淳は彼女が去るのを見送ってから、帰宅の為に車を走らせていた。
脳裏には先ほどの彼女の姿が、何度も浮かんで来る。
プフフフ、と淳は笑いを堪えきれずに一人で吹き出した。
嬉しさと可笑しさでいっぱいで、とても愉快だ。
彼女はいつだって、予想外の行動で自分を驚かせる‥。
しかしふと、似たようなことがあったと淳は思い出した。
視線を漂わせながら思い出すのは、ある夏の夜のこと‥。
淳が雪に告白をした日のことだ。
あの時淳は一度断られて、握っていた彼女の手を離した‥。
手が離れていくその様子を、彼女は目を見開いて追っていた。
その表情はどこか淳の心に残るものだった。
あの時一度離れかけた淳の手を、彼女は強く掴んだ。
それは去って行くものを咄嗟に引き止める、彼女の本能のようなものを感じた。
そして今夜、淳はもう一度彼女の本能を垣間見た。
触れていた手を離した瞬間、咄嗟に自分の手を強く掴んだ彼女に。
目を見開いて自分を凝視する、彼女の表情の中に‥。
淳はハンドルを握った自分の手を、沈黙の中で眺めていた。
強く握られたこの手に、彼女の手の力と体温が未だ残っているような気がした。
ふぅん、と淳は一人呟いて、彼女の中の眠れる本能に思いを馳せた。
彼女自身は気づいていないかもしれないが、彼女は去るものに対して異常な程の執着を見せる。
それは彼女の性分か、その生い立ちに由来するものなのか‥。
どちらにしても彼女が自分を求めたのは、純粋な好意にあるわけでは無さそうだった。
淳は暫し思案していたが、不意に大きな雨粒が車を叩く音が聞こえた。
それはみるみるうちに大きくなり、気がつけば土砂降りになっていた。
その激しい雨音の中で、淳はキョトンとした表情を浮かべる。
確か彼女は傘を持っていなかった。
淳は車線変更の為に、ウインカーを出す‥。
あと家までもう少しというところで、雨が降ってきてしまった。
雪はコンビニの軒下にて、雨宿りをしているところだった。雨は土砂降りに近い降りだ。
「あーもぉ~!お母さん何で来ないの~?電話して随分経つのに‥」
傘を持ってきて欲しかったのに、母はなかなか現れなかった。雪は雨足を眺めながら溜息を吐く。
ここから家までそんなに離れているわけではないが、この降りでは走って帰ったとしてもびしょ濡れになるだろう‥。
雪はぼんやりしながら、その雨の音を聞いていた。
すると頭の中ではモクモクと、先ほどの場面が次々浮かんでくる。
雪は頭をブンブン振りながら、やはり雨の中を走って帰ろうかと思い直していた。
この雨は、頭を冷やせという神様からのメッセージかもしれない‥。
「姉ちゃーーん!」
すると通りの向こうから、蓮が飛沫を上げてこちらにやって来るのが見えた。雪は目を丸くする。
「何でこんなに早く帰って来たのよ?」
いつも夜中まで遊び歩いている蓮が、早い時間に帰って来たことに雪は驚いていた。
蓮は「お小遣いが無くなっちゃってさぁ」と言って、濡れた身体を震わせる。
そしてそんな赤山姉弟の元に、思いもしない人物がやって来た。
「お?」
二人は近づいてくる彼を見て目を丸くしたが、彼もまた、不思議そうな顔をして二人を眺めている。
「何で二人もいんだ? 傘一つしかねーってのに」
亮の姿を見て蓮は喜び、雪は首を傾げた。
「何で河村氏が‥?」という雪の問いに、
亮は雪達の母親から雪を迎えに行くよう頼まれたと答えた。今店は忙しく、母親は手が離せないのだ。
亮と蓮が一つの傘に入り、亮が持ってきた傘は雪が差した。
「なぁなぁところでよぉ、コンセントを幾つか差すやつって何て言ったっけ?」
突然の亮の問いに、雪は疑問符を浮かべながら何でそんなことを聞くのかと聞き返したが、亮は答えなかった。
隣で蓮が「マルチタップ?」と答えを口にしているが、
その時亮はあることに気づき、後方に視線を送っていた。
幼少時からピアノを習っていただけあって、亮は耳が良い。
激しい雨音の中から低い車のエンジン音を聞き取って、その車の主が誰であるかを知る。
すると亮はわざとらしく大きな声を出しながら、雪の方に背を屈めて近寄った。
「あ~!それにしてもオレみてーな心優しいバイトがどこにいるってーの?
二人とも一回ずつメシおごれよな!分かったか?」
亮はそう言って二人の肩に腕を回し、雪と蓮を自分の方へ引き寄せた。
楽しそうに、そして誰より親しげに。
遠目から見ている三人は、わいわいと騒ぎながら道を行く気の知れた友人のようだ。
亮の口角がニヤリと上がる。
亮はそんな自分達の姿を、後ろの彼に見せつけていた。
雪と蓮に気づかれないように、亮は彼に向かって後ろ手を振る。
早く帰れという意味か、お前の出番は無いよというメッセージか‥。
亮のシグナルは、路肩に停められたポルシェに送られた。
ザァザァと強い雨が、その車体を濡らしていく‥。
二つの傘を差した三人の後ろ姿を、車の中から淳は見つめていた。
先ほどの亮の仕草が、瞼の裏に焼き付いている。
後部座席には、彼女に渡そうと思っていた傘が転がっていた。
いつだって彼女を助けようとするそのタイミングの前に、亮が出てきて邪魔をする‥。
渡せなかった傘は、役に立てなかった自分の象徴のように思えた。
淳は様々な思いを抱えながら、暫し車中で遠ざかる三人の後ろ姿を眺めていた‥。
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<渡せなかった傘>でした。
無意識のところで去るものを引き止める、という雪ちゃんの性分を、先輩が気づきましたね。
その元になっている”愛情への飢え”みたいなところは、先輩と雪ちゃんが持つ共通点ですね。
そして亮の頭の中は、電子ピアノのことでいっぱい!
きっと倉庫の中で一日中どうすれば音が鳴るか考えながら作業していたんだろうなぁ。。かわいい奴(笑)
次回は<横山翔の計画>です。
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