YUKI

言語、言語で表現できることすべて

Ⅰ Contrast

2004-12-22 13:32:22 | Weblog
英語での論理展開は、contrastがよく使われる。
西洋の論理は二項対立的論理であることが多いということも関連するだろう。
特に、日本語と英語ほど好対照な言語はないので、日本人英語学習者は、それぞれの言語の特徴を比較対照して、よく認識しておく必要がある。

まず、視点の問題。

英語には論理的に一貫した視点・基準を確保しようとする傾向があるが、日本語では視点は移り変わる。
Do you like cats? Don't you like cats?
英語では、どちらの質問でも、I like cats.であればYes.と答えることになっている。
I don't like cats. ならNo.だ。
あくまで、「自分の答えの内容」を基準としている。
ところが、否定疑問文への答え方は日本語では逆になる。
「猫は、好きではないのですか?」「いいえ、好きですよ。」
好きか嫌いか、自分の答えの内容が同じでも、相手の質問の仕方に合わせて、「はい」と「いいえ」が使い分けられる。
日本語の場合、基準は「相手」にあるのだ。

実際の私の授業では、YesとかNoは、日本語には訳させない。
和訳したがる者には、混乱するからやめなさい、と指導する。
YesとNoの使い方について、その理屈が分かっていれば、十分ではないだろうか。

さらに、英語では「時制の一致」という現象がある。
主節の述語動詞が表す「時」を基準として、従属節の「時制」をその基準に合わせるのだ。
Tom said to Jane, "I love you."
Tom said to Jane that I loved you.
日本語では、二文とも次のようになるだろう。
『トムはジェインに「愛してるよ」と言った。』
日本語では、時制の一致は起こらないのだ。

英語の「時制」には、過去時制と現在時制があり、述語動詞の語形変化により時制が表される。
進行形は進行相(aspect)であり、完了形は完了相。
未来形は、法(mood)であり、willなどの法助動詞を使って表す。
法や相は、ある動作や状態を話者がどのように捉えているのかを表す概念。
時制に法や相が加わり、色々な事態を表現することになる。

日本語の時制概念はどうなのだろう?
日本語文法の決定版とでも言うべきものはあるのだろうか?
寡聞にして知らないが、ここで問題にすべきは、日本語の「た」だろう。
「た」は、完了相を表したり過去時制を表したりする。
「終わった!」これは、完了相だろう。
「1年前、君に出会った。」これは、過去であろう。

「た」が何を表すか、はっきりしない場合がある。仮定法を訳した場合だ。
「法」なのだから、時制は関係ないだろう、ということも言えるのだろうし、実際、仮定法が表すのは「実現可能性」であるのだが・・・
I wish I were a bird.
I wish I had been a bird.
どちらも「鳥だったらなあ」と訳すのは問題だと思う。
何らかの訳し分けが必要だし、少なくとも「た」にsensitiveになるべきだ。

英語での「視点・基準」は、首尾一貫し、論理的である。
日本語のように、相手に合わせたり曖昧であったりすることはない。

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Knowledge is Power

2004-12-21 09:24:15 | Weblog
言語を使うために必要な言語知識を得る。
これが言語学習のはずなのだが、最近は、output面ばかり強調されているようだ。
確かに、outputしてfeedbackがあれば、その言語知識は定着する。
しかし、task活動などばかりやっていては、化石化のように、有用ではない形で間違った言語知識が定着してしまう可能性もあるだろうし、その知識量もたかが知れている。

さて、日本語と英語で、完全に1対1対応している言葉は存在するのか?
knowledgeと知識も、やはり、その意味は異なる。
ここで強調しているのはknowledeの方であるのは、言うまでもない。
knowledgeにはhow とwhatがあり、前者は手続き的知識であり、自転車に乗るとか、英語音で正確に発音することなども含まれ、その手続き自体の言語化が難しいこともある。後者は、言語化可能な「~に関する知識」である。
さらにKnowledge is power.という表現に表れているように、knowledge=power=abilityなのだ。
ちょっと辞書を引けばわかるように、power=力、ではない。
power=能力、と考えた方がよほど正確だ。
knowledgeがある、ということは、英語では、もともと、「~できる」ということなのだ。

学校文法に分類文法的側面が強いことが、知識は役立たない、という偏見を育てているのだろう。

分類文法としての学校文法を越えて、日本人英語学習者に必要な最低限のknowledgeは何なのか?
残念ながら、このことをテーマにした著作は、無い、という現状だが、このテーマに沿って論述していくのが、このblogの目的だ。

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communication

2004-12-17 15:29:07 | Weblog
人文科学で扱う諸概念のなかで、およそ、informationとならんでcommunicationほど幅広く曖昧な抽象概念はないだろう。
communicationって何ですか?
という質問でworkshopを始める英語教育学者もいるくらいだ。
英語教育学者の間でも、非常に浅薄な理解にとどまっている人も少なくない。
よく見聞きする定義に、communicationを構成するcompetenceを4つほど挙げてsocio-linguistic competence etcという定義があるが、「海外の文献も読んでますよ~」というミエ以外、とくに意味はないようで、定義としてうまく機能しているとは思えない。
学習指導要領に実践的コミュニケーション能力という言葉があるが、「実践的でないコミュニケーション能力は存在するのか?」という質問が、学習指導要領作成に関わった人のなかで為されたという。もちろん、解答出来た人はいなかったそうだ。

まず、communicationとは非常に大きな概念なので、言語教育においては「言語によるコミュニケーション」と限定する必要があるだろう。
verbal communicationよりもnon-verbal communicationが情報量も重要度も上だ、と誤解する人がいるようだが、たとえverbal messsageとnon-verbal messageが矛盾した場合、人間は後者に基づいて判断し行動するとしても、日常的なcommunicationにおいて言語の果たす役割は、やはり、primaryと考えざるを得ない。

communicationとは何か、定義論争にあけくれるのは不毛なことだろう。
いくつかの了解事項で十分だと思う。
その一つは、communication能力は言語能力と等しいものではなく、より大きなものだ、ということ。
また、実際のcommunicationとcommunication能力は次元の違うものだ、ということ。
英語の知識がそれほどなくても、高いcommunication能力を発揮できる人もいるし、その逆も。
communication能力には言語能力とは違った、固有の領域があるのだろう。
だから、communication能力を高める、というほとんど実現不可能な目標を立てるのではなく、実際のcommunicationに役立つ言語知識を、使えるような状態で習得するという具体的な目標にするべきだろう。
英語という言語を使って、何ができるのか、何がしたいのか、それを考え学習するという、ごくあたりまえのことが最も大切だと思う。
実際、使える言語知識を学ぶこと以外、学習者に何ができるのだろう?

言語知識じゃないんだ、communicationなんだ!とわめく前に、自分のその言葉が何を意味するのか吟味するべきだ。
正常な判断力を失っていなければ、、それが、実は何も意味していないことに気付くだろう。


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Foreign Language or Second Language?

2004-12-16 19:38:14 | Weblog
日本人英語学習者向け、見落とされがちな?留意点について少しばかり体系的に述べていきたい。

はじめに

外国語と第二言語という概念は、非常に重要なので、言葉の定義からはじめよう。

日本国内では英語は外国語。普通の人は、日常的には生存のために使ってはいないのだから。
第二言語は、広い意味と狭い意味がある。
広い意味では、外国語を含む母語(母国語ではない)意外の言葉。
狭い意味では、その人の母語以外の言語で、日常的に生存のために使う言語。
日本人が英語圏で生活すれば、その人にとって、英語は(狭い意味の)第二言語になる。

以上の点をはっきりさせておかないと、果てしなく混乱してしまう。
学習の目標や方法が二者では、大きく異なるからだ。

第二言語であれば、Survival Toolとしてその人の生活や仕事にあった特定の英語を徹底して習得させる必要がある。
そして、目的がはっきりしているし、needsもmotivationも高いから、習得も速い。
外国語となると、学習の目的や動機付けは人それぞれで、習得のスピードも遅い。

現在の日本では、communicationという名のもとに、外国語と狭い意味の第二言語を果てしなく混同している。
確かに、巷に英語が氾濫しているように見えるが、実際のところ、一体どれほどの人が英語をSurvival Toolにしているのだろう?

英語は外国語。その認識から始めるのが最も現実的だと思う。

次は、communicationについて、述べていこう・・・

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