。
「えっ?!違ッ‥!!彼氏は同じ大学の先輩で‥。
それに河村氏もよく知ればそんなおかしな人じゃないし‥」

ワタワタと説明する雪。父親は暫し眉を寄せていたが、やがて息を吐いて話を続けた。
「とにかく彼氏がどんな奴なのかまた詳しく説明しなさい。娘の彼氏がどういった人間なのか、
父親として知る必要があるからな」

雪はきまり悪く思いながら、大人しく頷いた。そして父親は雪自身の話へと話題をシフトする。
「そしてお前も三年生だが、就職活動は上手く行ってるか?お前なら大企業にも入れるだろう」

そうだろう? と言って父親は雪を見下ろした。
雪は父親からのプレッシャーを受け、何も言えず、顔を上げることも出来ず、ただその場で沈黙した。

父は溜息を吐きながら、娘に対する自分の気持ちを口にした。
「お前が良い環境で良い男に出会えて結婚でもすれば、心配事が一つは減るのにな‥」

夕食後の台所は、どこかうら寂しくて静かだった。冷蔵庫の鳴らす低い唸りに交じるように、父親からの小言が響く。
父はもう一度雪に質問した。先ほど初めて耳にした”彼氏”のことだ。
「その”先輩”のお前の彼氏は四年生なんだよな?どこに就職するんだ?」

雪は父からの問いに答えられなかった。
よく分からない、と口にすると、父親は呆れたように息を吐いた。
「彼氏のそんなことも知らないのか? 卒業するんだろう?
就職とか結婚とか、そういった将来の計画は何もないのか?」

雪はポカンと口を開けたまま、父親の言葉を聞いていた。
突如父から投げかけられた質問は、雪が今まで考えたことのないものだったのだ。
そういえば‥先輩とまだそういう話ってしたことないな‥

雪は暫し考えこんだが、それでも父に対して返す言葉は無かった。
進路のことはともかく、結婚だなんて‥。まだ彼と付き合って二ヶ月なのだ。将来を考えるも何も‥、と思って下を向く。

それきり黙り込んだ雪を見て、父親は雪に一つ忠告をした。
「‥お前もよく分かっているとは思うが、将来性や未来の展望が無い男は駄目だぞ」

父は雪が沈黙しているのは、しっかりしたところの無い男が相手だからと思っているようだ。
雪は何も言い返さず、素直に「はい」と言って頷いた。

そんな二人の会話を陰ながら聞いていたらしい母親が、
「事業熱に浮かされてる男にも注意して」と言って通りすぎて行った。

父親は苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちする‥。
お父さんの小言と、お母さんの癇癪が増えた気がする

実家に戻って数週間。
生活は快適だがどこか気詰まりを感じる日々に、雪は息を吐いた。
そして両親の変化を感じる度、私もまた焦燥感を感じ始める

雪は一人机に向かっていた。
授業のノートを開きながらも、ペンを走らせる内容はその焦りが書かせるものだった。
授業時間 変動あり? 課題はいつ始まるのか? 昼食の時間 友達と? 先輩と?

差し当たっての問題は、授業のこと、課題のこと。
そして今日直面した、誰とランチを共にするかということ‥。

雪は更にペンを走らせた。
就職‥無条件で大企業に入るべき? 結婚‥二十代で?それとも三十代‥?

雪は書いた文字を、結局グジャグジャと黒く塗り潰して消した。強い筆圧がノートにあとを付ける。
「あああもう‥!」

雪はそのままノートに突っ伏して唸った。
この家にいつまでも居るわけにはいかない、でも未来は漠然としすぎていて何も見えない‥。
雪の頭の中も、このノートのようにグジャグジャだった。
その日夜遅くまで、雪の唸りは響いていた‥。

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<漠然>でした。
お父さん厄介ですね‥。
要するにお父さんの雪に対する希望は、大企業に入って孝行しつつ良い男を見つけ結婚‥ということですね。
親としては一般的な希望なのかもしれないけれど‥。雪ちゃんはプレッシャーでしょうねぇ‥。
うーん‥。
次回は<眠れる鍵盤>です。
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