Trapped in me.

韓国漫画「Cheese in the trap」の解釈ブログです。
*ネタバレ含みます&二次使用と転載禁止*

もう一度ここから

2013-11-14 01:00:00 | 雪3年2部(三者対面後~聡美父病院)


手術室の前に戻って来た雪が見たのは、

ぐっすりと眠り続けている青田先輩の姿だった。



雪は彼の前に立って、少しの間そこに佇んでいた。

静かな寝息が聞こえてくる。



全然起きない。

まさに爆睡と呼ぶに相応しい眠りっぷりだった。

彼の寝顔をじっと見ていると、口を開けたままどこか間抜けな表情をしている。



雪の中のイタズラ虫が騒ぎ出し、写メを撮ろうかと思い携帯を探ってワタワタした。

すると気配を察したように、先輩はフッと目を開ける。



雪は、エスパーさながらの彼のセンサーにビックリ仰天だ。

内心ビクビクながらも、雪は彼に今の状況を伝えた。

「お、起きました?聡美のお父さん無事手術成功して、リカバリールームに運ばれました」



それを聞いた彼は居住いを正し、いつの間にか寝てしまったと頭を掻いた。

しかし次の瞬間彼は微笑んだ。いつもの目尻の下がった笑顔で。

「とにかく、良かったよ」



雪はそのまま、先輩の隣に腰掛けた。

並んで座りながら、二人は目を合わす。



あの、と雪は口を開いた。

先輩は黙って彼女の言葉の続きを待つ。

「さっきは‥怒鳴ったりしてすみませんでした」



雪は頭を掻きながら、どこか決まり悪そうに乾いた笑いを立てた。

すると今度は先輩が、静かに口を開く。

「いや、悪いのは俺の方だ」



「雪ちゃんの言う通りだよ。俺がどうかしてた」

先輩は尚も言葉を続けた。

その謝罪に意外そうな顔をしている雪の隣で。

「亮のことは俺が口出しする問題じゃなかったのにな。雪ちゃんもそこら辺分かって行動してると思うし」



それに、と彼は雪の方をチラリと見て言った。



雪は真っ直ぐに先輩の方を見つめている。

「急に無視したり冷たくなったり、そういう行動、これからは気をつけるよ。

この前もそうだったよな」




二人の脳裏に、雪が合コンに行った次の日のやりとりが思い浮かぶ。

あの時も彼は雪を無視して、冷たい態度であしらった‥。




彼は珍しく幾分狼狽するような素振りで、言葉を続ける。

「どうして時々子供のようになってしまうのか、自分でも分からないんだ」



そんな彼の姿に、雪はその意外な一面を見る。



前に二人が和解した時も、そうだった。

それまで傲慢で堅苦しいと思っていた彼が素直に謝ったことで、雪は彼に対する印象が少し変わった‥。

  




雪は下を向きながら、その決心の全てを口にした。

「私も‥努力します。お互いに嫌なことがあったとしても全部忘れて‥」



「これからは失望することや不満に思うことがあれば、すぐに話し合って‥だから‥」

たどたどしく言葉を紡ぎながら、雪は先輩の方を見た。

口元に僅かな微笑みを湛える雪に、彼も柔らかく微笑んだ。

「‥私も、先輩も」  「ああ」




「俺、雪ちゃんを怒らせるようなこと絶対しないよ」 


「はは、本当ですか?約束ですよ?」


二人の間にある空気の温度が、ゆっくりと上がっていく。

そして次の瞬間、雪のお腹の虫が大きく鳴いた。



ぐうう、というその音に雪は赤面し、今日はろくに食べられなかったんですと言ってお腹を抑えた。

それもそのはず。もう時刻は深夜三時を回っており、二人は夕飯もまだだった。

すると先輩がブランケットの下から、ビニール袋を取り出して中を探る。



先ほど買ってきたのだが忘れていたと言いながら、中の物を取り出した。


「はい」




彼が取り出したのは、コンビニのおにぎりだった。

雪がきょとんとしてそれを目にする。





なんの変哲もない、コンビニのおにぎり。





けれど二人の間には、共通の記憶があった。


あのあまりにもぎこちない、コンビニでの食事。






しかしあのコンビニでのひとときこそが、今の二人を形作る出発点になった。




「バクダンは無かったよ」  「あれはレアですからね」












あの疑心と不信とぎこちなさでいっぱいだった雪の心は、

確かに前に進み、今彼と向かい合おうとしている。


彼もまた、雪を興味の対象としての存在から、

”彼女”として、特別な存在として、今彼女と向かい合おうとしている。








二人はもう一度ここから、二人を始めるのだ。











ジュースもあるから、と言って先輩は雪に袋の中身を勧めると、

自らおにぎりを剥き始めた。

あの時とはまるで違い、きれいなおにぎりが出来上がった。

「もう上手に剥けますね?」



そして彼は雪に向かって口を開く。

どこかで見たような表情で、どこかで聞いたようなその台詞を。

「俺に不可能なことがあると思う?」







夢の中の彼も、確かにそう言っていた。

あの時雪は何も言えなかった。

けれど今は、彼に向かって冗談も言える。


「見栄っ張り」 「え?俺がなにって?」




フフンと得意げな彼と、小さく吹き出す彼女と。





目を閉じて皮肉を返す彼女と、そんな彼女を横目で見ている彼と。







豪華な食事でもなければ、素敵な場所でもない、


ただのコンビニのおにぎりを、病院内の小さな椅子で。



そんな此処が彼氏と彼女としての、出発点となる。







二人は笑い合った。


消毒液の匂いに包まれた、温かな空気の中で。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<もう一度ここから>でした。


さて今回の話は「二人の再出発」という感じですね。台詞の無い最後のカットがとても好きです。

そしてこの一日の中で雪の靴の色がコロコロ変わりました‥。気づいただけでも三回‥。(^^;)







二枚目のやつ、上履きみたい‥。


次回は<それぞれの関係>です。

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<雪>彼女の中の喧噪

2013-11-13 01:00:00 | 雪3年2部(三者対面後~聡美父病院)
パチッと、雪は目を開けた。



一瞬何が起こったのか、自分がどこにいるのか分からなかったが、

凭れていたところからパッと身を離す。



隣の彼は、腕組みをしたまま眠っていた。

コックリコックリ、ゆっくりと船を漕ぎながら。



雪はその横顔を見ながら、複雑な気分に駆られた。

現実世界だけでなく、この人は夢の中でも口が達者だった‥。



すると手術室の扉が開き、聡美の父親を乗せた担架が出て来た。

手術は終了し、今からリカバリールームへ移るそうだ。



雪は突然の出来事に咄嗟に対応出来ず、横で眠る先輩の肩を揺すった。

先輩先輩、と雪は何度も呼びかける。



しかし先輩は唸るばかりで、一向に起きる気配が無い。

雪は深く眠りに入っている彼を前に、困り顔だ。



雪はブランケットを先輩に掛けると、

そのまま聡美達が居る病室へと向かった。









回復室にて、聡美が医師から説明を受ける。

雪と太一は、カーテンで仕切られた部屋のドア側で聡美を待っていた。



暫し時が経ち、説明の終わった医師が聡美に会釈して病室を出て行く。

繰り返し頭を下げる聡美の声のトーンは明るく、思わず雪と太一は笑顔になった。



聡美も笑顔で二人に向き直り、駆け寄った。

「峠は超えたって!運が良かったみたい」



その言葉に雪と太一は安堵し、彼女の父親の無事を心から喜んだ。

しかし聡美は、まだ手放しで喜ぶわけにはいかないようだ。

「‥だとしても当分は、リハビリを受けなくちゃいけないみたいだけど‥」



そう言って少し俯いた聡美の、滲んだマスカラで汚れた顔を雪は指で拭いてやる。

太一が力強く、しかし優しく、その肩を抱いてやる。

「すぐに良くなるって」 「そうっすよ、心配ないっすよ!」



聡美は二人に心からお礼を言った。

もう時刻は深夜二時を過ぎている。こんな遅くまで傍にいてくれたことに、聡美は感謝していた。



先ほど聡美の父親の友人から連絡が入り、もうじきここへ駆けつけるとのことだった。

姉もようやく飛行機に乗ったらしい。

聡美がもう大丈夫だからそろそろ皆も帰って、と言おうとすると、太一が強い口調でそれを遮る。

「オレ、ずっとここにいます」



聡美はそんな彼を、きょとんとした顔で見上げている。



二人はそれから、普段通りの調子で言い合いを始めた。

聡美が鼻をつまみながら、シャワーでも浴びてこいと太一にダメ出しする。

どうやら太一はゲーム三昧のあまり風呂に何日も入っていないようだ。



そんな聡美と太一の様子を見て、雪はようやく心の底から安堵した気がした。

非日常の中に戻って来た日常。それはこんなにも温かい。

「あっ」



不意に青田先輩のことを思い出し、思わず雪はそう声を出した。

そのまま二人に彼の元へと戻る旨を伝え、駆け出した。


















タッ、タッ、とペタンコの靴で歩く音が、

誰も居ない廊下に響く。





雪はぼんやりと一人歩きながらも、心の中で様々な想いが交錯するのを感じていた。


閑散とした病院の廊下を歩いている途中、

あらゆることが頭に浮かび、そして一瞬にして消えていった。




雪の脳裏に、今までの出来事の数々が走馬灯のように過っていく。

今まで自分の傍には誰が居ただろう。今まで自分の人生には何があっただろう‥。


家族、友達、同期、後輩、先輩、上司、先生、知り合い、隣人、彼氏、

モラル、態度、関係、礼儀、色々な思いや考え方










何人もの人が居た。

好きな人も、嫌いな人も、そのどちらでもない人も。


幾つもの出来事があった。

嬉しい事も、悲しいことも、そのどちらにも判断がつかないものも。


そしてその中に映る、曖昧な私の姿‥







雪は雪の人生の中で主役であるはずなのに、

彼女はどこかぼやけた自分自身のイメージを、その走馬灯の中に見た。

様々な人の色々な思い、それが彼女の心を揺らし、騒がし続けていた。








雪は吹き抜けが見渡せる場所で、幾つもの光の粒が舞う外の風景を見た。

彼女は一人でありながら、一人ではなかった。




三年生の夏休みの半分が、こうして過ぎていった






時の流れと自らの運命を、彼女はただそのままに享受する。


心の中を賑わすその喧噪に、必死に耳を傾けながら。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<<雪>彼女の中の喧噪>でした。

さて<<淳>彼の中の静寂>と対称になっていたのがお分かりになりましたでしょうか?

二人は同じシチュエーションで同じ場所を歩いているのですが、

心の中はまるで正反対ですね。

誰も居ない淳と、沢山の人が居る雪と。

これがピントのズレに繋がるんですが、残念ながらそのことに先輩が気づいていないですね‥。


さて次回は<もう一度ここから>です。



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夢の中で<黒い服>

2013-11-12 01:00:00 | 雪3年2部(三者対面後~聡美父病院)
ふと、雪は目を開けた。

長く深い眠りの果てに、ようやく目覚めた気分だった。




しかし目の前には、信じられない光景が広がっていた。

落ち着いたボルドーのテーブルクロスの上に、揃えて置かれたカトラリーが光っている。

皿に盛られた高級な料理の数々、ワインにキャンドル‥。




雪は思わず辺りを見回した。

どうなってしまったのだろう。



しかし視線を先まで伸ばしていくと、この光景の全てが見渡せた。

長いテーブルの先に、彼が座っている。



彼は下を向いて食事をしていたが、雪の視線に気がつくとニヤリと笑った。

いつか見たことのあるような、あの奇妙な笑顔で。



「先輩?!」と雪が声を発すると、

彼は「お腹が空いただろう?」と話し掛けてきた。



「いくらそれどころでは無かったとはいえ、夕飯は食べないとね」と言って、

優雅な仕草でステーキを切る。

雪は彼に質問をした。私はいつの間にここへ来たんですか、と。

「俺が連れてきたんだよ」



雪はその答えに驚愕した。

一体どうやって連れて来たというのか、再び雪は彼にそう質問した。

「俺に不可能なことがあると思う?」



自信満々にそう答えた彼を前にして、雪はあんぐりと口を開けた。

未だこの状況が飲み込めないでいる。



雪はテーブルの上の高級料理の数々を見て、当惑し始めた。

雪が夕食をご馳走するという約束になっていたが、こんな高額はとても払えそうにない。



雪はそのことを彼に伝えると、彼は「俺が払うからいい」と素っ気なく言って、

そのままワインを手にとった。



高そうなそれに、美味しそうに口を付ける。

雪の心はそわそわとして落ち着かない。この光景に当惑してつい忘れていたが、今は深刻な状況の最中では無かったか。

「あの‥今はまだ聡美のお父さんの結果も出てないのに、こんなことしてる場合‥」



そこまで言ったところで、彼はワイングラスをタンッと大きな音を立て、テーブルに置いた。

遠く離れた席に座っていても、顔を顰めたのが見て取れた。

そして彼は口を開いた。呆れたような表情をしながら。

「君はここへ来てまでも、いちいちそんなことを聞かないと気が済まないの?」



彼が手を広げる。

この素晴らしい食事を、共にする夕食を見ろと言わんばかりに。

「ようやくここまでこぎつけたのに、このまま気楽に食事をするだけではいけないだろうか?」



彼は言葉を続ける。

それは雪が心に秘めながらも拘ってきた、彼への不信の数々についてだった。

「俺が君の挨拶も無視して書類も蹴って、恥をかかせて嘲笑って助けもしなかったから、

もう俺とは食事をするのも嫌だ、ということ?」




いきなりの彼の言葉の数々に、雪は口をあんぐりと開けて固まった。

その心を覗かれているような感覚に、当惑して雪は口を開いた。

「いや‥どうして話がそんな方向に‥」



しかし彼は彼女の言葉を遮るように話を続けた。

真っ直ぐ彼女を見つめながら、瞬きもせず。

「君だって最初から俺を観察し続けていたくせに、俺の事には一瞬たりとも目を瞑ってくれないということ?」



彼は眉根を寄せながら、淡々と雪が気にしていたことを口にした。

「なぜそんな風に人の行動をいちいち詳細に問い詰めて、弁明を聞きたがるの?

自分のことは棚に上げて、どうして俺にだけ完璧を求めるの?」




彼は大きく手を広げながら、幾分大仰な身振りを付けながら話を続ける。

「努力しているにもかかわらず、相変わらず君との距離は縮まらない。そうだろう?」



「事あるごとに余計な推測をするのは止めにして、そろそろ自ら手を差し伸べてみたらどうなんだ?」

淡々と痛いところを吐く彼の言葉だが、雪は突然のその言葉の数々を受け入れるので精一杯だった。

ただ口を開けながら、赤裸々なその話が続けられるのを聞いていた。



彼がテーブルに肘を突く。

鋭い眼光が、長いテーブルを挟んで雪に注がれる。

「告白を受け入れた以上、その選択が失敗だったとしてもその責任を負うべきだ。そうだろう?」



どうしたい? 

そう言って彼は雪を見続けていた。



暗く、沈んだような色を帯びた瞳。

こんな瞳の色を、雪は去年何度も見たような気がした。

その目に映る自分の、怯えたようなその表情も。


そして彼は言葉を続けた。

「俺と、このままずっとこの距離を保ちたいの?」




遠い、彼との距離。

長いテーブルは心の距離そのものだった。

黒い服を着た彼は、奇妙な笑みを浮かべる彼は、雪の持つもう一つの青田淳の印象だった。


「それとも‥」





彼はその先の言葉は口にしなかった。

いや、出来なかった。

雪が目覚めたからだった。


黒い服を着た彼はそのまま、夢の中へ消えて行った。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<夢の中で<黒い服>>でした。

暗い背景、黒い服、高級時計、高そうな靴、奇妙な笑み‥。

<夢の中で<白い服>>では対称の、

明るい背景、白い服、素足、温かな微笑み‥。

雪の中にある相反する彼のイメージが、端的に表れた二つの夢のお話でした。

こういった意味深な話をぶっこんでくるチートラ、本当止められません‥。

そして次回もまた、対称を持つお話です。

<<雪>彼女の中の喧噪>です。

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<淳>彼の中の静寂

2013-11-11 01:00:00 | 雪3年2部(三者対面後~聡美父病院)
青田淳は、伊吹聡美と福井太一が居るはずの病室へと向かっていた。

薄暗い病院内を、一人歩いている。



病室に着き、室内を見回してみると、ぐっすりと眠る二人の姿があった。



淳は病室内をもう一度見回し、端の方の椅子に積まれているブランケットに目を留めた。

その内の一つを手に取る。雪に掛けてあげる為のものだ。



すると淳の足元に、何かがコツンとぶつかった。

見てみると、それはおもちゃの車だった。



淳が腰を屈めてそれを拾うと、一人の女性が駆け寄ってきた。

そのおもちゃの車は、弟の物だと言う。

「壊れたとか言って放り投げては見当たらないって大騒ぎして‥。ここにあったのね」



壊れているんですか? と言って淳は車をじっくりと見た。

おもちゃの車の手慣れた扱いに、女性は「もしかして直せたりします?」と彼を仰ぎ見て聞いた。



多分、と言って淳は頷き、懐かしそうに目を細めた。



子供の頃沢山持っていたと言って、ふっと微笑む。

その端正な顔立ちに浮かんだ柔らかな笑みを見て、女性の頬が染まった。



「こんなうるさいおもちゃの何がいいのかサッパリだわ」

女性はそう言って、幾分困ったような仕草をして見せた。



淳は車体をいじりながら、世間話のような調子で言葉を紡ぐ。

思い通りに動くから、子供達は皆好きなんでしょうと言って。

「ええ?あちこちぶつかってばっかりですよ?」



はは、と淳は笑って見せた。

そして、電池切れだと思いますと言って女性にその車を渡した。

淳は先ほど売店で買ってきた聡美達への差し入れを、袋から取り出しベッド脇に置く。



女性は車を受け取ると、「とにかくこれは隠しておかないと‥」と続けた。



どうしてですか? と淳が問う。

大丈夫ですよ、と言った後、言葉を続けた。


子供達はすぐに飽きてしまうから、と。




淳は聡美と太一を振り返り、彼らを起こしてしまうので僕はこれで、と言って病室から出て行こうとした。

しかし尚も女性は淳に話しかける。

「あの二人のお連れさんなんですか?」



女性は聡美と太一を見ながら、自分の推測を口にした。

「見た感じ入院患者さんではなさそうだし‥でもこの時間まで居るってことは彼女さん?

あ、違うかな? 他の男の人もいるもんね」




女性の推測に対し、違いますよと言いながら淳は笑う。

再び聡美と太一を振り返りながら、大学の後輩ですと答えた。



女性はどこの大学かと聞こうと身を乗り出したが、

ではこれで、と言って淳はそのまま背を向けた。



女性が彼を惜しんで舌打ちした。


















コツ、コツ、と革靴の足音が、


誰も居ない廊下に響く。





淳の指が、トントンと動いている。


これは彼の癖だった。


心の扉が開いている時の、無意識な癖。





自分の足音しか、聞こえない空間。


彼は一人だった。








廊下を歩いているうち、吹き抜けが見渡せる場所に差し掛かった時、彼は立ち止まった。


開けた空間。


窓の外に浮かぶ、ぼんやりと灯る光の粒。





淳は見とれるように、その場に立ち尽くした。


ゆっくりと辺りを見回す。



   




横、前、下‥と、淳の顔が動く。







そこには、無人の空間が広がっていた。


下のロビーにも、吹き抜けで見渡せるどの階の廊下にも、誰も居ない。


  


青田淳は今この空間の中で、一人きりだった。


己のみで完結している、簡素で、そして完璧な世界。


立ち止まった今、自分の足音さえも聞こえない。


静寂が彼を包み込み、そして彼はそれを享受する。







騒がしい人々の声も、いつも晒されているその視線からも、彼は解き放たれた。


口元には自然と、笑みが浮かんでいた。






淳はその時呟いた。


たった一言だけ。




ああ、静かだ。



たったそれだけを。























淳が手術室の前に戻ってくると、そこに彼女は座っていた。

淳はゆっくりと近寄る。



彼女は眠っていた。

頭を前に傾げ、ヨダレを垂らして熟睡している。



淳はそんな彼女を見て、

ふっと微笑んだ。



持って来たブランケットを広げて、彼女に掛けてやる。



淳はそのまま彼女に向かって手を伸ばし、

顔に掛かった髪の毛を、そっと耳に掛けてやる。



眠っている彼女の顔が露わになる。

淳はそれを見て、笑みを浮かべた。




目の前に居る彼女、赤山雪が、長い睫毛を伏せて寝息を立てる。





その顔を眺めながら、淳は満足そうに微笑んだ。





先ほど伊吹聡美と福井太一のことを、”後輩”と呼んだ声が蘇る。

目の前のこの子も、後輩である。

しかし、ただの後輩ではない。



淳は確かめるように、声に出した。



「俺の彼女‥」






言葉にしたら、それは確信となった。

他とは違う、特別な存在。同じ世界の狭間を生きる、唯一の理解者。


淳はもう一度その事実を、声に出して享受した。



「うん、俺の彼女だ」





淳はようやく見つけ出した答えを愛おしむように、真っ直ぐに彼女を見つめた。



淳の瞳の中央に、雪の姿が映る。


それは暗く静謐な場所に灯った、一点の光明だった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<彼の中の静寂>でした


病院内で一人笑みを浮かべる青田淳‥。やっぱり変わってますね、この人は。

皆様もお気づきでしょうが、おもちゃの車のところの会話は、彼が周りの人々や自分の人生に対する彼自身の感想を暗喩したものです。


そして最後の「俺の彼女」。

今回はそこだけ先輩のセリフとして青で反転させました。

雪に関わる度出てくる、自分でも予測できない感情に振り回され苛立っていた先輩は、「俺の彼女」と

言葉にすることで、彼女の存在と自分の感情をようやくまるごと受け入れることが出来たのでしょうね。



<淳>扉の開いた日(下)が、先輩→雪への第一のターニングポイントだとしたら、

この回が第二のターニングポイントかなと思ってます。なので同じ表現を少し入れてみました。気づく方いらっしゃるかな^^


さて次回は<夢の中で<黒い服>>です。

2013.10.12の記事、<夢の中で<白い服>>と少し対になった話でもあります。



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ズレたピント

2013-11-10 01:00:00 | 雪3年2部(三者対面後~聡美父病院)
未だ”手術中”のランプの灯る部屋の前で、

雪と淳は並んで座っていた。



二人の間に会話は無く、ただ時計の秒針だけがカチカチと無機質に響いていた。

当然雪は落ち着かない。ソワソワと身を震わせて、一人煩悶していた。



そんな雪の姿を見て、淳が「あまり思い詰めない方がいい」と言葉を掛ける。

大丈夫だよ、と断言に近い口調で言葉を続けた。

「この病院には、脳専門の有名な先生がいるんだ」



その言葉に、雪は疑問を持った。

どうしてそんなことを知っているのか、と質問すると、先輩は「一度ここに来たことがあるから」と答える。

「柳のお母さんもここで手術したことがあるんだよ。その時知ったんだ」



先輩のその言葉に、雪は意外な思いがした。

頭の中ではいつもおちゃらけている柳先輩の姿が浮かぶ。



黙り込んだ雪を見て、先輩がまた声を掛ける。

「とにかく伊吹のお父さんは早期発見だったみたいだから、無事手術は成功すると思う」



そう言って淳は息を吐いた。

隣で俯く雪の、心がまた騒ぎ始める。



こんなことになるなんて、まさに青天の霹靂だ。

聡美の父親に、柳先輩のお母さんが‥。

雪は落ち着かなくなって、手術室のランプをじっと眺めた。

中年世代の親が倒れて手術するこんな状況‥。

心配はしてたけど、周りで実際こんなことが起こるだなんて‥。全く思いもしなかった‥




人生は何が起こるか分からない。災難はいつ自分に降り掛かってくるか予測出来ない‥。

雪は今回のことを受けて、自分の両親のことが心配になった。そして勿論聡美のお父さんのことも。

「‥‥‥‥」



再び考えこんで下を向いた雪の肩に、先輩がそっと手を置いた。

「そう心配しないで。絶対助かるよ」



冷静な彼のその言葉を、雪は何も言わずにただ受け入れていた。



そして二人は再び黙り込んだ。

手術中のランプをぼんやりと眺めながら。












一時間経ち、二時間経ち‥。

気がつけば夜十時を過ぎていた。


二人は何も話さず、粛々とただその場に座っていた。



コックリ、と雪が頭を前に揺らす。

眠気が襲ってきた。



「眠い?少し寝た方がいいよ」



いきなり先輩から声を掛けられ、雪はよだれを垂らしながらもビクッと跳ね起きた。

手で口元を拭きながら、居住まいを正す。

「い、いえ‥聡美のお父さんが大変な時に‥」



そう言って目を覚まそうとする雪に、淳は疑問を持った。

「雪ちゃんが寝たからって、伊吹のお父さんの容態が悪化するわけじゃないだろう?

俺が起こしてあげるから、少し寝ときなよ」




彼の言葉に、雪は微妙な気持ちになった。

二人は揃って口を噤む。



それはそうかもしれないが‥。

雪は愛想笑いを浮かべなから頭を掻いた。先輩は何も言わない。



再び落ちた沈黙の間で、雪は自分の父親のことを考えていた。

そういえばうちのお父さんも高血圧だって言ってたっけ‥。

脳に問題が起きない可能性も、なくはないとか言ってたな‥。




雪の心に不安の芽が顔を出す。

あの‥と先輩に向かって話しかけた。

「柳先輩のお母さんの事なんですけど‥その後は無事良くなられたんですか?」



その質問に、淳は答えを言い淀んだ。

しかし口ごもりながらも、「亡くなったんだ‥」と彼女に事実を伝えた。



雪が大学に入学する前の、昔の話だと淳は続けたが、雪の顔は青くなるばかりだ。

先ほど顔を出した不安の芽が、心の中で大きくなる。



こういった災難も他人事ではないと、急に実感したように雪は動揺した。

淳はそんな雪を見て、彼女が聡美の父親のことで不安がっていると思い、背中に手を回す。

「心配?だからって不安がることはないよ。きっと大丈夫だから」



先輩の言葉を聞いても、どこかチグハグな印象を受けた。

雪が今不安を感じているのはそういうことではないのだ。

どこか遠い話だと思っていたことが、実際に起こりえるということが実感されたリアルさに、雪は恐怖を感じていた。




不意にエレベーターが開き、救急搬送されてきたらしい患者を乗せた担架がそこから出て来た。

救急隊員や看護師が騒がしく目の前を横切って行く。



担架に乗せられた患者の腕に、血が滲んでいるのが見えた。

雪はそれを見て顔面蒼白になり、思わず息を呑んで先輩の方へ身を寄せた。



体を震わせている雪を見て、淳は彼女の肩を掴んだ。

先ほどから彼女の行動や言動が、淳には理解不能だった。

「雪ちゃん、さっきから一体どうした?疲れてるなら横になった方がいい」



大丈夫だから、と言葉を続ける淳に、雪は「そうじゃなくて‥」とオズオズ返した。

「ちょっと怖くって‥」



そう言って手術室の方を見る雪に、淳は目を丸くした。

「何が?」



淳には意味が分からなかった。

病院やこういった状況が怖い、と答えた彼女も理解不能だ。

「? 病院なんだからこういう状況も当たり前じゃないか」



当然のようにそう言った淳に、

雪は「だからその‥人が‥倒れたり‥そういうのが‥」と言葉を続けた。



それは様々な思いや、自分の両親への心配などが含まれた恐怖だったのだが、

淳はそのまま言葉通りに受け取った。

「大丈夫大丈夫。その為の手術なんだから。

慣れない状況だからそう思うんじゃない?怖がることないよ」




そう言って雪の頭を優しく撫でる彼の、眼差しは穏やかだった。

雪の心が少し落ち着く。



しかしどこかチグハグな思いは捨てきれずにいた。

こういった状況で頼りにはなるけれど、どうも先ほどからピントがズレているような気がしてならない‥。



そんな雪の心のざわめきなど知る由もなく、先輩は柔らかに微笑んでいる。

彼の手は髪から耳を伝い、雪の頬を優しく撫でていた。



すると手術室の扉が開き、中から人が出て来た。

伊吹さんの御家族の方、と二人に声を掛ける。



俺が行ってくる、と先輩がそちらへ向かい、説明を受けた。

雪が不安そうにそれを見つめる。



雪のもとに戻って来た先輩は、

「まだ数時間かかるけど、とりあえず経過は良好だって」と彼女に伝えた。



心配いらないよ、と言葉を続けた先輩に、雪がほっと息を吐く。

そして安堵のあまり、そのまま椅子にへたり込んだ。



緊張の糸が切れたのか、眠気が一気に襲ってくる。

もう目を開けていられないほどだ。

うう‥しっかりしなきゃ



なんとか気力を振り絞り目をこする雪の肩に、先輩は優しく手を置きながら声を掛けた。

長くかかりそうだから少し眠った方が良いと。

「ブランケット借りてくるよ」



そう言って廊下を歩いて行く彼の、後ろ姿をぼんやりと雪は眺めた。

頭の中がボーッとしてくる。

‥疲れがどっと出た気分‥。昨日も先輩のことでほとんど寝てないし‥



帳が落ちるように、瞼が閉じていった。

そしてそのまま深く深く、雪は眠りに落ちていった。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<ズレたピント>でした。

最初読んだ時は、先輩の物事の捉え方のピントがズレているだけの話だと思っていましたが、

記事を書いていく内に、雪の先輩との接し方にも問題があるのだなと感じました。

雪が自分の両親のことを心配して、災難は身近に起こりえるということへの恐怖を感じているという場面がありますが、

雪は一言もそのことを口にしてませんよね。(雪は自分のことを話すことが不得意というのもあるでしょうが)

思っていることは言わないと先輩には伝わらないよ、ということを雪に伝えたい(そんな読者のもどかしさ‥)。

先輩の他人への共感能力がとても低いのも大いに問題ですが、それ以上に雪も自分の考えていることの半分も伝えられていない。

だからこそのピントのズレ、つまりお互いへの誤解、不理解なのかなと思いました。

腹を割って話したところで、お互いを理解できないかもしれない。

でもそれをすることこそに意味があるんだよ、ということを二人に伝えたいなぁ‥。

次回は<<淳>彼の中の静寂>です。

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